研究発表2
日時:2022年11月12日(土)10:00-12:00
- ダンサーの存在論と身体的実践の往還──土方巽の舞踏における立ち方に注目して/岡元ひかる(武庫川女子大学)
- 島岡達三の象嵌縄文に関する考察──「地」としての紋様という観点から/佐々風太(東京工業大学)
- ハンス・ゼードルマイヤによる大聖堂のイコノロジー/二宮望(京都大学)
司会:岡田温司(京都精華大学)
研究発表2では、舞踏家の土方巽、陶芸家の島岡達三、美術史家ハンス・ゼードルマイヤを主題とした三本の発表が行われた。
岡元ひかる氏による発表「ダンサーの存在論と身体的実践の往還──土方巽の舞踏における立ち方に注目して」は、立ち方に着目することで、舞踏家土方巽やその弟子によるダンサーの存在論を主客の緊張や拮抗という観点から捉えるものであった。
まず岡元氏は、土方へのインタビューや稽古場での記録、弟子へのインタビューをもとに、土方が対象、特に動物を表現する際、意識的に行うことなく、無防備な状態で表現することを念頭に置いていたと指摘する。これは主体であることと客体であることを同時に体験する時間意識であり、主客の一致と不一致の間を揺れ動く状態であるという。さらにその状態は、ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で語った「近傍の状態や識別不可能性」に類似するものであったと岡元氏は指摘する。
岡元氏が土方の弟子正朔に行ったインタビューによると、こうした状態を作り出すためには、足に体重をかけず、自らを「吊る」ように立つことが肝要であるという。この「吊り」の立ち方は、主客の緊張状態を体現するものなのである。さらにそれは、土方が執筆物や講演にて語った「蟹股」による立ち方とも接続されうるものであり、土方やその弟子たちによる立ち方の実践に、岡元氏は主客の間に生じる緊張や拮抗を見出す。
先行研究において土方の仕事は、ドゥルーズの生成変化論の生気論的な側面との関わりにおいて論じられてきたのに対し、岡元氏の発表は、土方の仕事とドゥルーズ=ガタリの論を「識別不可能性」や現在を巡る時間意識という観点から接続させるものであった。
質疑応答では、土方やその弟子が舞踏を語る際に特徴的な、メタファーによる語りについての質問が投げかけられた。岡元氏は、土方はある動きへの慣れ、すなわち固定された身体図式を拒絶することに重点を置いており、理解や慣れを妨げ、それらを攪乱させるようなメタファーを次々に投入していたのではないかとの見解を示した。一方で、弟子の語り口で使用されるメタファーはそれとは異なるものであり、そこに、新たな意味を獲得するというようなメタファーのクリエイティブな側面が表れを見ることはできないかという議論に発展した。
佐々風太氏による発表「島岡達三の象嵌縄文に関する考察──「地」としての紋様という観点から」は、陶芸家の島岡達三の象嵌縄文を、個性と無名性の止揚として捉えるものであった。島岡は象嵌縄文発案以前、師である濱田庄司から、濱田風の作品ではなく、個性あるものを制作するよう求められていた。とはいえ、濱田は新奇性やオリジナリティを追求することのない民藝運動に携わった人物であることから、濱田の言う個性という語は複雑なニュアンスを帯びていた。こうした濱田からの要求の中で生み出された、島岡独自の象嵌縄文は、模様を紐に託し、削ることによって「ギラギラした生の個性を消していく」手法によるものであり、それゆえに象嵌縄文は、個性と無名性を止揚する試みであったと、佐々氏は指摘する。
続いて、島岡作品における、象嵌縄文と赤絵・流し釉といった加飾の関係を、「地」と「図」の関係と理解することで、島岡が象嵌縄文という紋様を「地」、すなわち背景としていたことを佐々氏は指摘する。この手法もまた、象嵌縄文という個性を際立たせる一方で、それを背景に後退させる、あるいは覆い隠すことによって、その個性を消していくものとして理解できるのだという。
