「かげ(シャイン)」の芸術家 ゲルハルト・リヒターの生政治的アート
本書ではリヒターの三作品《アトラス》《1977年10月18日》《ビルケナウ》が取り上げされ、論じられている。これら三作品は、リヒターの作品中もっとも謎めいた作品であるといえるだろう。それを筆者は「生政治的アート」と「かげ(シャイン)」という二つのキーワードによって解き明かそうとする。
ここでの「生政治的アート」とは、ボリス・グロイスの「アート・ドキュメンテーション」への理解に従うものである。グロイスによれば、ドキュメンテーションという手法は、現代の生政治がもたらす状況に対応しようとするアートのリアクションであり、芸術のメディウムを使って芸術作品それ自体ではなく、「生そのもの」を指示しようとする試みである。リヒターの三作品は、ホロコーストに始まる、ドイツの生々しい「生政治的」事件にたいするリヒターの芸術的応答であると筆者は言う。
一方で「かげ(シャイン)」とは、さしあたり本書の中では「明滅し揺らめく光という明暗の交錯」を指すものとされている(これは筆者の近著『イメージの記憶(かげ)──危機のしるし』での鍵概念をふまえている)。すなわち、光がおのずと生み出す、それと対極にある「影」ではなく、日本語の「かげ」、つまりうつろいのプロセスの中に現れる微妙な濃淡である。リヒターのグレイ・ペインティングはそのわかりやすい例としてイメージされるかもしれない。しかし、筆者が「かげ(シャイン)」によって捉えようとするのはフォト・ペインティングに始まるリヒターの芸術の営み全体である。
本書はボルヘスやルイス・キャロルなど思いがけない糸をたぐりよせながら、「かげ(シャイン)」によって今日の生政治的状況を「証言」しようとするリヒターの試みに迫り、冥府へと降りていく「オルフェウスの末裔」たるリヒターの姿を鮮やかに浮かび上がらせている。
(石田圭子)