髙田翔「「象徴するものを象徴されるものそれ自体にする」──ヴァルター・ベンヤミンにおける星座−布置の前駆形態としての象徴的連関」は、ベンヤミンにおける「象徴」の概念に着目しながら主要著作および断片群を読解し、初期から晩年に至るベンヤミンの著作に一貫する概念布置ないし「真理」のシステムを炙り出そうとする野心的な試みである。
髙田が「象徴連関」と呼ぶ構造を通じて、ベンヤミンは「それ自体は真理ではないものの統合による真理の形成」を構想したとされる。言い換えれば、ベンヤミンが着目するのは、芸術作品ないし「認識」と真理の関係である。作品ないし認識はそれ自体は自立的・自己完結的であるが、同時に真理の断片でもあるという逆説的な関係を形成する。高田によればこの二元論は、ロマン主義論においては〈理想 Ideal〉と〈理念 Idee〉、翻訳論においては「創作」と「翻訳」のように変奏されるが、ベンヤミンはこの二元論における移行のモメントに一貫して目を向けており、ロマン主義論においては批評、翻訳論においては翻訳にその位置が与えられている。
髙田はこれを「〈理想〉から〈理念〉への移行としての〈象徴的連関〉の形成」として総括する。批評は絶えず断片を全体(真理)との関係において捉えかえすことで、〈理想〉から〈理念〉の見かけ上の対立を乗り越える。移行、高田はこのテーマをさらにさまざまなベンヤミンの著作(象徴と寓意、一回性と反復、仮象と遊戯…)に変奏し、後期ベンヤミンにおける「星座Konstellation」に〈象徴連関〉の理論の完成を見る。
ただし、司会の宮﨑からも指摘があった通り、ベンヤミンがその生前に提出したあまりに多く多様な諸概念・テーマ・モティーフを撚り合わせていく髙田の発表は、複雑さの面でも分量の面でも内容がむしろ拡散していくような印象を与えかねないものであり、おそらくベンヤミンの研究者以外にとっては、その議論の全容が見えづらかったのも事実である。このような大きな野心を持つ研究の場合は、テーマを細分化し、その一つずつを検証つつその一貫性を示すようなより長期間のプロジェクトが必要だろう。とはいえ、断片的な記述が多く、しかもその一つ一つが重く取り扱いづらいモティーフに塗れているベンヤミンの著作に統一された像を見ようとする努力は、今後とも続けられねばならないものである。
上田由至「「空間の生産」とユートピア的・ヘテロトピア的身体──ルフェーヴルとフーコー」は、ルフェーブルとフーコーの空間および身体論を比較検討する試みである。両者はともに近代的な社会空間に対するオルタナティヴを開こうとしたという点で共通しており、かねてより空間論の中で並べられてきた。上田は両者を比較する指標として身体の問題を導入することで、両者の関係を新たに描き出そうとする。
上田はまず「ヘテロトピア」をめぐる両者の差異(フーコー「ユートピア的身体/ヘテロトピア」1966年、ルフェーヴル「都市革命」1970年)を明示する。フーコーのヘテロトピアが──抽象的で想像的なユートピアと異なり──都市の中に具体的に実在しつつも「すべての場所の外部」にある「反場所」(精神病院、監獄、墓地、映画館、博物館、市場、サウナ、アメリカのモーテル、南米の家、植民地など…)を示すのに対し、ルフェーブルは弁証法的な図式からヘテロトピアを捉えている。ルフェーブルによれば、イゾトピア(同質性/秩序の空間)とそこから排除されるヘテロトピア(異質性の空間)は絶えず変転しうる差異によってのみ規定されているのであり、むしろその両者はつねにダイナミックな運動をなしている。その運動を駆動させるのは、ルフェーブルがユートピアと呼ぶ「都市の潜在的な中枢性」である。
ルフェーブルにおいては、このユートピアの発見は身体の運用と具体的に結び付けられている。上田がルフェーブルにおける「鏡」の比喩に着目しながら述べるところによれば、ルフェーブルは合理化・記号化され、調整された身体のリズム(労働のリズム)を別様に捉え返し、都市の生活に「生きられるリズム」を持ち込むことで、ユートピアへの接近が可能だと考えているわけである。しかし上田はルフェーブルの図式が、いまだ疎外/抵抗の図式にとどまっているのではないかと問題を提起し、フーコーの空間−身体論に向かう。
上田によれば対照的なのは、「鏡」の捉え方である。ルフェーブルにおいて「鏡」は、私を「私」という記号へと抽象化し、五感を視覚へと還元し、私を「私自身」から引き剥がす契機として批判的に捉えられていた。抵抗の可能性は、むしろ「鏡」の手前で、私が私自身の固有のリズムを回復するところにこそ存する。それに対し、フーコーにおいては、身体はそもそも「それ自体」としての本来的な空間を備えていない。それはあくまで諸々の事物の配置を可能とする極めて抽象的な「世界のゼロ地点」であり、「ユートピア」なのである。そのユートピアが一つの具体的な「ヘテロトピア」として統一され構成されるためには、鏡、死体、愛といった契機を介した「反照」ないし「折り返し」を経由する必要がある。
