ピノー・コレクション 収集の経緯と私設美術館「ブルス・ドゥ・コメルス」について
はじめに
美術作品のコレクターたちは、収集した作品を自室で保管・展示するだけでなく、ときに公の場で公開する。その方法は、美術館へ寄託や寄贈するなど様々あるが、そのうちの一つが私設美術館の開設である。例えば、美術商のエルンスト・バイエラー(1921-2010)は、スイスのバーゼル市に約400点の収集作品を公開する「バイエラー財団」を、広告業界で成功を収めたチャールズ・サーチ(1943-)は、ロンドン市に1万4,000点以上の作品を保管する大規模な「サーチ・ギャラリー」を開設している。ほかにも私設美術館を開設したコレクターは数多くいるが、本研究ノートで取り上げるのはフランソワ・ピノー(1936-)である。
ここで実業家として著名なピノーに着目することは些か疑問に思われるかもしれない。だが、彼は1万点以上の美術作品を所有しており、それらを歴史的建造物を改築した3館の私設美術館で展示している。特に、「ブルス・ドゥ・コメルス」が開館された当初は世界各地で報じられた*1。しかしながら、それらの多くは時事的な紹介に過ぎない。したがって本研究ノートでは、近現代美術コレクターであるピノーのコレクションの形成過程、3館の私設美術館、そして歴史的建造物と作品の関係について考察していく。
*1 たとえば、日本での報道には次のような記事が挙げられる。飯田真実、美術手帖「パリの新現代美術館『ブルス・ドゥ・コメルス』がついにオープン。ピノー・コレクションが解放する自由とは?」、https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/24081(2022.12.19 閲覧)。イズミ・フィリ=オオシマ、Casa BRUTUS「安藤忠雄の最新作、ついにオープン!パリの現代美術館〈ブルス・ドゥ・コメルス〉、その全貌にせまる。」https://casabrutus.com/posts/188376(2022.12.19 閲覧)。
1. 実業家がコレクターになるまで
フランソワ・ピノーは、ラグジュアリー系コングロマリット企業「ケーリング」を起業し、成功を収めたフランスの富豪の一人である。しかし、はじめからラグジュアリーの分野で立身出世を目指したわけでも、先に述べたように美術へ関心を寄せていたのでもなかった。本章ではまず、彼の経歴を概観しつつ、コレクターになるまでの経緯を確認する。
1936年、ピノーはフランス北西部ブルターニュ地方の開墾されて間もないコート=ダルモール県シャン・ジェロー地区で木材会社を営む家に生まれた(図1)。会社を継ぐために、彼は10歳から6年間レンヌのサン・マルタン学校の寄宿生として高等教育を受け、1956年からは2年間ほどアルジェリア戦争に従軍した 。
1959年に父親が他界すると、ピノーは会社を売却し、翌年にはレンヌにあった木材会社「ゴーティエ兄弟」に就職した。入社後しばらくして令嬢のルイーズ・ゴーティエ(1940-)と結婚してからは、新たに「ピノー建設」を創業して類稀な経営手腕を発揮した。
「ピノー建設」は最初こそ建設業を専門に取り扱っていたが、後にラグジュアリー系事業へ参入する。それは、マリヴォンヌ・キャンベル(1941-)との出会いによるところが大きい。1965年、29歳でルイーズと離縁したピノーは、34歳のときにレンヌで骨董商を営むマリヴォンヌと再婚した。上流階級出身で18世紀美術を愛好する彼女の嗜好に触れることで、彼は次第にラグジュアリー分野と美術作品へ興味を向けはじめる。
ピノーが最初に美術作品を手にしたのは1972年である。このとき、彼はポール・セリュジエ(1864-1927)の《ブルターニュの農園》(1891)を購入した(図2)。本油彩画は、朝焼けか夕焼けかのような陽光のなかで俯く一人の女性と二羽のガチョウを描いた、牧歌的な風俗画である。彼はなぜこの作品を選んだのだろうか。2018年のインタヴューで次のように答えている。
農場にいるこの女性は、私の祖母を思い出させる。現在も家にはこの絵があって、毎朝、朝食をとりながら思わず見惚れています。*2
*2 Raphaëlle Bacqué, "François Pinault, le collectionneur" , Le Monde, le 22 Juin 2018. (En ligne : https://www.lemonde.fr/m-gens-portrait/article/2018/06/22/francois-pinault-le-collectionneur_5319320_4497229.html, consulté 19 Décembre 2022).
