学会の匂い、あるいは「伝わらなさ」の効用について
オイルに浸されたマスタードシードとウラドダル(毛蔓小豆)が鍋のなかで徐々に加熱され、微かな音とともにふつふつとはじけ始める。そこに玉葱、生姜、グリーンチリ、そしてカレーリーフが加えられ、待つことしばし。いつしか大教室には、スパイスから抽き出された匂いがいちめんにたなびき、気づけば私たちはその目に見えぬ霞のなかに置かれていた──。
「Cook’n’Talk Show」と題して催された、エリックサウス総料理長・稲田俊輔氏による「ウプマ」(南インド風セモリナ粉の炒り煮)の調理実演のさなかに訪れたこの瞬間が、少なくとも筆者にとっては、3年ぶりの完全対面開催となった第16回表象文化論学会大会のひとつの白眉であった。ある時間と空間に固有な「匂い」という刺激を通じて、いまここで同じ「場」を共有しているのだという事実を、全身で感得すること。東京都立大学での大会開催が決まり、その実行委員長を拝命して以来、コロナ禍ゆえにフィジカルな参集のままならなかったそれなりに長い時間ののちに実践を通じて確認したかったのは、「対面」──遡行的にあらたなニュアンスの加わった言葉だ──の意味や価値であり、調理の進行する時間のなかから立ちのぼる固有の「匂い」は、そのためのささやかな仕掛けのつもりだった。
匂いをインターネット越しに伝えることは──少なくとも今のところは──叶わない。ケーブルを通じてであれ目に見えぬ電波を通じてであれ、それを地球上に散在するディスプレイの向こう側へと届けることのいまだ不可能な世界を、現在の私たちは生きている。昨今の学術イヴェントの趨勢にしたがい、この「Cook’n’Talk Show」もまた、Zoomによるリアルタイム配信を通じて遠隔地の会員・非会員へと届けられていたわけだが、上に「ひとつの白眉」と記した「匂い」の瞬間は、彼/彼女らにはまったく別の出来事として体験されていたことだろう。オンライン環境を通じての、「場」の共有不可能性──これもまた、「匂い」をめぐる「ささやかな仕掛け」のいわばネガとして、副次的に伝えたいメタメッセージであった。
なにもアナクロニスティックに「いま–ここ」の復権を唱えたいわけではない。「生」の体験に宿るアウラを闇雲に擁護し、学会という開かれてあるべき場をいまさら秘教化することなど、「賑わう知」の場としての学会にとっては害悪でしかなかろうし、それ以前にさまざまな意味での「アカウンタビリティ」が叫ばれる昨今においては、まずもって社会的に認められるものでもなかろう。そうしたあたりまえの認識を前提としたうえでなお、「匂い」の共有をめぐる可能性と不可能性の問いは、コロナ禍以降に常識となった──或いは不可避的になってしまった──認識の地平にある疑問を投げかけているように思う。それはひとつには、いわゆる「生」が「オンライン」によって代替可能であるとみなす私たちの認識を暗に支えているものは一体何なのか、という疑問であり、さらにはそこから派生する「情報の非対称性」をめぐる認識一般についての疑問である。
そもそも私たちは、ひとつの場所に集い、同じ時間と空間を共有している場合でさえ、決して同じ情報を受け取っているわけではないことは言うまでもない。「食」をテーマとしたイヴェントであったにもかかわらず、香ばしくたゆたう匂いとともに仕上げられた「ウプマ」の味わいを感覚的に共有したのは、けっきょくは司会である筆者と、もうひとりの登壇者である三浦哲哉氏のみであった(役得である)。「感染予防」というお題目のもと、会場に集うオーディエンスからは「食」という接触の機会は厳密に遠ざけられ、その点でステージ上と客席とのあいだには、乗り越えがたい情報の非対称性が存在していた。仮にコロナ禍以前に同様のイヴェントが企画され、会衆への試食の提供がおこなわれたとしても、そこに集う人々すべてにそれを行き渡らせることは、様々な制約ゆえに困難であったろうことは想像に難くない。いや、食の場面に限定する必要などないだろう。「共有゠シェア」という営為には、ほぼ必然的にその不可能性がつきまとうのであり、私たちは程度の差はあれ、その「非対称性」のさなかに置かれざるを得ないのである。
ZoomであれTeamsであれ、現行のオンライン会議システムは、それを利用する者たちを「情報の非対称性など存在しない」というフィクションへと誘い込む装置であるように思う。ディスプレイ上に並べられた顔のひとつとなり、互いを隔てる物理的距離など存在しないかのように振る舞い、その振る舞いの様式を内面化すること。もちろんそこで「匂い」や「味わい」が伝わらないことなど、誰もが承知している事柄である。しかし、適切に設えられたマイクとカメラに向かって滑舌よく溌溂と語りかけ、必要に応じて画面共有機能によって視覚的・聴覚的資料を解像度高くそしてタイミングよく提示さえすれば、伝えたい「内容」は「生」と同じように──いや、状況によっては「生」を上回るかたちで──伝わるのだという信憑がそこには存在しており、そうした謂わば「お約束」が、これらシステムのもたらす利便性の享受の一端を支えていることは間違いあるまい。ここで「内容」とは「シグナル」とも言い換えられよう。S(シグナル)/N(ノイズ)比を高い水準で確保し、Nを低減させSを可能なかぎり明瞭なかたちで伝えることこそが、情報共有の死活を決するのだ──そのような信のありようこそが、「オンライン」による「生」の代替可能性の根底をなしているように思われるのである。
