第16回研究発表集会報告

シンポジウム 映像と時間 レトロ/プロ=スペクティヴについてのいくつかの覚書

報告:馬定延

日時:2022年11月12日(土)16:30 - 18:30

基調講演 ホー・ツーニェン(アーティスト)
新井知行(YPAM – 横浜国際舞台芸術ミーティング)
木下千花(京都大学)
大坂紘一郎(アサクサ・京都芸術大学)
司会:馬定延(関西大学)


ホー・ツーニェン氏は、1976年シンガポール生まれの現代美術作家・映画監督である。映像、舞台芸術、執筆に至るまで多岐にわたるホー氏の作品世界には、歴史的・哲学的なテキストや人工物への取り組みから出発して、東南アジアをはじめとする様々な地域における植民地主義の遺産とそれに内在する矛盾と多義性に言及しているものが多い。

まだ記憶に新しいのは、日本で制作・発表された、《旅館アポリア|Hotel Aporia》(あいちトリエンナーレ2019、2019年)、《ヴォイス・オブ・ヴォイド — 虚無の声| Voice of Void》(山口情報芸術センター[YCAM]、2021年)、そして2021年の秋から2022年1月まで豊田市美術館で行われた大規模の個展「百鬼夜行|Night March of Hundred Monsters」であろう。当初から連作として企画されたわけではないが、これらの作品群は非公式的に「日本三部作」とも呼ばれており、作中の小津安二郎の映画、京都学派、妖怪など、古くて新しい題材を通じて多様な観客の関心を引き寄せ、それらの歴史的かつ今日的な意味を批評的に更新したと評価される。

本シンポジウムは、ホー氏の作品をめぐる議論の重点を「制作の方法論」の方に移して、その文脈をより包括的に理解することを目的に企画された。そのタイトルは、約20年にわたる芸術実践の中核となる概念から「映像と時間」となった。ちなみに「時間」は、現在制作中の新作と深く結びついている概念でもある。

冒頭、会場の照明が暗転して、最初期から2021年の作品まで、おおまかに時系列に沿って選ばれた12本の作品の抜粋と展示風景で構成された約16分の映像が上映された。それに引き続き、映像の中の作品を紐といていく「レトロ/プロ=スペクティブについてのいくつかの覚書」という基調講演がはじまった。英語による講演は、通訳を介す代わりに、事前に翻訳された原稿を会場とzoomウェビナーで日本語の字幕をリアルタイムで掲示する形で行われた。これは、レクチャー・パフォーマンスの形式を借りて、ホー氏の声と言葉を可能な限りありのまま観客と共有するための工夫だったが、結果として観客側の情報処理に相当な負荷がかかったことは企画者としての反省点である。ひとつの言語ともうひとつの言語の間を行き来するために必要とされる時間を最大限に省いた今回の運営は、一般観客向けのイベントでは成立しがたいものであり、表象文化論学会の「知性」に甘えた実験的な試みだったことをここに告白しておきたい。

13シンポジウム_2.jpg

基調講演は、シンガポールを「ライオンの都市」を意味する「シンガプーラ」と命名したとされる神話的な人物をめぐる作品《ウタマ — 歴史に現れたる名はすべて我なり|Utama - Every Name in History is I》(2003)から始まった。福岡アジア美術館のコレクション[1]でもあるこの作品は、少なくとも次の二つの点においてホー氏の芸術実践の出発点として位置付けられる。まず、未来を管理する目的で、現在の権力によって作られる、過去に対する単一のナラティヴとしての「歴史」に対する問いかけである。唯一の起源に完全に還元できない不分明さというのは、シンガポールの建国の歴史だけに当てはまるものではないだろう。実際に東南アジアに生息したのはライオンではなく、トラであり、この「起源的な誤認の瞬間によって周縁化され、亡霊化された形象」は、後にホー氏の作品に繰り返し登場することになる。そしてもうひとつは、ホー氏の作品における映像=イメージが、合成(compositing)と圧縮(compression)を特徴とする、ある種の「地層」として作られているということである。この点は、近年におけるアニメーション技法の採用、半透明または多孔質のスクリーンの使用、展示空間内のスクリーンの配置などとも緊密に繋がっている。

