研究発表集会のパネルはもとより共通のテーマを設定して組織されるものではないが、いずれも映画を題材とした4つの発表は、それぞれ異なる主題を扱いながらも、記録映画と劇映画、あるいはドキュメンタリーとフィクションという、しばしば自明のようにみなされてきた区別を問い直している点で共鳴しあっているように見えて興味深かった。
本田晃子の発表は、ソヴィエトの理念を体現する共同住宅「コムナルカ」が、プロパガンダ映画においてどのように描かれていたのかを検証したものである。私有財産を否定し、私的空間を解体するはずの社会主義体制下では、「コムナルカ」において人々が、家族や階級といった枠組みを超えた共同生活を送るはずだった。しかしながらその「コムナルカ」を舞台とする映画作品では、最初期の『圧縮』(1918年)
三浦光彦の発表は、ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』(1967年)の冒頭シーンの緻密なショット分析を通して、物語が困難になったポストモダン、ランシエールの言葉で言えば「美学的体制」において、映画における「断片」とは因果関係を「短絡」させ物語的な因果関係を可能にするものだとしたランシエールの議論を、批判的に読み解こうとするものである。鳥が罠にかかる『ムシェット』冒頭の場面は、本発表による詳細な分析を通して、時系列や鳥の数すら定かではない曖昧な場面であることが明らかとなる。こうした曖昧な諸断片が、単なるショットとショットの結びつきを超えて、映画全体の中で、主人公の複数性や、結末のムシェットの自殺の場面と結びつくネットワークを構成していることを示した発表には説得力があった。しかしながら、ランシエールの言う「断片」が必ずしも「ショット」には限定されないとすれば、本発表で示された「断片のネットワーク」は、ランシエールの言う「因果関係の短絡」と、必ずしも矛盾はしないのではあるまいか。本発表の可能性は、ランシエールに対するドゥルーズの優位といったことよりも、ブレッソンが得意とした素人俳優の起用、いわゆる「モデル」の問題においてこそ十全に展開されるべきものだろう。従来はブレッソン映画のドキュメンタリー的な特質として解釈されてきた「モデル」が、本発表における「断片」の議論と結びつくことで、ブレッソン論の刷新が図られることに強く期待したい。
王琼海の発表は、今村太平の記録映画論に注目し、今村の言う「記録」が、単なる客観的な事実の記録という意味にはとどまらないものであることを明らかにする。記録される事実の自律性に拘泥しながら、一方でモンタージュに重要性を認める今村の記録映画論の二面性は、これまでの先行研究では矛盾として捉えられてきたという。しかしながら本発表は、今村の私小説論を媒介とすることで、この二面性が決して矛盾するものではないことを示す。今村によればカメラによる対象の客観的な記録は、主観性の排除を意味するわけではなく、記録映画が目指すべきなのは、記録される対象と記録する主体とが一致するような特異点であり、それは文学における私小説の実践に近いものだ。このことを確認したうえで本発表は、今村の記録映画論と漫画映画論との橋渡しを試みる。戦時中の地下劇場で上映されていた漫画映画と記録映画に「日陰者」があげる抗議の声を聞き取ったことを原体験とする今村の映画論にとり、漫画映画と記録映画は、もとより区別されるものではあるまい。彼の漫画映画論のみに注目が集まりやすい今日において、記録映画論との理論的な接合を確認することは、単に今村映画論の再評価にとって必要であるばかりか、記録映画そのものの再定義にも繋がりうるはずである。記録映画における主観性の問題は、今後ますます問われることになるであろうし、記録される対象とのインデックス的な結びつきのみが記録映画の本質ではないとするのなら、アニメーション映画を記録映画として捉え直すことも可能であろう。本発表はこのように今村太平論の枠組みを超えて、新たな記録映画論への展開を予感させるものであった。
崔文婕の発表は、大和屋竺監督『毛の生えた拳銃』(1968年)に着目し、その独特のモンタージュによる停滞的な時間や、二人の主人公の分身的な表象の分析を通じて、本作品を大和屋竺の個人史の中で捉え直すことを目指すものだった。発表の理論的な主軸となるべき、ベンヤミンの弁証法的イメージをめぐる議論との整合性は、さらなる工夫が必要であるように感じられたものの、主人公の二面性や、作品中の「吐き気」というモチーフに着目しつつ、それを大和屋竺の個人史に重ね合わせようとする方法論は、他の大和屋作品にも応用できることが明らかとなれば、新たな大和屋竺論へと展開する道が開けることだろう。作品中に大和屋竺の個人的・主観的な要素を積極的に読み込もうとする本発表の議論は、この発表に先立ってなされた王琼海の発表と図らずも共鳴し、大和屋作品をある種の記録映画として、「私小説」的に読み解くことの可能性を期待させた。
女は共有可能か?──初期ソ連映画が描いた共同住宅コムナルカの性愛/本田晃子(岡山大学)
革命直後のソヴィエト政権は、都市の住宅難を解決するため、既存の住宅を公有化し再配分する政策を進めた。その結果生まれたのが共同住宅「コムナルカ」だった。コムナルカでは一家族に一室が与えられ、台所やトイレなどの空間は他の住人と共有された。多様な出自の人びとが衣食住を共にすること、すなわち生活の物理的な共同化・集団化こそが、階級の解体と社会主義共同体の建設を実現するのだと、信じられていたのである。
