パネル5 翻訳のイデア ──言語、想起、魔術
日時:2022年7月3日(日)13:30-15:30
- ジョルジョ・アガンベン『散文のイデア』と翻訳/高桑和巳(慶應義塾大学)
- 想起としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」再考/竹峰義和(東京大学)
- 魔術としての翻訳/吉田恭子(立命館大学)
【コメンテイター】佐藤元状(慶應義塾大学)
【司会】佐藤元状(慶應義塾大学)
このパネルで試みられたのは、人文学の現在において翻訳という営みを再考することである。副題として付せられた「言語」「想起」「魔術」の術語は、三人の登壇者──みな翻訳において重要な仕事を行ってきた研究者である──それぞれの発表に割り当てられている。対象とする時代や言語、ジャンルも異なる三つの発表は、しかし「翻訳とはいかなる営為であるのか」という冒頭に掲げられた問いをめぐって、交通し共鳴していた。本パネルはその意味で、異なるもの(へ)の移行と変容としての「翻訳」の実践がまさに生起している、現在進行形のドキュメントであったとも言えるだろう。
最初の発表は高桑和巳氏による「ジョルジョ・アガンベン『散文のイデア』と翻訳」であった。これまでもアガンベンの著作を多数翻訳してきた高桑氏が、これも自身の訳業になる『散文のイデア』(月曜社、2022年)という「謎めいた著作」を、「翻訳」の観念を視角として読解するというのが、この発表の趣旨である。なるほど『散文のイデア』には明示的に翻訳について論じている箇所はない。それでもなおこの著作を、アガンベンによる「翻訳者の使命」(ベンヤミン)として読めるのではないか、と氏は述べる。アガンベンとベンヤミンとの関係は次のようなものだ:アガンベンはイタリア語訳ベンヤミン全集に関わっており、『散文のイデア』はそのさなかに出版されている。『散文のイデア』という書名はベンヤミン「歴史概念について」関連断片に由来する。ベンヤミン自筆の草稿が図版として収められている、等々。以上をふまえ高桑氏は、『散文のイデア』はベンヤミンの言語論(翻訳論)を前提とした、ベンヤミンへの個人的応答として書かれている、という仮説を提示する。その例は以下の三つである。
第一に、「〈単一のもの〉のイデア」と題された断章において、アガンベンはダンテを引き合いに出しつつ、伝達機能に特化した言語運用とは対極のもの、「単一の言語」の観念を提示する。これはベンヤミンが「翻訳者の使命」で提出した「純粋言語」の観念に一致する。第二に、断章「インファンティアのイデア」において、アガンベンは人間の幼児を「アダムのように諸事物を名指すことができる唯一の動物」と規定する。この規定に、ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」の議論──「人間の言語的本質とは、人間が事物を名づけることを謂う」──が対応する。第三に、「無縁な存在の内奥において生きること」という一節から始まる断章「愛のイデア」で述べられている「無縁な存在」との対面は、まさに翻訳者の文学言語との出会いの謂にほかならない。
二番目の発表は竹峰義和氏による「想起としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」再考」であった。この発表で竹峰氏は、アントワーヌ・ベルマン『翻訳の時代──ベンヤミン『翻訳者の使命』註解』における「翻訳はすべてみな想起である」という一文を手がかりとする。氏によればまず、「翻訳者の使命」はベンヤミンが翻訳活動を本格化させる以前に書かれた、むしろ思弁的な論考であり、初期言語論の圏内に位置づけられるべきものだ。氏はそれをふまえ、「翻訳者の使命」と「言語一般および人間の言語について」との共通性──諸言語のヒエラルキー関係と翻訳可能性──を指摘する。次に、ベンヤミンの翻訳論が「アナムネーシス」と結びつけられる。ベンヤミンは初期色彩論において、芸術家のアナムネーシスは憧憬なしにはありえず、常に否定性を伴ったものであると述べる。他方翻訳は、伝達機能としての言語を前提とする以上、常に純粋言語からは絶対的に隔てられている。それでもなお翻訳者は、自らの翻訳作品から「言語の補完への大いなる憧憬」が語りだすこと、純粋言語へと思考が解放することを希求する。