絵画に描かれた人物や風景は、ピノーにとって故郷のブルターニュ地方を想起させるものであり、購入から半世紀近く経った現在も大切にしている様子が窺える。このように、彼の作品収集は故郷を懐かしむところからはじまったのである。
1980年代以降より本格的に作品収集を開始したピノーは、ブルターニュ主題の作品を求めてポン゠タヴェン派*3やナビ派、そしてフランス近代絵画へと興味関心の幅を広げていった。だが、これら作品の多くは既にミュージアムや個人の所蔵であり、市場には殆ど出回っていなかった。そこで彼は、当時オークションで売り出し中であった20世紀の美術へと目を向ける。
*3 フランス語の綴りは「École de Pont-Aven」。日本語では「ポン=タヴァン派」とも表記されることもあるが、本稿では慣例に準じてブルターニュ地方特有の発音方法である「ポン=タヴェン派」と表記する。
1990年5月1日、オークション会社サザビーズのニューヨーク支店で、ピノーはピート・モンドリアン(1872-1944)の《菱形の絵画 II》(1925)を800万ドルで競り落とした(図3)。このオークションでは、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)の《ガシェ医師》(1890)も出品された*4。以前の彼ならば当然ゴッホの落札に注力したであろうが、こちらの競売には参加すらしなかった。モンドリアンの競売を担当したサザビーズの元社員が「1990年のモンドリアンの購入が、彼にとって 20世紀への扉を開く決定的なものになった」*5と推察するように、この購入は、ピノーが現代美術収集へ舵を切る契機になったのである。
*4 余談だが、《ガシェ医師》は現時点で2点あることが確認されている。1990年5月のサザビーズに出展された《ガシェ医師》は、大昭和製紙(現日本製紙)の会長(当時)であった齊藤了英(1916-1996)が約125億円で落札した。しかし、彼の死後より作品は所在不明となっている。もう1点は、1982年よりオルセー美術館に所蔵されている。
*5 La Gazette Drouot, “Marc Blondeau, les risques du métier”, https://www.gazette-drouot.com/article/marc-blondeau-les- risques-du-metier/3153 (consulté 19 Décembre 2022).
以降、ピノーはサイ・トゥオンブリー(1928-2011)やドナルド・ジャッド(1928-1994)、ダン・フレイヴィン(1933-1996)などの20世紀の美術作品を意欲的に収集した。とはいえ、これらを収集した当初には投機の目的もあったようだ。例えばロバート・ラウシェンバーグ(1925-2008)の《判じ物》(1955)は、1991年にチャールズ・サーチが730万ドルで購入し、翌年、ピノーが同額で買い取ったが、2005年にはニューヨーク近代美術館へ3,000万ドルで販売している*6。
*6 The Art News Paper, “Pinault sells Rauschenberg to MoMA for $30 million”, https://www.theartnewspaper.com/2005/07/01/pinault-sells-rauschenberg-to-moma-for-dollar30-million (accessed 19 December 2022).
2. 私設美術館を建てるまで
1999年、63歳のピノーがこれまでに収集した作品は、約3,000点にのぼっていた。彼はパリ郊外南西部のセーヌ川に浮かぶセガン島(自動車メーカーのルノー社の工場跡地)に美術館の設立を計画し、2001年には建築家の安藤忠雄(1941-)を起用して床面積3万2,000平方メートルもの設計案を構想した(図4)。しかしパリ市との折り合いがつかず、2005年に交渉決裂となった。
この計画は頓挫したものの、2000年代後半にピノーはヴェネチアにパラッツォ・グラッシ(2006-)とプンタ・デッラ・ドガーナ(2009-)を開館した(図5)。いずれもウォーターフロントの歴史的建造物で、前者は18世紀にヴェネチア共和国の宮殿として建てられたのち20世紀には自動車メーカーのフィアット社がメセナ活動に用いた建物で、後者は17世紀から続く関税局の建物であり、双方とも安藤の改築を経て美術館となった。これらの美術館では、ピノー・コレクションを中心とする企画展覧会を年に2回ほど開催している*7。
