『天国への電話』へといたる道筋
筆者は、岩手県に実在する「風の電話」という、亡くなった人に思いを伝えられるといわれる有名な電話ボックスを主題の一つとして、二〇二〇年初頭に『天国への電話』(Quel che affidiamo al vento)という小説を母国イタリアで上梓した。本稿は、これまでの研究内容や日本での生活が、いかにして創作活動に影響を与えたのかを振り返ったものである。
ヴィクトール・フランクルは、『夜の霧』のなかで、人間は、「人生においてもっとも困難なときには〔…〕未来の展望のなかに心の支えを見出そうとする」*1と書いた。しかし、愛するだれかを亡くしたときには、未来という考えと向き合うことこそ、もっとも至難の業である。だからこそ、子どものうちから想像力を育み、人間が、目に見え耳で聞こえるものだけでなく、存在していても形や声を持たないものに対しても、価値を見出せるようにする必要がある。
*1 Viktor E. Frankl, Uno psicologo nei lager (Milano: Edizioni Ares, 2013), 117-125.
「風の電話」は、この世における喪からの回復の象徴的な場所のひとつである。故人への想いが言葉に形を変える「場」であり、そこでは、別れを論理的に説明し、受け入れることになるが、物理的にはもう存在しないけれど、わたしたちの中に生き続ける人物と、新たな関係を作り上げる準備をすることにもなる。「ふたりのうちひとりが死んでも、その関係が保たれるのは当然です。むしろ、同じときに生きることの方が、なんというか、幸運なのです」。ベルガーディアの「風の電話」の管理人はそう語った。生命は、言うなれば、複数の線の重なり合いなのであって、たくさんの生命が同時に存在している今も、他の生命にぴったり足並みを揃えているものは、ひとつもない。いつでも、だれかが先に亡くなる。違いは数ヶ月であることもあれば、何十年ということもあるだろう。けれど、そのおかげで、わたしたちは皆がたがいに、順番に世話をし合うという考え方をすることができる。「風の電話」がそれを証明している。わたしたちは、色々な日々や、顔の輪郭や、感情を、リレーのように交替しながら生きているのだと。
わたしは、この小説を書き、関連するテーマについて考察するうちに、わたしたちの幸福の多くは、わたしたちの時間をとらえる能力に負っているのだということを理解した。逆説的ではあるが、過去とは、終わるものではないのである。むしろ、残る何かなのである。わたしたちが背後に残してきた世界は、そう簡単に奪い去れるものではない。ここに、記憶の特異性があるのであり、もうこの世にいない人に電話をかけるということは、その時間を、記憶を更新することであり、自分の想像力のなかで、最終的に、その人に継続性を与えられるようになることを意味しているのである。
「わたしたちがなすことの何事も世界の歴史は動かさないが、すべては繋がっている」。たったこれだけの事実から、『天国への電話』の執筆は始まった。
わたしは風のことばを研究し、それから聖書とタルムード[訳注:モーセの口伝律法]を何節か読み、『古事記』やアンデルセンの童話を読み直した。それからまた風に立ち返った。剥離する樹皮へ、風見鶏へと立ち戻ったのである。
いつも目の前に、岩手の、鯨山のふもとにある、あの素晴らしいベルガーディアの庭園のイメージがあった。庭園の断片を写真のなかに見て、あの特別な場所の庭師であり、管理人である佐々木さんの著作を夢中で読み耽った。何ヶ月か後で、わたしは、そこへ実際に足を運んだ。思い描いていたとおりの場所だった。
小川洋子ほど、わたしに影響を与えた作家はほかにいない。わたしは、彼女の作品を十年以上も熱心に研究し、それを修士論文(国際基督教大学)と博士論文(東京外国語大学)に結実させた。
小川が扱うテーマには、収集、博物館、記憶などさまざまあるが、なかでも、中心的なものが死である。彼女をとくに魅了してやまないと考えられるもの、それが、研がれた刃のような死の、その前と後である。一瞬のうちに、かつて存在していたものが姿を消してしまう。そして、そんなことにはお構いなしに、場所はそのまま残り続ける一方で、そこに住んでいた人たちは、もう二度と還らない。
クリスチャン・ボルタンスキーが、自身の「(アルファベット順の)入門書」において、生者の次元から死者の次元への推移について、同様の驚きをもって指摘していた。“Mort”(死)の項目には、こうある。「死はとても不思議なものだ。わたしたちは、小さな物語や、知識、記憶をもつ唯一無二の存在であるにもかかわらず、一瞬にして、卑しい、不快なモノになり変わってしまう*2」。そして、それに続けて、現代社会における、死や病に対する恥ずべき拒否反応について非難していた。まさに、ノルベルト・エリアスが著書『死にゆく者の孤独』で糾弾していたように、死を表に出さず、隠しておくべきもののように扱い、病を侮蔑や恐れのようなものでもって遠ざける、現代社会の拒絶反応についてである。ボルタンスキーによれば、かつて、死は生命の一部、大きな祭りの一部をなしていたが、今日では「人々は死に対しひどく腹を立て、ついにはそれを否定するに至った」*3のだそうである。
*2 Danilo Eccher, ed., Boltanski (Milano: Edizioni Charta, 1997), 96.
*3 Ibid.
