企画パネル 21世紀の戦争と表象
日時:2022年7月3日(日)16:00-18:00
場所:3階310番教室
・「異なる近代」と情動政治/乗松亨平(東京大学)
・ロシアとウクライナの戦争と反体制アート/上田洋子(株式会社ゲンロン)
・戦争をめぐる映像と感性的なもの/松谷容作(追手門学院大学)
【コメンテイター】清水知子(東京藝術大学)
【司会】本田晃子(岡山大学)
2022年2月24日にロシア軍によるウクライナ侵攻が開始されてから、既に半年が過ぎた。にもかかわらず、現在に至っても停戦の見通しは立っていない。企画パネル「21世紀の戦争と表象」では、このような現状について考察するために、政治思想、アート・アクティヴィズム、メディア論の三つの分野から議論を行った。
一人目の報告者の乗松亨平氏は、情動の政治という観点から、西洋近代に対するロシアの位置づけを試みた。
プーチンによるウクライナ侵攻の決断は、一見すると典型的な情動政治のようにも映る。しかし、トランプのSNSを利用した大衆への直接的な働きかけに対して、プーチンの場合はむしろテレビによるトップダウンの情報伝達が中心になっている。一方、プーチンのウクライナ侵攻の口実には、ブライアン・マッスミがポスト冷戦期の特徴として述べた「先制の政治」――ウクライナの背後にいる西側からの攻撃に対する恐怖にもとづく――が見て取れる。ただし乗松氏は、そこには西側と世界を勢力均衡的に分割するという、冷戦期の「抑止の政治」も混合しているのではないかと指摘した。
また「アフター・リベラル」(吉田徹)の帰結としての情動政治という枠組みも、現在のロシアには完全には当てはまらない。ウクライナ侵攻に対するロシア市民の鈍い反応からも、個人が情動を介して積極的に政治参加しているとはいいがたい。乗松氏はむしろそこに「ソヴィエト人的心性」(アレクサンドル・ジノヴィエフ)、すなわち政治的権威による圧迫から生まれた、近代的内面をもたない主体との連続性を見出す。
コメンテイターの清水知子氏からは、ロシア独自のリベラリズムへの反撃の思想的背景とその手法について、また西洋近代から疎外されている点にこそ自国の優越性を見出すロシア・アイデンティティとの関連性が問われた。ジャック・デリダらによる絶対的な外部としての「他者」の定義とは異なり、自ら自身を西洋の他者として提示するロシアは、西洋社会からすれば理解困難な存在である。しかし乗松氏は、だからこそロシアの近代性と前近代性、あるいはポスト近代性と近代性が接合する点を明らかにすることに、より大きな意義があるのではないかと提起した。
二人目の報告者の上田洋子氏は、ロシアによるクリミア侵攻以前まで遡って、ロシアやウクライナで活動しているアート・アクティヴィストたちの実践を具体的に紹介した。
ビルの屋上に設置された巨大な文字広告を利用し、作品が公権力によって撤去されるまでをSNSで発信し続けたチモフェイ・ラディヤはじめ、グラフィティやデモンストレーションなど、現在のロシアやウクライナでは、多くのアーティストがストリートで活動している。ただし同時に、第二次大戦の死者を顕彰する「不死身の連隊」など、政府の後援を受けた右派のデモンストレーションも活性化している。
また今回のウクライナ侵攻に際してあらためて注目を集めているのが、女性アーティストのグループ、プッシー・ライオットである。彼女らは2012年にプーチンとロシア正教会の癒着を揶揄するアクションで逮捕され、一躍有名人となった。その彼女らが服役後に作ったのが、報道機関「メディアゾーナ」だ。メディアゾーナは、多くのジャーナリストを育成し、今回の戦争に関わる報道でも、戦死者の出身地や戦場のレイプの実態をいち早く明らかにしている。彼女らの影響を受けた世代のフェミニストたちの反戦活動も盛んだ。たとえば、スーパーの値札の数字を戦死者の数にすり替えたり、反戦を訴える小さな記念碑をこっそり街角に設置したりといったアクションが行われている。
コメンテイターの清水氏からは、公的領域が統制された「ハイブリッド戦争」の現場となるなかで、ロシア国内における反戦メッセージの受け取られ方についての質問がなされた。上田氏はどの程度このような活動がロシア国内で支持されているのかは不明だが、反対派の国外追放を進める現政権に対し、国内におけるこのような草の根の連帯こそが現在より一層重要になっているのではないかと述べた。
三人目の報告者の松谷容作氏は、いかにしてウクライナの人びとの苦難を共有しうるのかについて、太平洋戦争の沖縄戦をモチーフとした山城知佳子の映像作品《あなたの声はわたしの喉を通った》(2009年)を参照しつつ考察した。
山城は戦争の記憶を継承する試みの中で、家族を集団自決で失った高齢者の証言を、自らの身体を通して語りなおすという実験を行った。そのような行為を通じて、理解困難な他者とともにあろうとしたのである。それを踏まえたうえで、松谷氏は現在進行形の戦争にも同様のことは可能なのかと問う。
