非暴力の力
ジュディス・バトラー『非暴力の力』(原著、2020年)は、戦争とレイシズムの時代における非暴力のマニフェストである。新自由主義とポピュリズムが世界を覆う今世紀、アメリカやヨーロッパの諸国家はイスラム諸国に対して次々と戦争を起こし(アメリカ合州国主導の「対テロ戦争」や、NATOによるリビアへの軍事介入)、それが生み出した難民、移民の波は、戦争を起こした当の国々でレイシズムとポピュリズムを引き起こした。アメリカ合州国では、ドナルド・トランプのポピュリズム政治が黒人へのレイシズムと警察暴力を可視化させ、「ブラック・ライヴズ・マター」運動を激化させた。フェミサイドに抗議してブエノスアイレスで始まったニ・ウナ・メノス(「もう一人の女性も犠牲にするな」)運動はアメリカからヨーロッパへと波及し、男性による女性、トランスセクシュアルに対する家父長制的暴力を可視化した。さらに、多くの国々では少数民族に対する抑圧が続き、イスラエルではパレスチナへの植民と軍事攻撃が続いている。日本でも、在日コリアンに対するレイシズムは根深く続いており、沖縄には米軍基地の集中とその矛盾が押し付けられている。また、本訳書の出版直前には、ロシアのウクライナ侵略が、民間人の大量虐殺と、夥しい数の難民を生み出している。
バトラーが非暴力の哲学を構築するのは、こうした暴力に満ちた現代の社会状況の直中においてであり、本書第三章はレイシズム的暴力の批判に、第四章は戦争と国家暴力の批判に充てられている。さらに、その根底には社会的不平等の批判がある。バトラーによれば、レイシズムは人種間での「哀悼可能性の不平等な分配」と根本的に関係しており、戦争もまた、帝国主義、植民地主義のような仕方で、国家間、民族間の不平等に基づいて生起する。従って、「暴力の批判は不平等の根本的批判でなければならない」、と彼女は述べる。そこから、バトラーが「非暴力の力」と名づける抵抗の手段とは、不平等の批判に依拠した、言論活動、デモ、アセンブリ、ストライキ、市民的不服従のような非暴力的実践として規定できるだろう。その意味で「非暴力の力」とは、戦争にさえ対置され、極限まで非暴力的実践を貫こうとすることで常識的思考に揺さぶりをかける、「新たな政治的想像力」なのだ。
(佐藤嘉幸)