上田はバトラーを補助線として用いつつこの契機を権力の「身体的な書き込み」として理解する。私の身体はそもそも他者の経験あるいは権力によって初めてヘテロトピアとして構成されるのであり、そこにはルフェーブル的・疎外論的な「固有性の回復」というモティーフが入り込む余地はない。そしてフーコー/バトラー的な抵抗の可能性とは、むしろ権力による身体の生産のさなかで生じる、権力に対する「余剰」や「過剰性」である。他者の経験による身体の構成がもつ二重性こそが、身体における「異議申し立て」の可能性を開くだろう。つまり上田が的確に総括するように、ルフェーブルは空間を身体から捉え「身体による空間の生産」を論じ、フーコーは身体を空間から捉え「空間における、あるいは空間による身体の生産論」を論じるわけである。
上田の整理はとりわけ「鏡」の表象を介することで非常にクリアなものとなっている。他方で、上田は両者を単に対比するのみならず、「相補的な関係をもつ」と主張している。具体的には、論考末尾には、「「空間の生産」論に上記のようなプロセスで生成されるヘテロトピア的身体を導入することで、空間の生産におけるより複雑な権力と抵抗の関係を描くことができるのではないだろうか」という問いかけがなされているが、いまだこの両者をいかにして具体的に結ぶのかについては課題が残っているとも言えるだろう(質問もその点に関するものが多かった)。上田はそのヒントも示している。つまり、ヘテロトピアを資本制社会が自身の秩序を維持するために必ず産出してしまう「構成的外部」として解釈する方向性である。
大雑把には疎外論と社会構築論に対応する両者の立場──ともに行き詰まっているように報告者には思える──を結びつけることは、現代における「抵抗」の可能性を探るアクチュアルな思索として、聴講者を刺激するものであった。上田の今後の仕事が期待される。
森脇透青「前期デリダにおける〈言おうとすること〉と〈書こうとすること〉──現象学と批評を架橋するもの」は、報告者(私=森脇)による発表である。したがって批判的・客観的な報告は難しいが、総括を試みてみよう。デリダはその初期に、自身の課題を〈言おうとすること〉(le vouloir-dire)の脱構築として要約している。〈言おうとすること〉は一見抽象的な概念に見えるが、元はフッサールの「意味するbedeuten」の翻訳語として導入された語であり(『声と現象』)、したがってより一般的に言えば前期デリダの企図は「意味」の脱構築として総括することができよう。デリダはこの翻訳を通じて、伝統的な哲学を支えてきた「意味」の形而上学の諸前提──意味の自律性、不動性、意志による意味の透明な伝達可能性──を掘り崩そうとするのである。
上記の翻訳の事情もあって、デリダによる「意味」の脱構築は、概ね現象学の領域で捉えられてきた。これに対し森脇が着目するのは、『声と現象』(1967年)以前に書かれた文学論「力と意味作用」(1963年初出『エクリチュールと差異』1967年所収)である。これまで着目されることはなかったものの、デリダはここで〈書こうとすること〉(le vouloir-écrire)という概念を登場させている。〈言おうとすること〉とは異なりドイツ語に対応を持たないこの概念を通じて、デリダにおける「意味」と「意志」の問題系を複雑化させ、現象学論と文学論のあいだの一致と変動を見出すことが森脇の発表の骨子と言える。
森脇はまず〈言おうとすること〉に関してデリダのフッサール論の要点をまとめ、デリダがフッサールにおける「表現」概念が想定する「表現以前の層」を批判していることを確認する。デリダの読解によれば、フッサールは表現を論じる際(『論理学研究』および『イデーンⅠ』)、つねに表現を「表現以前の」内部が媒体を通じて外部へと「外出」することと捉えている。デリダによれば内−外の関係はそのように単純なものではない。「力と意味作用」においてすでにデリダはこの「内から外へ」の直線的なモデルを解体し、「記入(inscription)」の契機、すなわち内部から外部への移動の契機こそが意味を生成し、それどころか「内部」さえ規定すると主張していた。
他方でこの時期のデリダはその問題を単に言語の構造としてではなく、表現の契機における「書く者」の苦悩としても理解している。書き手はつねに想像力を介して〈書こうとすること〉を意志し、それ通じて記入に誘引されるが、その記入はつねにその当初の意味を別様に産出するため、書き手の意図を裏切り、不安に陥れる(デリダは「記入」こそが「内部」を構成するという逆説を主張する)。〈書こうとすること〉は書き手をエクリチュールへと誘引し、書くことの不可避性を浮上させるとともに、同時にエクリチュールは意図の伝達不可能性を引き起こす。森脇によれば、「記入」は意味の「不可避」と「不可能」を同時に主体に課し、不安を解消不可能なものとするのである。
