開催校企画ワークショップ 映画理論の現在
日時:2022年7月3日(日)10:00-12:00
場所:2階210番教室
・アンドレ・バザンと「映画理論」/角井誠(東京都立大学)
・映画理論の周縁から──トム・ガニングをめぐって/長谷正人(早稲田大学)
・鑑賞の時間を操作する/細馬宏通(早稲田大学)
・観客論の視座/伊津野知多(日本映画大学)
・フェミニスト映画理論の現在/木下千花(京都大学)
【司会】堀潤之(関西大学)
いまから振り返ると嵐の前の静けさであったパンデミックの小康状態を衝いて開催された大会の2日目、大教室に変更された会場に足を踏み入れると、祝祭的とまでは言わないまでも、どこか華やいだ、浮き立つような雰囲気が漂っていた。2年ぶりに対面で開催される学会で奔放に知的好奇心に身を委ねる機会に恵まれたことの喜びに加えて、これから交わされるであろう映画理論の今日的状況とその可能性をめぐる議論への期待が会場に満ちているのが感じられた。
冒頭、司会を担当する堀潤之氏よりワークショップの主旨説明が行われた。本ワークショップの直接の背景をなすのは、映画の批評/歴史/理論にかかわる3つの成果物の刊行である。具体的には2017年から6年間にわたって活動したアンドレ・バザン研究会の成果物『アンドレ・バザン研究』全6号の完結、19世紀の視覚玩具からCGI映像やアニメーションまで視覚文化の広範な領域で刺激的な仕事を展開しているトム・ガニングの論集『映像が動き出すとき』の刊行、そして21名の理論家・批評家の仕事を紹介する『映画論の冒険者たち』の出版がそれに当たる。これらの刊行物に通底するのは、批評/歴史/理論の各領域を相互に切り離すのではなく、それらを往還する運動にこそ今日的な理論的実践が見いだされるという認識だろう。堀氏はフランス語圏および英語圏における映画理論の動向(バザン全集の刊行、政治の時代の『カイエ』の理論家の再評価、古典的映画理論への回帰)を紹介したうえで、ボードウェルの「ポストセオリー」論と蓮實重彦の『ショットとは何か』における理論への不信に言及し、これらの言説も視野に収めつつ、今日的な映画理論の可能性を議論したいとした。
最初の報告者の角井誠氏は、バザン没後50周年を記念してパリで開催された国際会議(2008年)を契機としてフランス語圏や英語圏で活発化したバザン研究の進展と、日本におけるバザンの翻訳や研究の動向を振り返り、アンドレ・バザン研究会の活動もそうしたバザン再評価の国際的な流れのなかにあるとした。次に角井氏は『アンドレ・バザン研究』に掲載された論考にも言及しつつ、現在のバザン研究の主要なモチーフを整理した。それらを列挙すると(1)批評的実践の再検討(批評家の役割、批評的実践としてのシネクラブ、観客大衆の啓蒙としての映画批評)、(2)リアリズム論再考(リアリズム映画論の由来と生成、技術決定論およびインデックス論からの脱却、多層的なリアリズム理解)、(3)「不純な映画」再考(アダプテーション論)、(4)「不純なバザン」再考(ニューメディア論・テレビ論・アニメーション論)となる。最後に角井氏はバザンにおける批評と理論との関係を「不純な理論家」(ジャック・オーモン)というキーワードを用いて検討した。バザンはつねに映画の具体的実存と向き合うこと(批評)から出発したが、その考察を「拡大解釈」することでひとつの理論を素描してもいたという。角井氏はここに理論家としてバザンの身振りが見いだされるのではないかと指摘し、報告を締めくくった。
続いて登壇した長谷正人氏は、映画理論はつねに歴史とテクノロジーと政治によって規定されてきたとしたうえで、ガニングの仕事を1968年以後の映画理論の展開のなかに位置づける報告を行った。1970年代に台頭した精神分析学や記号学に立脚する映画理論は、古典的ハリウッド映画の商業的支配という歴史的現実を前にして、それをイデオロギー装置として批判する「反=古典」の理論であったが、ガニングの出発点をなす初期映画論(1980年代以降)もまた古典的ハリウッド映画の規範性を相対化する議論であり、その点で1970年代の「反=古典」理論の関心を引き継いでいた。実際、「アトラクションの映画」の概念には、ボードウェルらが定式化した古典的ハリウッド映画のモデルをラディカルに問い直す理論的刺激が備わっていた。その後、デジタル化に伴う映画のテクノロジー的形式の変容を背景として1990年代以降、ポスト古典映画の理論の探求が活性化する。長谷氏はこうした理論的刷新の試みの代表例としてレフ・マノヴィッチに言及したが、2000年代以降のガニングの仕事は、こうした動向への応答として展開してきたという。そのさいガニングはアナログ/デジタル、実写/アニメーションの対立に解消されない映画の魅惑を「動き」に見いだす。それは1970年代以降の映画理論では周縁化され、幼児的快楽ともみなされてきたものを映画理論の中心に据える試みであり、長谷氏はこの点にガニングの仕事の面白さがあると指摘した。