*7 パラッツォ・グラッシでの最初の展覧会「我々はどこに行くのか?」は、ボストン美術館所蔵のポール・ゴーガン(Paul Gauguin, 1848-1903)の傑作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこに行くのか?》(1897-1898)から命名されている。ここからも、ピノーのフランス近代絵画に対する強い関心が窺える。
そして2021年、ピノーは一度は白紙撤回となったパリ市での私設美術館として新たに「ブルス・ドゥ・コメルス」を開設した。この美術館は、これまでに建てられた2館と同様に歴史的建造物を改築したものである。まずはその建物の歴史を見ていこう。
1232年、ジョン2世(ソワソン伯爵)はレ・アール地区に邸宅を建造した。以降この建物は王侯貴族の邸宅として利用され、1572年にはカトリーヌ・ド・メディシス(1519-1589)が王妃の館に改築した(図6)。その後、1740年にパリ市に寄贈された建物は、穀物卸市場として利用するために1763年から4年にわたって改築され、現在のような円蓋の建物となった(図7)。
1880年代初めに利用が減少した穀物卸市場は、証券取引所へと建て替えられる。このとき、天蓋の下部には新たにパノラマ壁画が施された。この壁画には貿易取引先であるアメリカ、ロシア、アジア、そしてヨーロッパが描かれており(図8)、パリ市の主要な建築物の天井画を数多く手がけていたアレクシス=ジョゼフ・マゼロル(1826-1889)を統括者に、ジョルジュ=ジュール=ヴィクトル・クレラン(1843-1919)、エヴァリスト=ヴィタル・リュミネー(1821-1896)、ディジレ=フランソワ・ロージェ(1823-1896)、マリー=フェリックス・イポリット=リュカス(1854-1925)によって制作された。証券取引所は第四回パリ万国博覧会でエッフェル塔と同時にお披露目となり(図9)、その後、1986年には歴史的建造物に登録され、1998年まで実際に利用された。
このような歴史をもつ建物が、ピノーの私設美術館となる過程は以下の通りである。2014年、パリ市長アンヌ・イダルゴ(1959-)は市内に点在する古い建造物を活用する民間企業を募る政策「再創造パリ」を公布した。かねてよりパリ市での美術館建設を夢見ていたピノーは、もちろんこれに名乗りを上げ、候補地としてこの証券取引所が選ばれた。2017年、安藤とフランスの建築家ピエール=アントワーヌ・ガティエ(1959-)による証券取引所の改修がはじまり、工事の延長やコロナウィルスの流行による延期を受けたものの、2021年5月22日に美術館「ブルス・ドゥ・コメルス」として開館した(図10)。
この建物の活用にあたり、パリ市とピノーの子会社のあいだでは、テナント料として最初の2年間に1500万ユーロ(以降は6万ユーロと売上の5%)、年間1000万ユーロの活動費用などを条件として、50年間の建物使用許可の契約が結ばれた*8。以上のような経緯で、ピノーは念願であったパリ市での私設美術館建設を果たした。
*8 Valérie Duponchelle et Béatrice de Rochebouët “La Bourse de Commerce, prochain rendez-vous de l’art contemporain”, Le Monde, le 27 juin, 2017.
3. 歴史的建造物と現代美術が出会うとき
ブルス・ドゥ・コメルスでは、開館記念として「開幕(Ouverture)」と題された展覧会(2021年5月22日ー2022年1月30日)が催された。ピノーは、この展覧会の抱負を次のように語る。
私は、自分が評価する、あるいは長年親交のある美術作家たちに美術館を開放することにしたのです。[…中略…]彼らの作品は安藤忠雄が修復や改築した証券取引所の特異な精神と見事に共鳴しています。[…中略…]ブルス・ドゥ・コメルスは、美術への情熱を共有している人たちはもちろん、むしろ最も離れたところにいる人たち[…中略…]など、多様な大衆に開かれているのです。*9
*9 François Pinault “Ouverture par François Pinault”, in Catalogue Ouverture, Martin Bethenod, Grégoire Robinne (eds.), (Bourse de Commerce Pinault Collection), Paris : Édition Dilecta, 2021, p.9.