このように「表現」の概念の脱構築は、『声と現象』以前からすでに具体的に行われていた。「力と意味作用」でデリダはきわめて数多くの議論を引用しているが(リシャール、ルーセ、ピコン、ハイデガー、ライプニッツ、ヘーゲル……)、森脇はとりわけアルトー、ブランショ、ヴァレリーについてのデリダの注釈を補助線として用いつつ、その議論を1962年の『幾何学の起源「序説」』に結びつける。ここでデリダが批判的に検討したフッサールの「カント的意味での〈理念〉」——不可能であるが目指されるべき目的——が、〈書こうとすること〉の契機においても見出されているのではないだろうか。デリダは晩年に至るまでこの目的論(差異の事実を抹消し、権利と事実を一致させるという目的)には一貫して批判的ではあるが、森脇によればその批判の力点は時期によって移動している。
少なくとも62-63年時点──「ロゴス中心主義の脱構築」というスローガンを掲げる以前──のデリダにおいて力点が置かれているのは、この目的論の宿命的挫折であり、そこから生じる不安の超越論性である。デリダはフッサールとアルトーのまったく異なるエクリチュールを、この「不安」において重ねているのではないかと森脇は示唆する。
上記のような議論は、デリダの一貫性と変遷を再考する余地を与えるものである。森脇によれば、それは前期デリダのみならず、「後期」の問題圏にも関わる。八〇年代以降、デリダは翻訳論や正義論等さまざまな領域で「アポリアの経験」(不可避かつ不可能な課題としての「決断」)を強調するが、記入が引き起こすアポリアは、この議論のプロト・タイプとも見做せるのではないか。
会場からの質問は主にbedeutenをle vouloir-direと翻訳するデリダの戦略についての基礎的な質問が多かったが、他にも指摘されるべき問題はいくつかある。(1)これまで数多くの先行研究が存在する現象学にまつわるデリダの議論については、より精密にフッサールに即した記述が必要であっただろう。(2)先行研究がほとんど進んでいないデリダにおける「現象学と文学」の緊張関係については、文学研究をも参照しつつ、より積極的なテーゼを打ち出すべきであったように思われる。(3)デリダの一貫性と変遷については、重要な指摘がすでに複数あり(サイモン・クリッチリー、東浩紀、マーティン・ヘグルンド等)、彼らの議論を踏まえたさらなる読解が必要である。
さて、おそらくは「現代思想」にカテゴライズされる哲学者たちについての発表としてまとめられたこのパネルにおいても、それぞれの目指すところは独自であり、「現代思想」の豊かな多様性を示す研究発表となっていたように思われる。三者いずれの発表も未完成な部分を多く含んではいたが、実証性を重んじながらもけっして些事にこだわるものではなく、それぞれの研究の独自の方向性とダイナミズムを示唆するものであった。三者の今後のさらなる発展が期待される。
「象徴するものを象徴されるものそれ自体にする」──ヴァルター・ベンヤミンにおける星座−布置の前駆形態としての象徴的連関/髙田翔
ヴァルター・ベンヤミン研究において象徴概念は、対概念とされる寓意(アレゴリー)に対してほぼ一貫して劣位に置かれてきた。
国内外問わず支配的であり続けてきたのは、寓意(アレゴリー)は象徴によって維持される全体性を断片化する鍵概念だが、対する象徴についてはベンヤミン自身が定義を可能とする明確な意味付けを断念したため、一貫した理解は不可能(Menninghaus,1986など)という見解である。
こうした見解を暗黙の前提に、研究史上、主著『ドイツ悲劇の根源』(1925)の序文「認識批判的序章」において提出されるベンヤミンの全思考の珠玉、真理のシステムたる星座-布置(Konstellation)もまた、『ドイツ悲劇の根源』本論の主題である寓意(アレゴリー)と密接な関係があると想定され、理解されてきた。
だが「認識批判的序章」にははっきりと、星座-布置を構想する「哲学者の本分」は「言葉における象徴的性格」の回復だと記され、若きベンヤミンはすでに1917年には「哲学とは、言語としての体系的象徴的連関(symbolischer Zusammenhang)の中で演繹された絶対的経験」と謎めいたメモを残している。
発表ではまず、時系列順に作品を追い、象徴への言及の一貫性を確認する中で、この「象徴的連関」に対応する記述を各主要著作の核心部分に見いだす。それを通じて、芸術作品において、原像(Urbild)と呼ばれるイデア的な真理の断片に従属していた、経験的な仮象(Schein)である言語が、この従属関係から離れ、相互に象徴を介して作用しあうことで真理を独立して再構成する──すなわち「象徴するものを象徴されるもの自体にする」、ある種のプラトニズムの転倒の試みとしての、この謎めいた「象徴的連関」の基本的性格を素描する。