細馬宏通氏の報告は、『映像が動き出すとき』に収録されたガニングのブロウ・ブック/フリップ・ブック論を手がかりとして、映画を観るときに私たちが感じる楽しみの基礎にある行動論的な仕掛けとその発展の系譜を鮮やかに素描してみせるものだった。色のない絵の書かれた本に息を吹きかけてページをめくると色が付いた絵が現れるというブロウ・ブックの魔法では、本のページをめくると何が起こるのかについての学習された予測が前提されていると細馬氏は指摘する。そこに通常とは異なる所作(息を吹きかけること)が導入されると彩り鮮やかなイメージが現れる点にブロウ・ブックの楽しみがある。同様の仕掛けは映画のスクリーンにも見いだされる。私たちは幕に事物の影が映ることがあるのを知っているが、映画館ではそこに多彩な動く映像が現れる。ただの幕にイメージが現れる楽しさは、退屈な幕が魔法の幕に変わるのを待つという儀式化された所作と結びついている。一方、フリップ・ブックで動くイメージを駆動するのは親指である。しかし、その所作は通常のページをめくる所作とは異なるので、必ずしも上手くいかない。細馬氏はこの下手くそな親指の動きが「天然のジャンプカット」を生み出すのであり、メリエス以前に不可思議な効果を生み出す「カット」は存在したのだと指摘してみせる。だが、私たちを不可思議な映像の体験へと誘うのは下手くそな親指だけではない。映像の傍らで語る声もまた同様の機能を果たしている。絵本、ステレオカード、ファンタスマゴリアを経てサイレント映画まで、映像の魅惑へとひとを誘う声がつねに存在した。細馬氏は、マックス・オフュルスのような映画作家はそうした声の働きを知っていた世代に属すると指摘したうえで、トーキー映画とは映像を駆動する親指と映像の傍らで語る声なしに(それらを技術機構に外化して)映像のマジックを見つめる装置だったのではないかと問いかけて報告を終えた。
続いて伊津野知多氏は、バザンの映画論を観客論の観点から捉え直す報告を行った。伊津野氏はまず、映画がその形をモノとして取り出すことのできない表現であり、それにひとつの形を与えるのはスクリーンを見つめ、見たものを紡ぎ合わせる観客であることを確認する。それゆえ、理論家であれ、批評家であれ、映画監督であれ、その営為はまず観客となることによってはじめて可能となる。次に伊津野氏は、映画理論における観客へのアプローチを(1)視聴覚の主体としての観客、(2)物語を解読し構築する主体としての観客(3)イデオロギー的快楽の主体としての観客という3つに分類したうえで、バザンのリアリズム論を観客論として検討した。バザンのリアリズム論は、映像と現実という二項の対応関係ではなく、映像・現実・観客の三項からなる関係として構想されており、バザンが問題にしていたのは、映画のスクリーン(映像)によって媒介される現実と観客との関係であった。バザンにとってリアリズムとは、観客の日常的知覚がスクリーン上に再現されることではなく、映画の視聴覚体験を通して観客の慣習化した現実知覚のバターンが解体される契機を指していたという。確かにこのリアリズム論は実写映像に依拠しており、アニメーションやCGI映像には直ちに適用できないという限界を持っている。しかしながら、伊津野氏によれば、現在身近なデバイスで日々生み出されるデジタル映像もまた現実のモデルとして機能する側面を完全には失ってはおらず、したがってバザンのリアリズム論を今日の映像環境にふさわしくアップデートする余地は十分に残されていると言えるだろう。