わたしは、死の物理的な側面を小説中の「インテルメッツォ」に盛り込んだが、これらの断章は、語りのパトスを中断し、同時に、情感を強めるという役割をもっている。実際、わたしは『天国への電話』のなかに、モノも、遺品も、こうして集められたものは皆、その最終的な目的──死の表象──に近づいていくのだということを思い出させるものとして、リストやコレクション、物体の描写などを挿入した。モノは、オルハン・パムクが書いていたように、近くで互いに語り合い、通じ合うのである*4。
*4 Orhan Pamuk, L’innocenza degli oggetti. Il Museo dell’innocenza, Istanbul (Torino: Einaudi, 2011), 83.
マルク・オジェは、象徴体系にかんする研究において、レヴィ=ストロースを引用してこう言っていた。アニミズムの領域では、すべてが<意味の必然性>から始まるのであり、「死を理解したいのなら、生/死の関係は一対で考えられなくてはならない*5」。生と死のふたつの概念は区別のつきにくいものであり、両者の不可分な関係なくしては、理解不能なのである。
*5 Marc Augé, Il dio oggetto (Roma, Meltemi, 2003), 131-132.
しかしながら、わたしが生まれ育った西洋においては、死は否定され、非常に危険なものとして遠ざけられている。たとえばそれは、「喪」、「死」、「葬儀」といった禁句を使用することにおいて、わたしがイタリアの出版社と、この数年に幾度となく衝突した例にも表れている。
それに対して、わたしにとって大きな驚き──惚れ込んだと言ってもいいだろう──だったのは、日本では、年間に故人を讃える儀式が多くあり、それと同時に、日常も大切にされているということであった。盆、春と秋の彼岸、正月に先祖を迎える風習、日々の仏壇の手入れなど。これらのことすべてが、わたしの執筆活動に与えた影響は、計り知れない。
エリアス*6がわたしたちの生きる現代社会に見るような、恐怖に満ちた死の捉え方とは異なって、小川洋子の登場人物たちが、死を恐れず、死に悪魔的なイメージを付与したり、遠ざけたりしないという事実に、わたしは驚嘆した。彼らはむしろ死を受け入れており、物語は故人の思い出で溢れていた。生と死は調和的に浸透し合い、生から死への移り変わりが、恐れによって左右されるということがなかったのである。
*6 Norbert Elias, La solitudine del morente (Bologna: il Mulino, 1985).
わたしが、狭義には小川洋子の文学に、広義には日本の文化に接近したのは、ひとの最期に対するこのような調和的な観念のためであったと思う。小説のなかで、わたしはこの観念を、「そこからは、死は、とても美しいものに見えた」という一文に凝縮させた(このフレーズは、西洋の読者たちを大変驚かせた)。
とはいえ、古代ギリシャ人にとっては、生と死のふたつの次元は、記憶を通じてつながっていた。ジャン=ピエール・ヴェルナンが指摘するように、記憶という機能は時間を排除しもしなければ、再構築もしないが、「現在と過去を分かつ壁を取り除き、生者の世界と死者の世界に橋をかけ*7」る。まるで、思い出が、生きている者と生きていた者のあいだの接触の機会、いわば対話となり、その対話を始める生者は、相手のことをよりよく知ることができる、というように。そうして対話が行われると、過去そのものが、「死者たちの次元のように見えてく*8」るのである。
実はすでに亡くなっている人のことを書くという観念は、小川洋子のような作家や、その他の分野の芸術家たちにも見られる。たとえば、タデウス・カントルは、死んだものや思い出されるものを舞台で上演するという考えを提唱した。つまり、オデュッセウスが行った生者の世界への帰還のようなものである。
「『オデュッセウスの帰還』は、それに続くわたしの舞台のすべての登場人物の前例となり、原型となった。そうした登場人物の数はかなりのものだった。多くの舞台上演と脚本から──フィクションの王国から──生まれた一連のものは、すべて「死んで」いた。すべてが生者の世界へ、私たちの世界へ、現在へと戻ってこようとしていた*9」。
*9 Krzysztof Pleśniarowicz, The Dead Memory Machine: Tadeusz Kantor's Theatre of Death, Translated by William R. Brand (Asheville: Black Mountain Press, [1994] 2001), 43.
『天国への電話』で、わたしは、現在と過去の両方が、そして生と死の両方が織り交ぜられた話を作り上げようとしたのである。
死者を追悼することは、生者を讃えることである。
長年、日本人が愛する人々の思い出を大切にする、そのさまざまな方法について研究して、わたしはこのことを理解した。それは、死より生を重んじるのではなく、死を、生にたっぷり与える水、あるいは、生をよりたくましくするための太陽や、その成長を支える栄養のある土壌のように捉える、ひとつの受容のあり方であり、賞賛に値する考え方である。
先祖の思い出を呼び起こすすべての儀式(盆に限らず、元旦や彼岸、多くの家にある仏壇、お墓が道路のすぐそばに置かれ、人々の日常から壁によって引き離されていない、といったこと)は、わたしのメンタリティを広げてくれた。一般的な西洋の、とりわけイタリアの死の感じ方とは、非常に異なる方法を、わたしは取り入れるようになったのである。
この本を書きながら達成した旅──書かれる本はすべて、ひとつの旅である──の本当の意味は、これらの単語に関係していたように思う。つまり、想像、ことば、喪、感動、である。
(翻訳 柴田瑞枝)
(ラウラ・今井・メッシーナ)