「聞こえない音の言説空間」の変容──「超音波」「低周波音」「体感音響」を事例に/岡野宏(電気通信大学)

本発表は、1970年代の日本で、発表者が「聞こえない音の言説空間」と呼ぶものの変容が起こったのではないかという仮説を「超音波」「低周波音」「体感音響」という3つの事例をもとに検証する。現段階では、発表者は「聞こえない音の言説」を「聞こえない音、すなわち何らかの理由によって可聴的ではない音ないし振動が、何らかの心身への働きを持つ」とする言説として定義している。その意味での最も人口に膾炙した「聞こえない音」は「超音波」であろう(なお、ここではそうした「働き」が事実として存在するかは棚上げにする)。

その上で、本発表では1970年代にこの言説空間の様態が変容したとの仮説を立て、その検証方法として、1950~60年代における「超音波」を巡る言説と、1970年代以降の「低周波音」および「体感音響」を巡る言説を、同時代の新聞・雑誌などの活字媒体を主たる検討資料とし、比較考察する。なお、各言説が表現される媒体の種類にはばらつきが存在するが、このこと自体もそれらの言説の特性を示している。

具体的な論点は、「聞こえない音」の働きが①非日常から日常の空間に移行し、②身体的な働きからより心的なそれへと強調点が移行し、とりわけ③「聴取」の周辺で形成されるようになる、というものである。ごく駆け足にだが、こうした傾向が「サブリミナル音源」などの1980年代以降の事象にも見られることが確認される。こうした変容が一定の広がりを獲得した背景には「安定成長」経済への移行という社会状況が存在すると考えられるが、その上で、発表者はこの変容を近代的な「主体性=主観性」(クレーリー)に対する懐疑ないし不安を示すものと理解している。

聴覚で捉える新海誠作品──モノローグ・シーンに注目して/中島望(学習院大学)

本研究では、聴覚的な側面から新海作品を捉え直す。従来の研究では、デジタル時代の恩恵を受けた緻密な風景描写(視覚情報)が新海作品の主な特徴として活発に議論されてきた。一方で、新海作品で頻繁に盛り込まれている自然音、生活音(効果音)や「モノローグ」(声)などの映像と共に鳴り響く「音」は、映像や観客に少なからず影響を与える重要な要素であることは間違いないが、先行研究では聴覚情報についてはあまり議論されていない。

本論では、映像作品研究において重視されつつある「音」の存在を、「効果音」「声」「音楽」という、アニメーションや映像作品全般の音の分類に則って抽出し、それら3つの音が同時に鳴り響くモノローグ・シーンに注目する。ここでは「効果音=自然音や生活音」「声=モノローグ、朗読」「音楽=BGM」とし、それぞれがミシェル・シオンのいう「画面内の音」「画面外の音」「非物語世界の音」に対応するかどうかを確認する。しかし本論では、この3つの音を個別に拾って分析するのではなく、同時に鳴り響く複数の音が一つのスクリーンに映し出される環境全体の中でどのように融合し、映像との関係性の中で機能しているのか、マリー・シェーファーのサウンドスケープ(=音の風景)の議論を援用しながら検討する。

彫刻と「場」、あるいは「場」の彫刻──日本におけるポストミニマリズム受容と「人間と物質」展に着目して/高橋沙也葉(京都大学)

1970年5月、第10回日本国際美術展(東京ビエンナーレ)「人間と物質」展は、「アンチフォーム」「アースワーク」「アルテ・ポヴェラ」といったミニマリズム以後の彫刻の転換を牽引した国外の作家らを国内の動向とともに紹介した。60年代末の日本では、包括的なカテゴリーとしての「概念芸術」、および「観念」と「物質」の二項を軸として新たな芸術の傾向が論じられていたが、本展のコミッショナーを務めた中原佑介は、人間と物質の関わり合いが起きる現場となった展示空間・展示場所もまた作品の重要な要素として前景化していることを指摘し、さらに「臨場主義」なる概念を提出した。この時期に中原に続く形で「人間と物質」展をめぐって彫刻と場の関係性を問う批評が複数発表されていることは注目に値する。

鈴木勝雄(2016)は「概念芸術」をめぐる議論を追った研究の中で、60年代末のアメリカを中心とするポストミニマリズムの実践もまた、60年代半ばより展開した「環境芸術」に対抗するものとして捉えられる「概念芸術」の批評と結びつきながら、藤枝晃雄らによって日本に紹介されてきたことを指摘している。本発表はこの時期の日本におけるポストミニマリズムの彫刻の受容に焦点を当て、その新たな動向がたしかに「概念芸術」と密接に関わり合いながらも、野外彫刻が探求した作品と空間や場との関わりという課題を引き継ぎ、「概念芸術」とは異なる「観念」と「物質」の関係性の可能性を開くものとしても論じられていたことを明らかにする。具体的には、議論の中心となった中原佑介、藤枝晃雄、峯村敏明らが野外彫刻展およびポストミニマリズムの動向について発表した批評を手がかりに、70年の「臨場主義」をめぐる議論を捉え直し、当概念、ひいては「人間と物質」展を60年代より続く美術市場・制度批判と体制批判の文脈の中で再考することを試みたい。

岡本太郎作品における現代性と呪術──《明日の神話》のイメージ分析を中心に/木下紗耶子(東京大学)

芸術家・岡本太郎(1911-1996)は30年代のパリで思想形成したのち戦後の日本で前衛芸術運動を展開した。岡本は50~60年代、縄文や東北、沖縄文化に関心を向けながら従来の美学を覆す「日本」の姿を思索したが、60年代後半頃より、大阪万博テーマプロデューサーとして世界各地の民族資料に接し、「日本」を超える、芸術の呪術性の探究を著述および制作の主軸に据えていった。

現在、渋谷駅にある壁画《明日の神話》(67-69)は、「日本」を巡る思索および、制作地・設置場所であるメキシコの文化にもとづくモチーフを複数取り込んだものである。すなわち、50年代より継続する原爆やメキシコ古代文明における供儀のイメージであり、岡本はここで、現代性を象徴する特権的な条件としての「核」の問題と古代の死生観の共存を神話として描きだそうとする。沖縄の御嶽で「空」の神秘性に接することで思考的展開を迎えた岡本にとって、この身振りは、「空」が喚起する死者や悲劇の記憶、およびそのイメージに人々を対面させ、世界に呪術的に働きかけることを試みるものである。

本発表では《明日の神話》の最初期のスケッチと下絵からそのイメージの生成に迫る。また、その同時期に、民族学・民俗学に接しながら探求された岡本の芸術思想について、雑誌連載「わが世界美術史」(1970)を中心に言説研究を行うことにより、《明日の神話》の多面的な解釈を試みる。