最後の報告者として登壇した木下千花氏は、フェミニズム映画理論の成立と展開および今日のフェミニズム映画理論の展望を、自身の問題関心をも交えてスピーディーに提示した。フェミニズム映画理論の起点にはローラ・マルヴィの論文「視覚的快楽と物語映画」があるが、マルヴィの仕事には、1970年代の精神分析的映画理論や女性映画祭の興隆といった前史が存在していた。マルヴィの論文はハリウッド映画を男性目線の映画とみなしたうえで、女性/男性の二項を視線の対象と主体の位置に振り分けるものだったが、1980年代の以降のフェミニズム映画理論(リンダ・ウィリアムズなど)においては、ジャンル映画を題材にして映画テクストが指定する位置を占める女性観客の問題が追及され、バイナリーなジェンダー布置の固定化が問い直されていくことになる。この流れは1980年代末以降、流動的観客性を理論化する試みに引き継がれていくが、木下氏は特にフロイト、ドゥルーズのマゾヒズム論に見いだされる幻想の構造の分析を援用しつつ女性観客の映画体験を考察するアプローチ(ミリアム・ハンセン、ゲイリン・スタッドラー)とテレサ・デ・ラウレティスによる女性映画の再検討に言及した。そして最後に、木下氏は、映画における観客性の多様化と歴史化を推進した1990年代以降の理論的動向(クイア映画研究、人種・エスニシティ論、モダニティ論など)を整理したうえで、#MeToo運動以後のフェミニズム映画理論の展望に言及した。英語圏における#MeToo運動はポピュラーフェミニズム的な側面があったのに対して、日本のそれは現状に働きかける運動として重要な意義を備えていた。またこの運動は、映画理論にとっても、たとえば「作家性」理論の問い直しを迫るようなポテンシャルを持っている。さらにトランスジェンダーとノンバイナリーの視点からフェミニズム映画理論を捉え返すことで、映画による身体の構築とそれを見つめる観客の身体知覚との相互作用をより精緻に分析することができるのではないかという問題提起をもって報告は締めくくられた。
討議においては、バザンの仕事のいくつかの側面をめぐって若干の意見交換がなされたのに続いて、『ショットとは何か』に典型的にみられるような理論への不信に対処しつつ、いかに理論の有用性を訴えるべきかという問題提起が堀氏からなされた。この問いかけに応じる形で長谷氏は、『ショットとは何か』における場面選択の見事さと批判的に参照されるアカデミックな仕事のチョイスのダサさとの著しい落差を指摘したうえで、蓮實氏が同書で場面の動きを非還元主義的に取り出して「ショット」と名づける手続きには十分に理論的な契機が含まれていると発言した。ここから議論は活気づき、映画におけるアテンションの二つの様態、物語によって媒介されていない身体の映像と観客の身体との関係性、1980年代以降のフェミニズム映画理論の受容が進まなかった理由、アニメーションにおける身体の過剰なコントロールといったトピックをめぐって興味深い発言が相次いだ。会場のオーディエンスとの質疑応答の時間がほとんど取れなかったことは残念であったが、非常に密度の濃い報告とディスカッションは会場を埋めた参加者の期待に十分に応えるものであったと言えるだろう。
ワークショップ概要
いま、映画理論の有用性はどこにあるのか。デイヴィッド・ボードウェルとノエル・キャロルが「ポスト・セオリー」を謳ってからはや四半世紀が経った現在、それによって相対化された記号学や精神分析に基づく大文字の「理論」は、はたして有用性を失ってしまったのだろうか。また、2000年代以降とりわけアンドレ・バザンを筆頭に、映画研究が制度的に確立される以前の映画論に改めて注目が集まってきたことをどう捉えればよいのか。さらに、デジタル化の進展によって映画のアイデンティティが絶えず問い直されている現在において、映像全般をめぐる知的言説をどのように鋳直すことが可能だろうか。そもそも、映画をめぐる「理論」とは何を指すのだろうか。
日本では最近、欧米におけるバザン再読の流れに棹さしつつ、この批評家の多面性を浮かび上がらせようとした研究誌『アンドレ・バザン研究』全6号(2017–22年)が完結する一方で、「アトラクションの映画」(1986年)で初期映画研究に活力をもたらして以来、映画にとどまらず視覚文化全般にわたって精力的な研究を続けているトム・ガニングの論考を「動き」を軸に据えて精撰した『映像が動き出すとき』(長谷正人編訳、みすず書房、2021年)が刊行された。さらに、古典的映画論から映画批評を経て、フィルム・スタディーズや哲学的な映画論まで、21人の映画論者による思考を概説した『映画論の冒険者たち』(堀潤之・木原圭翔編、東京大学出版会、2021年)によって、およそ百年間にわたる映画論のささやかな総括も試みられている。
こうした状況も踏まえ、本ワークショップでは、バザンとガニングの仕事の再検討を出発点として、間メディア性、観客、フェミニズムといったテーマに即しながら、映画・映像理論の現状とその意義について多様な観点から討議する。