[1] https://faam.city.fukuoka.lg.jp/collections/2671/

次に取り上げられた《4 x 4──シンガポール・アートのエピソード|4 × 4 – Episodes of Singapore Art》(2005)の最初のエピソードは、シンガポールの近代絵画の先駆者として知られる、チョン・スー・ピエンの《熱帯の生活》(1959)を活人画(tableau vivant)で再構築している。《旅館アポリア》を記憶している聴衆ならば、この初期作品に登場する、伝統的な村の人々を描いた絵画のフレームから歩き出して、近代的な建設現場という映画的空間へ入っていく「顔のない少年」を見て驚くに違いない。少年のさまよう空間を「異なる複数の時間性の引力が作用する場」だと説明しながら、ホー氏は次のように述べた。「過去は残存/固執します。現在は存在します。未来は主張/要求します。(The past persists. The present exists. The future insists.)」

第16回研究発表集会のポスター・デザインにも用いられた《不可知の雲|The Cloud of Unknowing》(2011)は、第54回ヴェネチア・ビエンナーレのシンガポール館で発表され大きな反響を呼び起こした後、翌年に森美術館のMAM PROJECT16として展示された作品である[2]。空白のスクリーンから始まって、展示空間のスクリーンが雲のような白い煙に覆われながら終わる演出からはスペクタクル的な性格が目立つかもしれない。しかし、講演の中で強調されたのは、中国の絵画における雲の表現や空白・空虚をめぐる東洋思想の影響であり、そこからは《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド — 虚無の声》へと展開されていった京都学派の哲学、とりわけ「絶対無」という概念に対するホー氏の関心の種のようなものを見つけることができた。

[2] 当時の日本語タイトルは《未知なる雲》。本報告では、豊田市美術館のカタログ(2021)の表記に従って《不可知の雲》を使用した。

《一頭あるいは数頭のトラ|One or Several Tigers》(2017)は、ヨーロッパによる植民地化によって消えていった、マレー世界の初期アニミズム的な宇宙観を象徴する動物、トラを扱っている。トラは、2012年から開始して現在も進行中である大規模なメタ・プロジェクト《東南アジアの批評辞典|The Critical Dictionary of Southeast Asia》の一部でもある。「一つの宗教、言語、政治システムによって統一されたことのない、東南アジアという地域の統一性を構成するものは何か?」という問いからはじまった辞典のプロジェクトは、2017年には《CDOSEA》[3]という、ウェブ上の映画としても展開される。そこでは、インターネットで収集されたフッテージが別の文脈に「転用(repurposing)」され、アルゴリズムによってリアルタイムに自動編集されていく。後半の質疑応答で議論された通り、固定された既存の文脈と意味を脱構築するイメージの転用は、ホー氏にとって重要な制作の方法論であり、彼はそこから生まれた自身の作品ですら、固定された表象になることを拒んでいる。つまり、原理的には永遠に変化し続ける《CDOSEA》は、映像編集に例えて言うならば無限の書き出し(render)と見なすことができるのであり、ホー氏は、念を押すかのように言った──それは「モデル」だと、「正しい」モデルではなく、「ただの」モデルだと。

[3] https://cdosea.org/

東京都現代美術館と国立国際美術館などを巡回した「他人の時間」展を通じて日本の観客に紹介された《名のない人|The Nameless》(2015)は、ライ・テクとして知られるものの、30個以上の別名を持ち、本名は未詳である、元マラヤ共産党書記長・三重スパイについて語っている。この謎の人物を描いているナレーションの背後に流れているのは、香港の俳優トニー・レオンの出演した映画の断片を流用して作られた映像である。オリジナルの映画の文脈に回帰しようとする視覚的イメージと、それらに上書きされたナラティヴの衝突が観客を引き込んでいくのだが、ホー氏はこれを「二重の時間性」と呼んだ。ライ・テクという人物に対するホー氏の関心は、2019年にTPAM – 国際舞台芸術ミーティング in 横浜で上演された演劇作品《神秘のライ・テク|The Mysterious Lai Teck》(2018年)からも窺われるが、彼のようなスパイや裏切り者を、単なる道徳的、倫理的基準で裁かれるべき対象として断定するのではなく、その人の生きた時代における地政学的諸力が投影される「スクリーン」として捉えるアプローチが興味深い。