情報にまつわる「匂い」とは、そのような広義の「N゠ノイズ」をあらわす比喩として捉えられよう。学術的コミュニティで求められる十全な情報伝達を阻害する、猥雑な余計者としての「匂い」。Zoom的なるものの使用が私たちのうちに醸成したのは、そうした比喩的な意味における「匂い」の無意識的かつ漸進的な「脱臭」であり、その結果として導かれたものこそ、「伝わること」そして「分かること」の疑問の余地なき正しさへの無謬の信仰だったのではなかろうか。学術空間のデオドラント処理装置としての、オンライン・システム。20世紀の終わりにイギリスのバンド、ジャミロクワイが「ヴァーチャルな狂気(Virtual Insanity)」*1 を歌ってからすでに四半世紀もの時間が経過した世界を、私たちはある種の「ヴァーチャルな」装置と日常的に共存しながら生きているわけだが、そこで “It’s a crazy world we’re living in”と歌われた世界の現在のありようとは、「仮想と現実の取り違え」といった聞き飽きた物語とはほとんど関係のない、「伝わること」そして「分かること」への世俗的な信仰の瀰漫する、「穏やかに狂った世界」とでも言うべきものになっているのではなかろうか。 “Traveling without Moving”*2 というどこかヴィリリオ的なヴィジョンの果てにあらわれた、平明な意味ばかりが無数に流通する、「匂い」なきクリーンな世界。
*1 Jamiroquai “Virtual Insanity” (1996)。ジョナサン・グレイザー (Jonathan Glazer) 監督の手になるこの曲の著名なミュージック・ヴィデオは2021年に4K修復され、現在は下記のURLで視聴することができる。発表から26年が経過した現在、このMVに象徴的にあらわれる虫゠バグの意味合いも、往時とはまた別の解釈を誘うものとなっているように思う。https://www.youtube.com/watch?v=OeTFAiYbR9o
*2 “Virtual Insanity”を収録したアルバムのタイトル(1996)。
「情報保障」という今日的な「法」の大切さを十二分に承知したうえで、またさまざまなテクノロジーが情報の非対称性の克服に対して有効に機能しうることを認めたうえで、しかしそれでもなお、現在の私たちには「法外なもの」の存在を認め、また肯定することが必要なのではないか、と思う。伝わらない「匂い」が、便宜的に排除された「ノイズ」が、それぞれの「いま–ここ」に存在し、その場を静かにしかし決定的に震わせているのだ、ということ。「伝わること」をめぐる善意、そして「分かること」への無謬の信憑をひとまず手放すことを通じて、知の賑わいを「高S/N比」の呪縛から解き放ってやること。あるいは、「S/N」を隔てるスラッシュを不断に引き直しつづけること。さらには、オンライン環境に固有の「匂い」のありようをあらたに創出し、「生」とは別様に息づく「いま–ここ」を発見すること──。
この春に刊行された『表象16』の巻頭言において、田中純前学会長は、表象文化論の30数年に及ぶ来歴を振り返りつつ、その野心を「イメージや物語に還元されて消費されることに抵抗する、物質的な細部を備え」た「「記号゠運動」の「実験」」のうちに見出していた*3。「学会の匂い」を肯定することとは、会員それぞれの手仕事に由来する「物質的な細部」を擁護し、それらを「紋切り型のイメージや物語」へと還元することを拒み、「法外」な「実験」へとみずからの知性を晒すことにも通じていよう。それはまた、安易に「分かること」の手前でふと立ち止まって「法外」へと耳を澄ますことのうちに、知をめぐるある種の倫理を見出すこととも通じているはずである。
*3 田中純「表象文化論の確率論的揺らぎ」『表象16』月曜社、20
いつの日か匂いのディスプレイが開発され、ウプマの、いや学会の「匂い」を遠方へと届けられるような時代が来たとき、伝わらなさの効用をめぐってここに縷々述べてきたような認識は「ある時代に固有の反動」として退けられることになるのだろうか。それとも、「匂いが在る」ことと「匂いのただなかに在る」こととの差異をめぐる表象゠再現前批判の問いが、そこから新たに立ち上がることになるのだろうか。ともあれ、いまは「学会の匂い」の固有性を肯定し、「伝わらないこと」そして「分からないこと」の効用の側に立つこととしよう。学会というアソシエーション゠連合が、ゆるやかな共生の場として、また平板な「情報共有」の罠をかいくぐりつつ「賑わう知」を肯定するラディカルな時空間として継続的に維持されてゆくためには、どこかで「法外なもの」の到来を期待しまた受け入れるに足る度量が、構成員たる私たちひとりひとりに求められるのではなかろうか。
匂い立つ学会へようこそ。