ポスト資本主義の欲望 マーク・フィッシャー最終講義
本書は『資本主義リアリズム』で知られるマーク・フィッシャーの生前最後の講義を可能な限り忠実に活字化したものである。資本主義の外部を希求するというフィッシャーの中心的な問題は『資本主義リアリズム』と変わるものではない。とはいえ、前提知識の少ない学生に知識を与え、彼ら彼女らとともに考える機会でもある講義というものがもつ性質上、流れのなかで生じるいくつもの脱線や質問に対する受け答えのなかにも、フィッシャーの生身の思考がはっきりと現れている。もちろんマルクーゼやリオタールの独創的な読み直しは、彼が残した最大の賭金のひとつであろう。とはいえそれ以外にも、断片的に残された数々の発言や、果たされなかった講義計画のシラバスもまた、──思想の「パレルゴン」として──おそらくは穏和だが徹底的なソーシャリズムという形をとるであろう彼の主張を現代の文脈で展開するための中心を構成している。
気づいた点を少しだけ。はからずも最終回となった第5講において、フィッシャーはリオタールが述べる理論的見通しについての否定的な見解を隠さない。資本が強要する量的な快楽には抗いがたいという事態を認めつつ、それを全面的に受け入れることに対しては抵抗を示している。だがここでいかなる抵抗が見られるのだろう。たとえばドゥルーズ&ガタリの超越論的経験論のテーゼを応用するなら、すなわち、現実の経験の条件は経験的なものの引き写しを通じて表象されることはないということを考慮するならば、リオタールがマルクスの思想を分裂的形象(「少女マルクス」と「老大家マルクス」)として提示した思考のなかに、単なる読解という経験を超越した創出を見ることができる。フィッシャーもなにか重要なことがそこで起こっていることを見逃してはいない(本書266ページ)。端的に言い換えればそれは、プログラム的な理論とは異なる「文学的表現」の不可避な発生をいかに考えるべきか、という問題であろう。それがひとつの出口(イグジット)になるのだろうか?
ジラールをひくまでもないが、欲望機械の閉域を越え出たいという「欲望」をわたしたちは持つことができる。脱出(イグジット)を目指すこの欲望は、従来の欲望の地平を構成してきた欲望と似たものなのか、あるいは異なるものなのか、あるいはどの程度そうであるのか。資本主義の頂点をきわめた投資家や企業家たちが地球を脱出して月や宇宙を志向するというあの欲望は、いかなる意味で「超−資本主義的」なのか。また他方で、経験の限界としての死の表象と一致することを目指す「脱出」手段を選択した人々に対しては、どうであれ生の閉塞を受け持つ別の表象を形象化することができたのではないか、という思いもつねに残る。本書はまた、生の中断というものがもたらす残念さを、克明な一例として示した稀有な記録でもあった。その閉塞を打ち破るヒントさえ微かに見えていたというのに。
(大橋完太郎)