その後、象徴への着目により明確化されうる以下三点から、象徴理論の哲学的特異さを彫刻し、星座-布置の理解への準備を整える。
①異なる認識作用である知覚と聴き取り(das Vernehmen)が、中間休止(Cäsur)と呼ばれる断絶を通じて、切断されるのでなく接続されるとする能力論
②初期の科学認識論から密かに継承された体系と潜在的な(virtuell)ものについての議論
③芸術作品に内包された、経験した当人すら忘却した記憶が、批評をつうじて他者によって想起され、真理へ組み込まれるという、真理と人間の具体的経験の結節点
最後に、象徴的連関の発展形に星座-布置を据えて初めて可能となる「認識批判的序章」の包括的理解の提示と、ドイツ悲劇本論における寓意(アレゴリー)と象徴の関係の、より大きな枠組みをつうじた再定義を図る。
「空間の生産」とユートピア的・ヘテロトピア的身体──ルフェーヴルとフーコー/上田由至(筑波大学)
アンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』(1974)をはじめとした空間論とミシェル・フーコーの「他者の場所」(1984)等で示された「ヘテロトピア」の概念は、今日において空間を論じる際の重要な参照項である。前者は物質的空間と心的空間という従来の二項対立的な空間概念を批判し「社会空間」概念を導入しつつ、空間は所与ではなく生産されるものであると主張して空間論を刷新した。後者は多岐にわたる形態の空間を包括する異種混淆的な概念であるが、それは「他なる空間」であるという共通点を持つ。
ルフェーヴルは空間と身体を相互につくり/つくられるものであるとし、その関係の重要性を指摘したが、上記二人の思想家をともに論じる先行研究(加藤政洋、Naglaa Saad M. Hassan等)ではその関係についての検討は不十分なまま残されている。たとえば、空間の「脱身体化」decorporealization(Derek Gregory)を批判するルフェーヴルが従来的な抑圧(疎外)/抵抗の二項対立を反復しているように思われる一方で、フーコーにおいては空間の生産や創造といった契機に重きは置かれないものの、ヘテロトピアと身体はより動的な関係をもつだろう。本発表ではフーコーの1966年のラジオ講演「ユートピア的身体」(2009)等も踏まえて、両者の空間‐身体論におけるこのような差異および類似点を抽出し、両者の相補性を導出することを目指す。これにより、空間の生産におけるより複雑な権力と抵抗の関係を探究することが可能になるのではないだろうか。
前期デリダにおける〈言おうとすること〉と〈書こうとすること〉──現象学と批評を架橋するもの/森脇透青(京都大学)
ジャック・デリダが『声と現象』(1967)で、フッサール『論理学研究』(1900)における表現/指標の区分について議論し、その区分を掘り崩そうと試みたことはよく知られている。この際、デリダはフッサールの「意味(Bedeutung)」概念を〈言おうとすること〉(vouloir-dire)と訳し、批判的に検討した。一方、あまり注目されていないが、『声と現象』に先立って書かれた「力と意味作用」(1963年初出)においてデリダは、文学作品の起源とその解釈をめぐる当時の議論を彼なりに引き受けつつ、〈書こうとすること〉(vouloir-écrire)という語を登場させている。ここでデリダはこの〈書こうとすること〉を、(ブランショとアルトーの議論に付き添う形ではあるが)意味作用のすべての「起源」であるかのように取り扱っている。本稿はこの〈書こうとすること〉が〈言おうとすること〉といかに交差し、また相異なるのかを検討するものである。
先行研究では、ヌーヴェル・クリティック批判である「力と意味作用」とフッサール批判である『声と現象』が結びつけられることは少ない。しかし、いずれの論考も「言語と主体の起源」をめぐって議論が展開されていること、さらにこのふたつの概念──〈書こうとすること〉と〈言おうとすること〉──が、「意志」(volonté)の問題系の周囲に配置されていることを鑑みれば、ふたつの論考が結びつけられるのは必然的であるように思われる。ただし、本稿はデリダの議論を文学に還元しようとするものではない。というのも、「言語と主体の起源」をめぐる問いそのものは、デリダがフッサール『幾何学の起源』(1936年執筆)の「序説」(1962年)においてエクリチュールの問題を提起したとき以来、一貫しているからである(事実「力と意味作用」にも『幾何学の起源』が引用されている)。本稿のねらいは、ふたつの論考の検討を通じて、前期デリダの横断的な議論の一貫性を示し、現象学と文芸批評というふたつの領域を架橋する論点を明らかにすることにある。