最後に、縄文土器から着想を得たものの、その文様は縄文土器よりもフラットにすることで成立する象嵌縄文の手法は、縄文土器の文様を図から地へと変容させているのではないかと佐々氏は指摘し、発表は締めくくられた。
この最後の指摘に対し、島岡の独自性はどこにあるのか、縄文文様を「地」とした点にあるのか、あるいは「地」の働きを促した点にあるのか、という質問が投げかけられた。佐々氏によると、島岡の独自性はその両方にあるという。縄文文様を背景とすることによって、それが特徴的になるという逆説的な手法こそが、島岡の独自性であると佐々氏は応答した。
二宮望氏による発表「ハンス・ゼードルマイヤによる大聖堂のイコノロジー」は、美術史家ハンス・ゼードルマイヤ『大聖堂の生成』(1950)を参照点とすることで、反近代としての中世回帰を描いた彼の歴史編纂のあり方を浮き彫りにするものであった。
まず、『大聖堂の生成』が、19世紀以来定着していたゴシック大聖堂に関する標準的な定式を拒絶し、特に「バルダキン構造体」に依拠することで、別の基準を探求するものであったことが明らかにされる。ゼードルマイヤは、空間内に光が充満し、天幕が宙に漂っているような詩的なイメージを、「バルダキン構造体」という建築構造に即して叙述した上で、大聖堂を天上のエルサレムの模像芸術として見なすという。二宮氏は、このゼードルマイヤによる模像説が、建築を非再現芸術として見なす西洋近代の建築史を転倒させるポテンシャルを持っていたと指摘する。
また、ゼードルマイヤの保守的な文化史観が表れた『中心の喪失』(1948)を援用することで、古典的ゴシックが近代の合わせ鏡として理解されており、大聖堂崩壊の危機の時代に、そのイメージの復元が目論まれていたことを二宮氏は指摘する。さらに、『大聖堂の生成』で参照されるサン・ドニ大修道院長シュジェの「光の美学」が、美術史的な考察対象としてだけでなく、歴史家としての構えを表す立脚点として機能していたことが明らかにされる。ゼードルマイヤにとって、「シュジェの眼」でもって歴史を再構成することが肝要であったのだという。
以上の報告から、『大聖堂の生成』では、大聖堂をイメージとして建て直すという使命を背負い、歴史的現在の外に読者を誘い出すことによって、歴史を再構成することが目論まれていたことが明らかになった。ゼードルマイヤは20世紀の実情であったはずの廃墟としての大聖堂を抑圧してまで、輝かしい大聖堂のイメージの再建を選び取ったのである。
質疑応答では、ゼードルマイヤが模像説による建築史の書き換えを行う際、非再現芸術としての建築史を相対化しているのか、あるいは自分の学説を絶対化しているのか、という質問が上がった。これに対し二宮氏は、非再現芸術としての建築は、古代、西洋近代、東洋にのみ見られる特異な事例で、エジプトやバビロニアなどを視野におさめた世界史的見方では、むしろ模像芸術として建築をとらえるというのは自然な考えであり、視野の「拡張」であるがゆえに、それは相対化でも絶対化でもありうると応答した。
ダンサーの存在論と身体的実践の往還──土方巽の舞踏における立ち方に注目して/岡元ひかる(武庫川女子大学)
舞踏家の土方巽が行った仕事は、哲学者ジル・ドゥルーズの生成変化論の生気論的な側面との関わりにおいて論じられてきた。その場合、踊る身体や土方のテクストを、内/外、主/客などの対立項が入れ替わる運動そのものと捉える傾向がある。
確かに土方はインタビューや随筆のなかで、異なる項が相互に作用するイメージへの関心を示していたが、ここでは必ずしも流動性や連続性が強調されてはいない。例えば70年代前半の彼は、ある二項が互いを「食べあう」運動の只中に出現する、受苦の様相を帯びた場に言及し、さらにその領域を「切羽詰まった」状態で立つ踊り手のイメージへ接続していた。土方はこうして、主体と客体のあいだに生じる緊張を生きる、「識別不可能性」(ドゥルーズ=ガタリ)の領域としての存在を描出した。それは土方によるダンサーの存在論として読むことができる。