イメージの「転用」とそれによって付与される「二重の時間性」は、《旅館アポリア》(2019)への入口である。現在の場所に復元移築された元料理旅館、喜楽亭の空間に、第二次世界大戦の時代を生きた歴史的な人物を「客」として招いたという設定のもと、観客は四つの間を移動しながら作品を鑑賞するようになっている。作家自身のカメラを通さず、フッテージの再編集によって作られた映像のほとんどは、一部の史料を除き、「客」でもある小津安二郎の映画と横山隆一のアニメーション、ウェブ上の動画の転用である。その映像の上に流れるのは、制作期間中にホー氏と制作関係者三人の交わしたメールの断片からなるナレーションである。喜楽亭の時間、映画やアニメーションの中の時間、制作期間という時間、そしてそれら時間の地層としての映像を見ながら、消された顔の上に何かを想像・投影する観客の時間がもう一つの層として積み重なっていく。

1980年の光州事件の40周年を記念する委嘱作品として制作された 《易経四十九掛|The 49th Hexagram》(2020)は、1890年代から1980年代までに起きた民衆による抗議運動を素材にする2Dアニメーションである。異質的な内容を扱っていながらも、技法と制作過程の面において、この作品がその前後に日本で制作された作品群と切り離せない関係を持っていることが基調講演の中で明らかになった。注目に値するのは、平壌のスタジオにアニメーションの制作を依頼することによって必然的に生まれる現実的な「制約」あるいは「検閲行為」に、新しいイメージ制作の可能性を見出している点である。絵画、木版画、映画などから集められた素材から韓国への参照点が見えないようにするために、全ての背景を取り除き、登場人物全員にマスクを被せて衣装を変えることにしたが、具体的にどのように変えるかは指示されず、北朝鮮側に委ねられた。ホー氏は、そこから生まれたイメージを朝鮮半島の南側の歴史的な表象と北側の再想像/再隠蔽の「合成」だと表現した。

合成されたイメージは、展示空間の中に投影された際にどのように「分解」されることができるのだろうか。それぞれ二枚組のスクリーンが前後、向かい合わせ、背中合わせになるように配置された三つの映像インスタレーションとVRの部屋で構成された《ヴォイス・オブ・ヴォイド — 虚無の声》の背景には、このような問いが介在していた。この作品では、空間的に「分解」されているイメージを「再合成」して世界を構築する役割が観客側に委ねられており、イメージ作りとしての鑑賞行為に対する作家のスタンスは、前作における北朝鮮との制作に類似している。本来ならば自由であるはずだった日本との共同制作は、コロナ禍による入国制限により全て遠隔で行われることになった。その物理的な隔たりが、前景と背景を分けて描いた後に重ねるアニメーションや過去における特定の瞬間に未来の時間を重ねるVR体験という作品の要素に反映されつつ、イメージとイメージの間の間隔と空白をめぐる作家の思考と発展的に接続されたことが印象的だった。

約20年の芸術的実践を振り返る基調講演の最後には、「百鬼夜行」展の中から《一人もしくは二人のスパイ|1 or 2 Secret Agencies》(2021)が取り上げられた。日本の伝統的な妖怪を再解釈した二つの作品を見た後に辿り着く空間に展示されたこの作品では、戦時中の日本の二つのスパイ養成機関を素材にする実写映画のフッテージとそれに基づいて作られた2Dアニメーションが、それぞれ反対側に配置されている二台のプロジェクターによって投影されて、一枚の多孔質のスクリーン上で合成された形で鑑賞される。のっぺらぼうという妖怪からモデリングされたアニメーションの中のスパイは、過去の作品に登場した顔無しの人物や東南アジアのスパイと重なりつつ、光によって空白に戻るスクリーンの中に姿を消していく。

「未完成で、不完全で、現実とは混同されないモデルは、(中略)『起源』にアプローチする一つの方法を与えてくれます。」そしてそれは、常に未来に向かって開かれており、次のより良い、より生産的なモデルを待ち望んでいるという言葉を持って、ホー氏は講演を終えた。

13シンポジウム_3.jpg

第2部では、それぞれ舞台芸術、映画、現代美術を専門とする新井知行氏、木下千花氏、大坂紘一郎氏が登壇し、基調講演を受けて議論を深めるための質問を投げかけた。このような座組は、異分野を横断するホー氏の制作の射程を反映したものであり、ホー氏は、個別の質問に対してひとつずつ回答する代わりに、三人の質問全てを受けた後に自由に「編集」して答えた。