その意味でベンヤミンの翻訳論は、彼の新プラトン主義的アナムネーシスの発想と結び合う。最後に、以上の初期思想が後期ベンヤミンの歴史哲学といかに連続しているかが述べられた。「想起」や「記憶」、「追想」が鍵語となる後期思想においては、単線的歴史表象が糾弾され、ありえたかもしれない過去をも含めた全ての時間が内包された特異な瞬間としての「現在時」を特権視する唯物論的歴史認識が主張される。そこにおいては、単線的歴史表象を解体することで絶対的媒質の位相を「現在時」において打ち開くものとして、想起が位置づけられる。竹峰氏はこうした想起に、原作から純粋言語への憧憬を語らしめる翻訳との相同性を見て取っている。この想起=翻訳は過去のノスタルジー的回顧ではなく、むしろ想起される過去を、想起者(とその現在)もろとも一挙に破壊=救済するものだ──ヘルダーリンの逐語訳が原作の言語のみならず、翻訳する側の言語をも徹底的に破壊=救済するものであるように。
最後の発表は吉田恭子氏による「魔術としての翻訳」であった。「翻訳は魔術である」というテーゼに、氏の翻訳実践を踏まえた様々な側面から光が当てられた。まず、翻訳によくある幻想として、「即時性」と「等価性」の幻想が挙げられた。すなわち訳すべき原文の意味はすでに確定しており、ゆえにそれは瞬時に翻訳可能である、という幻想であり、また、ある言語は別の言語に一対一対応的に置き換えられる、という幻想である。この幻想の実例として、蒼乃白兎による小説『【翻訳】の才能で俺だけが世界を改変できる件』の一節が取り上げられた。また、この幻想へのアンチテーゼとして、シュライアマハーによるdolmetschen(ある言語を別の言語に即時的・等価的に移し替える翻訳)とübersetzen(自らの力によって読者を慣れ親しんだ母語の風景から移し替える翻訳)の区別が言及された。次に井筒俊彦『言語と呪術』における、意味の伝達を目的とする言語とは異なる、呪術的行為としての(気息としての)言語活動の観念が取り上げられた。この観念は、現代の罵り言葉“Holy shit”に見られるように、現代にも息づいている。こうした気息としての言語活動を、翻訳者(原文に「息を吹き込む」者)はその失われた痕跡をたどるように、いわば「ネクロマンシー的に」復元しなければならない。その実践として吉田氏が挙げるのは、エミリー・ウィルソンによる『オデュッセイア』英訳である。その英訳は原文の六歩格を弱強五歩格に置き換え、行数を原文に完全一致させ、その「息遣い」を現代に蘇らせている。またありがちな擬古文ではなく現代英語で訳すことで、読者にホメロスとの距離を、特にそのジェンダー的偏りを、直接的に実感させているという。ウィルソンの英訳は、聞き慣れた現代英語で読まれ(歌われ)ながらも、それによって遠く離れた異質な他者を読者に出会わせ、変容させる、まさにübersetzenの実践でもあると言えるだろう。
質疑応答ではアガンベンとベンヤミンとの差異、「翻訳者の使命」の現代的意義など、様々な論点が扱われた。中でも興味深かったのは機械翻訳をめぐる議論である。機械翻訳──即時性・等価性の幻想を強化する新技術──によって翻訳者の身体性が捨象されたとき、翻訳行為はどうなるのか? 吉田氏は人間の翻訳はなくならないと断言し(息を吹き込むことの重要性)、竹峰氏はベンヤミンなら機械翻訳の側に立つかもしれないと答え(息=アウラではなく複製技術に賭ける)、高桑氏は機械翻訳には責任が取れない(翻訳の責任を引き受ける人間の存在意義)と述べる。──質疑応答とはまことに、そこにおいて発表が咀嚼され解釈され置き換えられる、またそれによって発表者も聴衆も変容する、そうした翻訳の場ではないか。それを実感したパネルだった。
パネル概要
本パネルの試みは、翻訳の原理的な考察にある。ここ十数年の間に英米の翻訳研究の基本文献の多くが日本語に翻訳され、翻訳をめぐる問い──ローレンス・ヴェヌティが「翻訳のスキャンダル」と呼ぶグローバルな文化的・政治的・経済的不平等をめぐる問い──が、日本の外国文学研究者の間でも議論されるようになってきた。しかし、他方で、翻訳という営みの原理的な考察については、それが日本の人文学の根幹にある営為であるにもかかわらず、まだ充分な議論が交わされていないのではないか?