というのも稽古での土方は、弟子たちにさまざまな状況を思い浮かべ、それによって自ら生理反応的・受動的な動きを引き起こすことを求めていたからである。弟子の正朔(せいさく)は、このパラドキシカルな状態に至るためには、足元に体重をかけず自らを「吊る」ように立つことが肝心だと述べていた。本発表では土方の言説、批評、および発表者によるインタビュー資料の分析を通じ、彼が言葉で展開したダンサーの存在論と、身体的実践の往還がいかなるものであったかを明らかにする。
島岡達三の象嵌縄文に関する考察──「地」としての紋様という観点から/佐々風太(東京工業大学)
陶芸家・島岡達三(1919-2007)は日本の近現代工芸の巨匠の一人として知られている。東京工業大学で学んだ後、民藝運動の指導者であった濱田庄司(1894-1978)に弟子入りして研究を重ね、「象嵌縄文」の創出に至る。象嵌縄文は、朝鮮陶磁器の象嵌技法と縄文土器の施文法を組み合わせたもので、組紐で素地の表面に施した陰刻に化粧土を埋めることで生まれる、島岡独自の紋様である。彼はこの装飾技法によって1996年、重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された。
とはいえ、彼に関する学術的な先行研究は質量共に不十分である。本発表では、その作品を特徴づける紋様である「象嵌縄文」の性格について考察することによって、島岡の作陶における「無名性」の問題について明らかにしていく。
発表者はまず、象嵌縄文の成立過程について、島岡の回想や、当時の濱田の島岡評などを手がかりとしながら確認していく。これにより、象嵌縄文の成立に、「個性」の「無名」化という島岡の問題意識が深く関わっていたことが明らかになる。続いて、島岡作品における、象嵌縄文と赤絵・流し釉といった加飾の関係、すなわち島岡作品における「地」と「図」の関係について考察していく。これにより、島岡が象嵌縄文という紋様をある種の背景(地)として念頭に置いていたことが明らかとなる。以上を踏まえながら発表者は、「無名」なる「個性」という島岡の問題意識と、「地」としての紋様である象嵌縄文の特質の関係性を指摘していく。
ハンス・ゼードルマイヤによる大聖堂のイコノロジー/二宮望(京都大学)
本発表の目的は、ハンス・ゼードルマイヤ(1896―1984)の大聖堂論を手がかりに20世紀ドイツ語圏で展開された中世受容の一局面を描き出すことである。「構造分析(Strukturanalyse)」という方法論を開拓することで芸術解釈の深化を試みたゼードルマイヤは、1930年代初頭、オットー・ペヒトらとともに「新ウィーン学派」の旗印のもとに注目を浴び、一時美術史学において影響力をもった。
本発表は、ゼードルマイヤの中世建築研究の集大成とも言うべき『大聖堂の生成』(1950年)の要点を確認することから始める。H.ヤンツェンから引き継いだ「ディアファーンな(半透明な)壁」と、ゼードルマイヤが独自に拵えた「バルダキン(天蓋)」構造をもってゴシック大聖堂の精髄とする大胆な解釈は、これまでの学説を退けるのに充分な新奇さを持ち合わせていたものの、文献解釈の偏りや恣意性など多くの問題を孕んだものとして出版当初から批判の的となった。とりわけ、大聖堂を「模像芸術(abbildende Kunst)」とみなすことで、建築のイコノロジーを目論む彼の企図は不評を買った。
本発表の意図は、この解釈の妥当性を実証的に検証することではなく、むしろ頑なともみえるゼードルマイヤのゴシック大聖堂解釈に思想史的な角度から注釈を加えることにある。近代への憎悪をむき出しにした彼の『中心の喪失』(1948年)と中世評価との関係、光に対する感応性が前景化した同時代的な美学といった論点から、ゼードルマイヤの大聖堂のイコノロジーに潜むイデオロギーを診断する。