《旅館アポリア》と《ヴォイス・オブ・ヴォイド — 虚無の声》の制作に関わった新井氏は、新作やあいちトリエンナーレ2019と関係づけて時間と空虚の概念について質問した。前者は、デジタル編集システムのリニアなタイムラインで象徴される直線的かつ不可逆的な時間の表象とその実践的な意味と、それに対する批判に対する意見を求めるものだった。また道教的空虚と仏教的空虚を対照的に取り上げた質問は、ホー氏の「空白のスクリーン」と通じる、空っぽであると同時に何かに満ちている空虚の概念を、京都学派の絶対無の概念に対する解釈として理解する可能性を問うものだった。

他方、木下氏の質疑は、基調講演で語られた主要な制作の方法論に焦点を当てていた。第一は、初期の作品から繰り返し登場する「顔無し」や「のっぺらぼう」の表象。第二は、クリスチャン・マークレーの《時計》(2010)とジャン=リュック・ゴダールの《映画史》(1998)と比較した映像素材の再目的化転用のプロセス。第三は、活人画に代表されるような意味を孕んだ瞬間(pregnant moment)と時間性。そして第四の質問は、なぜ日本なのか、日本に関するプロジェクトをシンガポールと東南アジア、韓国、北朝鮮に関わる仕事とどのように位置付けるかということだった。

最後に大坂氏の用意した質問は、観客側の視点から捉えた主体性の問題、絵画と演劇、時間/時計と帝国主義、アナキズムについての質問だった。ホー氏の作品の鑑賞体験の先に空白や虚無が設定されていると指摘した大坂氏は、スパイや妖怪のように幽霊的な存在や、顔を消された歴史的な人物など、映像の中で空洞化された主体と、スクリーンを含む空間全体を能動的に介入しながら解釈することを求められる主体としての観客の関係性について質問した。そこから絵画と演劇についてのアナロジーと観客との関係性に対する問いを引き出した後、なぜ時計なのか、なぜ時間なのか、と質問の射程を最大限に広げて質疑を終えた。

これらを受けて、ホー氏はどのような質問を選んで再配置しつつ、どのように答えたのだろうか。そのすべてをここでまとめるには、残念ながら時間と紙面が限られている。基調講演の全文と当日の質疑応答の詳細、さらにオンライン上の質問に対して後日ホー氏から送られてきた充実した返答などが掲載される予定である、次号の『表象』を参照していただきたい。

13シンポジウム_4.jpg



シンポジウム概要

近年、日本で制作・発表した《旅館アポリア》(2019年)、《ヴォイス・オブ・ヴォイド-虚無の声》《2021年》、《百鬼夜行》(2021年)を通じて広い関心を集めたアーティスト、ホー・ツーニェン(シンガポール、1976年生まれ)氏を招いたシンポジウム。ホー氏は未解決の諸歴史を再考するにあたって、ビデオ、アニメーション、アルゴリズム・システムなどのさまざまな実験を行ってきました。その批評的方法論に重点を置いた基調講演を受けて、これまでの20年の映像表現の実践から「時間」をめぐる新作へ導く航路を、3人の登壇者とともに探ります。【馬定延】

時間に対して、過去・現在・未来という、少なくとも三つの「層」あるいは種類について考察することができるでしょう。未来は、開かれていて不確定な、推測と予期の層であり、ユートピア/ディストピア的エネルギーの容器です。過去は、確定され凍結している層のように見えますが、実際には新しい言説の体制によって常に再演・修正・再構成されています。しかし、私にとってより重要なのは、過去の中に、再帰的・回帰的なある種のエネルギーが存在しているということです。それは、脱植民地化というプロジェクトのような、未完の何かとしての過去です。これらのエネルギーは、トラウマ、あるいは亡霊のように、絶えず回帰し現在に取り憑きます。つまり、私にとって現在とは、未来と過去の両方に向かって果てしなく分岐しつづける合成物のようなものです。この基調講演では、文字通りにであれ、隠喩的にであれ、制作のプロセスによって与えられる性質としてであれ、異なる時間性の共存で特徴づけられている諸映像に注目することで、過去20年(ほど)にわたる私の映像制作の実践を、回顧的(レトロスペクティヴ)/予測的(プロスペクティヴ)に概説することを試みます。【ホー・ツーニェン】

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、髙山花子、福田安佐子、堀切克洋、角尾宣信、居村匠
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2023年2月22日 発行