このような公的見解を代弁したのが、コムナルカにおける階級融和を描いた映画『圧縮』(1918年)だった。そこでは空間の共有だけでなく、そこで育まれる異なる階級の男女の愛が、新しい共同体の基礎となる。だが既にカップルが成立している場合、『アエリータ』(1924年)や『第三メシチャンスカヤ通り』(1927年)などの作品が示すように、コムナルカはしばしば男女の結合に対する潜在的な脅威の空間へと変じた。そこでは夫は、妻と他の男性住人との不倫関係に苦しめられる。住人同士の共同体の構築と、男女の性愛による結合の間のこのような矛盾・葛藤に対して、ソ連映画はどのような回答を示したのだろうか。
本報告では、Lynne Attwoodらによるソ連住宅史・ジェンダー史研究や、さらに当時盛んだったコロンタイらによる性愛論を踏まえたうえで、コムナルカという極めてソ連的な住空間が、映画のナラティヴを通じて性愛の問題とどのように結びつけられたのかを明らかにする。
ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』における断片化の説話的機能を巡って/三浦光彦(北海道大学)
ロベール・ブレッソンは、身体や空間を断片化したイメージの集積によって物語を構築するという手法を用いることで知られている。この「断片化」と呼ばれる方法に関して、ジル・ドゥルーズは、映画における因果関係の連鎖に一時的な断絶を齎す機能を見出す一方、ジャック・ランシエールは、反対に、因果関係を短絡させる機能を担うと結論づけている。本発表では、『少女ムシェット』(Mouchette, 1967) を対象に、断片化がどのような機能を担っているかを、ドゥルーズとランシエール、二人による対照的な議論を批判的に検討し、ショット分析の観点から再考することを試みる。
発表では、まず、映画冒頭シークエンスに関して、詳細なショット分析を行う。ここで見えてくるのは、ランシエールの主張とは反対に、因果関係がイメージの相似性によって曖昧になっていく様子である。だが、ドゥルーズの言うように単に因果関係が断絶される訳ではないことを、今度は映画全体たちの人物の行動や相似性に着目して明らかにする。冒頭シークエンスで曖昧になっていた因果関係の連鎖は、その後の物語展開によって遡行的に明白さを取り戻していく。こうした分析を通じて、ブレッソンの断片化によるショットは、前のショットと次のショットによってのみ、その意味が決定されるのではなく、むしろ全く別のショットと有機的に接続されることによって意味を生み出すという、複雑な説話的機能を担っていることを明らかにする。
記録映画と私小説の交差点──今村太平の記録映画論の再考察/王琼海 (立命館大学)
近年、アニメーション研究の領域から戦時下の映像評論家である今村太平の仕事が掘り起こされ、再検証されつつある。今村の仕事は入江良郎によって「漫画映画は記録映画と共に特権的」であると総括されたように、アニメーションと記録映画という二つの軸で展開されたが、それぞれ異なる文脈で議論され、両者の有機的な関係が十分に検討されていなかった。
そのような状況になったのは、今村は記録された映像におけるモンタージュ的な介入を高く評価したにも関わらず、しばしばその姿勢に反して介入を否定し、絶対的な事実性に拘る発言をしたからである。その事実性への拘りは、論敵との記録映画論争を引き起こした上に、記録映画論を虚構であるアニメーションに接続する時の理論的障碍となったのである。その問題を解決するための手掛かりとして、今村の私小説論がある。志賀直哉の小説を記録映画的に読み解く今村の私小説論は、主観をもって客観を記録することをテーゼにし、モンタージュ的な介入と事実性への拘りを両立させる論を展開している。
本発表では、今村の主観をもって客観を記録するというテーゼの実態や、その論理に至るまでの道を明らかにするために、著作や論敵との論争を中心に今村の記録映画観を再考察する。最終的に、今村が持つ独特なリアリズムを明らかにし、その視点から今村の記録映画論と漫画映画論の関係性を考察する。
殺しのアナキズム──大和屋竺監督作『毛の生えた拳銃』論/崔文婕(北海道大学)
本発表は大和屋竺の監督作『毛の生えた拳銃』(1968年)の分析を通して、脚本作の量産を強いられながらも先鋭性を手放さなかった大和屋竺を考究する。本作は鈴木清順監督の『殺しの烙印』(1967年)に由来する破局的殺し屋映画の系譜に属する。ジャンプカットを多用する文法破壊性を持ち、双数の状態で現れる主人公の殺し屋コンビが月給で働く滑稽さ、漫画を彷彿とさせる動作などによってコミカルな作品に作り上げられた。
60年代後半、ピンク映画の分野では大和屋は低予算、短期間の制作で有名な若松プロに依拠しており、本作にも同プロ特有の反権力的メッセージが存在した。本作では蹉跌する殺しが反復することで物語が停滞するが、双数性を維持した殺し屋コンビが、復讐のために組織に仇を討とうとする司郎のために依頼主の組織を最後に皆殺しにしたことで破局を迎える。この破局は乱交パーティのさなか、待ち続けた司郎が定義不能な幻として再出現した点に既に兆しており、時間によってもたらされる信憑の不在は従来作『裏切り季節』(1966年)と『荒野のダッチワイフ』(1967年)にも大和屋的特質として描かれていた。同時に、描かれる組織の逼塞には同時代の学生運動の状況もリンクしている。
本発表では、セリフと仕草における主人公の分裂と統一、および断片的な物語表現を整理し、部分と全体における意味と関係性を分析する。分析の際には、部分が各自に寓意を秘めながら全体の布置関係の一部でもあるというベンヤミン的思考を援用する。また、殺し屋コンビの「対」表象、司郎という人物像の多義性、飛躍はおろか穿孔にまで至るジャンプカットについて分析し、脱構築的な世界認識が招来するアナキズムの性質について明らかにする。