国会におけるゼレンスキー大統領の演説に対して、衆参両議院の代表はウクライナとともにあることを宣言した。だが、そこにおける「ともにある」ことと山城の「ともにある」こととの間には相違があるのではないか。たとえばジュディス・バトラーは、他者との共生の前提として、他者を選別・犠牲化しないことを挙げる。そのような意味で山城の試みは、まさに自己の身体を脱占有化し、他者に向けて開くことだった。ただしそれは他者との境界の消滅を意味するわけではない。逆説的に、それは自他の境界を再確認することにもつながる。この境界によって、われわれは他者と関わり、ネゴシエートすることもできるのだ。このような観点から、松谷氏はゼレンスキー大統領と「ともにあること」に対する違和感を表明した。これに対してコメンテイターの清水氏も、ゼレンスキーの情動政治にみる、自国のために自らの命を捧げるべきだとするヒロイズム的要求をはじめ、戦争そのものの国家による暴力性の問い直しと非暴力の実践についていかに考えるべきかを指摘した。
パネル概要
ロシア軍がウクライナで開始した今回の戦争では、政府や報道機関だけでなく、さまざまな団体や個人によってもSNSを通じて膨大な量の情報が発信されてきた。またとりわけロシアでは、これらの情報に対してソ連時代を髣髴とさせるような検閲や規制が行われている。今、このような状況下で戦争の表象はどのように変化しようとしているのだろうか。本パネルでは、ロシア現代思想における言葉と身体の位置づけ、アーティストたちの戦略、メディアが描き出す戦争像という三つの観点から、21世紀の戦争と表象の関係を読み解いていく。
「異なる近代」と情動政治/乗松亨平(東京大学)
ロシアのウクライナ侵攻は、合理的には説明困難な、不条理な情動にもとづく決定のように思える。ではそれは、トランプのアメリカと同様の、ポピュリズム的な情動政治といえるだろうか。SNSを基盤にしたボトムアップの情動政治と、テレビでのトップダウンのプロパガンダによるプーチンの情動政治とでは、大きな違いがある。リベラリズム以後のポスト近代的な前者に対し、後者は近代の延長のような性格が強い。ただしロシアの近代化は、フーコー的な規律訓練よりも、フーコーが前近代にみたような身体暴力に依拠する部分が大きく、そのような「前近代的近代化」がポスト近代の情動政治に接続されたと考えられるかもしれない。本発表では、近代化と暴力の関係や、言葉と身体の関係をめぐるロシア現代思想の分析を振りかえりながら、ウクライナ戦争と情動政治の関係について考えたい。
ロシアとウクライナの戦争と反体制アート/上田洋子(株式会社ゲンロン)
ロシアによるウクライナ侵攻が始まってまもなく、ロシアのフェミニスト・アートグループ「プッシー・ライオット」がウクライナ支援のためNFTを活用して話題になった。プッシー・ライオットは2011年、第3次プーチン政権発足の前年に生まれたアクティヴィズムのグループで、2012年にロシア正教会で行なった政権・宗教批判パフォーマンスをYouTubeで流通させ、実刑判決を受けた。釈放後はネットメディア「メディアゾーナ」を設立。今回の戦争でも、ロシア国内でアクセス遮断されながらも、積極的に報道を続けている。
ポストソ連期、特に2010年代前半までのロシアでは、プッシー・ライオットやその前身となる「ヴォイナ」、それに「なにをなすべきかChto Delat」など、アート・アクティヴィズムがさかんであった。なかにはブログなどを用いてジャーナリズムの活動をするグループも現れた。同時期にはさまざまなNPOが生まれ、社会活動も育っていく。同時期のウクライナでは、裸体をメディアとするフェミニストグループ「フェメン」が活動を広げている。
アート・アクティヴィズムの手法は現在の反戦活動にも用いられている。戦争の凄惨な情報が溢れるなか、政府からの弾圧を逃れながら、彼らはSNSを通じて情報を発信し、連帯を呼びかける。ロシアとウクライナにおけるアート・アクティヴィズムとそのメディアの利用について、近年の歴史を辿りつつ、戦争下の現在の活動を探る。
戦争をめぐる映像と感性的なもの/松谷容作(追手門学院大学)
ロシアとウクライナの戦争は局地的なものであろうか。日本国内の新聞やテレビでは戦況と今後の予想される展開が報道されている。またインターネット、例えばYouTube上では、日本だけでなく、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツなど各国のマス・メディア機関が24時間体制で状況を配信している。さらに、TwitterやFacebookなどのSNSにおいて、ウクライナ、また戦地に程近い周辺国(ポーランドなど)にいる様々な人たち(市民、ボランティア、兵士、政治家など)が情報を発信し、そして世界中の人たちがこの戦争に対する反応を毎秒のペースで投稿している。
メディアが戦場と銃後を可視化し、またメディアにより銃後がグローバルな規模で拡張している。ネットワークに組み込まれ、戦争に関する情報にアクセスできる人びとは、もはや銃後のなかの一員であり、戦争の一部と化しているように見える。これは21世紀における戦争の特徴的な様相のひとつと言えよう。
このようにメディアが戦争を拡張させていき、知らぬ間に人びとをそこに飲み込んでいく現代の戦争の状況下で、本発表はメディアと戦争を、とくに映像における諸々の表象と感性的なものの観点から考察していく。