すなわち、ピノーは自身のコレクションをただ公開するのではなく、美術作品と展示空間である証券取引所の双方を世に開こうとしている。
さて、この展覧会では年齢も国籍もバラバラな32名の作家による187点の作品が建物の内外に展示された。出展作家のなかでも、ケリー・ジェームズ・マーシャル(1955-)、デイヴィッド・ハモンズ(1943-)、ミシェル・ジュルニアック(1935-1995)、シンディー・シャーマン(1954-)は、しばしば人種や性差の観点から論じられる作家たちである。特に、アフリカ系アメリカ人のマーシャルとハモンズの政治・社会的な主題を扱う作品は、パリ市立近代美術館やポンピドゥー・センターには一点も収蔵されておらず、ブルス・ドゥ・コメルスでこれらが紹介される意義は大きい。出展作品の一つであるマーシャルがベッドに臥る裸の黒人男性を描いた《無題》(2012)は、「ゴヤの《マハ》やマネの《オランピア》といった西洋の伝統を完全にひっくり返す」*10と紹介されたように、これまで殆ど黒人を主題に取り上げてこなかった西洋美術史に一石を投じている。展覧会図録でも「アイデンティティ、ジェンダー、セクシュアリティに関する問題への献身的で過激なアプローチの証人となる作品を紹介しています」*11とあるように、ブルス・ドゥ・コメルスは1980年代以降の多文化主義やソーシャリー・エンゲイジド・アートといった現代美術の傾向を積極的に取り入れていた。しかし、そのような姿勢のもとに開かれたこの展覧会には「壮大な証券取引所と安藤による厳かな美しい壁は魅惑的で驚嘆するものだが、[…中略…]作品群はすべてピノーの個人的な宝物であり、単なる付随的な装飾物にすぎない」*12という批判も寄せられた。上述したような作品の政治性や社会性はおろか、作品を壮麗な建物の附属物だとしかみなしていないのである。
*10 The New York Times, Roger Cohen, “A Self-styled ‘Troublemaker’ creates a different Paris museum”, https://www.nytimes.com/2021/05/25/arts/paris-bourse-de-commerce-francois-pinault.html (accessed 19 December 2022).
*11 Martin Bethenod, “Une saison manifeste”, in Catalogue Ouverture, Martin Bethenod, Grégoire Robinne (eds.), (Bourse de Commerce Pinault Collection), Paris : Édition Dilecta, 2021, p.19.
*12 The Spectator, Rupert Christiansen, “Pari’s glittering new museums”, https://www.spectator.co.uk/article/paris-s-glittering-new-museums/ (accessed 19 December 2022).
このような批判とは裏腹に、作品と建物の歴史が結びついた例もある。ハモンズの《軽犯罪者の刑務所》(2007-2020)は、彼がカリフォルニア刑務所へ訪れた経験をもとに制作した鉄製の簡易ベッドと石に結びつけられた鍵束、そしてヴィデオからなる作品だ(図11)。本作品は、ここが証券取引所であった際に制作された壁画《貿易航路図》(1888-1889)の前に展示されたことで紙面を賑わせた(図12)。一例として、Art Reviewをみてみよう。
小さいながらも印象的なデイヴィッド・ハモンズの回顧展は、1階で開催されている。[…中略…] 有難いことに、植民地時代の重苦しい雰囲気が漂う建物で作品を展示する皮肉さを忘れていないハモンズは、死刑囚の侘しい独房を引用する身震いするようなインスタレーション作品《軽犯罪者の刑務所》を、ヨーロッパの富を築いた奴隷制度の後の海上貿易航路をたどる2枚の巨大な古地図の壁画と対置させて展示することを求めた。*13
*13 Art Review, Louise Darblay, “What François Pinault’s Bourse de Commerce Means for the French Artworld”, https://artreview.com/what-francois-pinault-bourse-de-commerce-means-for-the-french-artworld/ (accessed 19 December 2022).
ここでは、《軽犯罪者の刑務所》と《貿易航路図》が対照的な関係を取り結ぶことが指摘されており、ハモンズの作品は帝国主義と植民地政策下の世界貿易により証券制度が発達したという、証券取引所設立の背景となる歴史を強調する。それは逆もまた然りで、《軽犯罪者の刑務所》は《貿易航路図》と対置されることで、奴隷制度と貿易で富を築いたフランスの植民地時代を想起させるという、本作品の制作背景とは全く異なる意味を獲得している。つまり、ホワイトキューブ空間では生じ得ない作品と展示空間の双方が影響しあう関係が結ばれているのである。
このような作品と展示空間の影響関係は、ピノーの美術館だけでなく、国際展覧会や国内の地域アートにおける歴史的建造物を活用した現代美術の展示を考える上でも重要な観点となるだろう。
おわりに
本研究ノートは、フランソワ・ピノーの半生とコレクションの形成過程、そして私設美術館の成り立ちを確認し、歴史的な空間における作品の展示について一考察を加えたものである。ピノーの収集活動は郷愁からはじまり、フランス近代絵画から20世紀の美術へと拡大していた。美術館構想は二転三転しながらも最終的に3館が建てられ、これら歴史的建造物を改築した展示空間では作品が建物の歴史を強調する一方で、作品が新たな意味を帯びるといった、双方が影響しあう作用が働いていた。
ブルス・ドゥ・コメルスは、現代美術と歴史的建造物の関係をみる上での一つの好例といってよいだろう。今後も同美術館の活動に注目していきたい。