このような問題意識から、本パネルでは、研究のみならず、翻訳においても精力的に活躍している三人の研究者に「翻訳とはいかなる営為であるのか」について、自身の翻訳者としての経験も踏まえながら、しかし各自の研究分野に近い領域で、理論的に議論してもらう。高桑氏はアガンベンの『散文のイデア』のなかにちりばめられたいくつものアイデアを「言語」に纏わる問題系として、つまり翻訳論として読み解いていくことによって、竹峰氏は翻訳論の古典的エッセイであるベンヤミンの「翻訳者の使命」に潜む「想起」のモチーフをベンヤミンの思考体系のなかに位置づけることによって、吉田氏は翻訳というものが「魔術」として立ち現れること、つまり作品が完成した瞬間にすでに翻訳が可能性/幻影として存在することを主題化することによって、翻訳という一見したところ自明な行為について再考していく。
ジョルジョ・アガンベン『散文のイデア』と翻訳/高桑和巳(慶應義塾大学)
翻訳者による翻訳論は、これまでせっかく慎ましく提示してきたはずの妙技をこれ見よがしに開陳する白々しい手柄話になるか、さもなければ自分の悪訳を正当化する言い訳になるかである。私ごときが話そうが天才ベンヤミンが書こうがその点は同じことであって、翻訳論というものは例外なく不恰好である。だから、いまさら進んでやりたいものでもない。
とはいえ、その不都合にもかかわらず検討し続けるべき何かというのも存在する。それは原理をめぐる議論である。
アガンベンの詩的・哲学的エッセイ『散文のイデア』は、さまざまな読みかたへと誘われる、有り体に言えば謎めいた著作である。今回は、先般私の翻訳したこの著作──ちなみに、この本のなかに、明示的に翻訳について論じられている箇所はない──の一部分を翻訳論として読むことで、翻訳という営みについてあらためて考える手がかりにする。あるいは逆に、翻訳という補助線を引くことで、この難解な著作にわずかにであれ理解の風穴を開けることができればと考えている。
さしあたりの見通しでは、言語の単一性、肉の復活、最後の審判、見かけの救済といった用語を、翻訳という視角から捉えなおすというのが検討の具体的な部分になる。
(別の言いかたで、鍵となるのはA, B, C, Dだと言ってもいい。Agambenは当然として、あとは、本書で──そして他の著作でも──取りあげられているBenjaminとCelan、そしてDanteである。)
想起としての翻訳──ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」再考/竹峰義和(東京大学)
「翻訳はすべてみな想起である」──本発表は、フランスの翻訳思想家アントワーヌ・ベルマンによるこの言葉を出発点として、ヴァルター・ベンヤミンの「翻訳者の使命」(1921)の隠れたモティーフをなす「想起(Erinnerung)」を、初期思想および後期思想との関連において考察する。具体的にはまず、「翻訳者の使命」における「言語の補完への大いなる憧憬」という表現と、初期色彩論の鍵語のひとつである「アナムネーシス」との思想的関連を検証することにより、ベンヤミンの翻訳論を新プラトン主義受容という文脈に位置づける。つづけて、原作・翻訳・純粋言語の関係をめぐるベンヤミンの考察が、初期言語論における事物の言語・人間の言語・神の言語との関係に対応していることを示したうえで、さらに、そこでの翻訳が、過ぎ去ったものを〈いま・ここ〉に召喚することで救済するという、後期ベンヤミンの歴史哲学における「追想(Eingedenken)」のモティーフを密かに予告しているという点を明らかにしていきたい。
魔術としての翻訳/吉田恭子(立命館大学)
表象であるからにはすべてが魔術だ。とはいえ、翻訳はどうして、どのように、ことさら「マジック」なのか。
発表では魔術としての翻訳について多角的に検討というよりむしろ空想的に思案を試みることで、翻訳という言語操作の独自性とそれを支える技巧に光を当てたい。おそらくはその即時性の幻影が考察の起点になるだろう。翻訳がかなりの時間を要する「作業」であることは、翻訳者のみならず誰でも承知しているはずだが、まるですぐさまそこに立ち現れるような幻想がつきまとう。それは機械翻訳・人工知能翻訳技術の飛躍的発達によって現代の私たちが即時翻訳に対して技術的な裏打ちのある合理的期待を抱くようになったからというよりも、むしろ逆なのだ。つまり、翻訳が始まる時点で「言うべきことはすでに言葉にされてしまっている」がゆえに、その翻訳は瞬時に立ち現れてしかるべきだという要求が伴う。すなわち従属的な下級魔法であるからこそ、一刻たりとも待つ必要性が生じない。同時通訳や機械翻訳への欲求はそういう前提に駆り立てられてきたといえるだろう。翻訳元であるオリジナル作品を著者が執筆するには時間を要する。だが作品が完成した瞬間、すでに翻訳が可能性/幻影として存在する。さらに、いまだ書かれていない作品を想像することは難しいが、いまだ書かれていない作品の翻訳を想像することはさほど難しくはないというパラドックスは、我々を想像的な翻訳文学空間に誘う。