第16回大会報告

パネル1 現代美術における〈ヴァニタス〉モチーフ ──虫・布・花

報告:岡添瑠子

日時:2022年7月2日(土)10:00-12:00

  • W. G.ゼーバルト『土星の環』とヴァニタス/鈴木賢子(東京藝術大学)
  • 糸・織り・布・服──石内都の写真にみる儚さ/マーレン・ゴツィック(福岡大学)
  • 「ヴァニタス」といけばな──花の写真の儚さ/結城円(ルードヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン、Zoomによるオンライン参加)

【コメンテイター】香川檀(武蔵大学)
【司会】香川檀(武蔵大学)


本パネルでは、現代の文学や美術における「生のはかなさ」や「世の移ろい」といった“ヴァニタス”概念にまつわる表現について、三名の発表が行われた。はじめに司会の香川檀氏より、本パネルの主旨は、近年ヨーロッパで研究が進む「現代美術におけるヴァニタス」というテーマを、主に文化比較という観点から検討することにある、との説明がなされた。現代のヴァニタス表現には、髑髏や蝋燭といったモチーフの記号的な引用だけでなく、より多重的な視点からのアプローチによってヴァニタスの新しい表現と意味を見出せるのではないか。そしてそこにはどのような死生観や歴史意識がみられるのか。本パネルはこうした問いを出発点としている。

一番目の発表は鈴木賢子氏による「W. G.ゼーバルト『土星の環』とヴァニタス」である。『土星の輪』で描かれる第二次世界大戦後のイギリスの東海岸地方の零落は、まさに栄枯盛衰、世の儚さである。鈴木氏は、作中で頻出する「幼虫」や「蚕」というヴァニタスのモチーフに言及する。たとえば冒頭で語り手は病室の窓から外を眺める自身をカフカの『変身』で虫になったグレゴール・ザムザに重ね合わせている。そして、その箇所にゼーバルトがレイアウトした黒い網目のかかった窓の写真の図版に、鈴木氏は蚕が繭を作る蔟(まぶし)との類似を指摘する。ヴァニタスのモチーフとしてもうひとつ挙げられるのは、17世紀の自然学者トマス・ブラウンの頭蓋骨が書物の上に置かれた図版であるが、デューラーの《書斎の聖ヒエロニムス》と同様、ここにはヴァニタスのメタファーである「髑髏」と組み合わされた書物に、人文主義のイメージが付与されているという。伝統的なヴァニタス画においては、蝶のイメージが生の儚さと魂の永遠という二重性を持つ。鈴木氏は、蝶を孕む繭と、古代の記憶を運ぶ壺のイメージを結びつけ、さらにそれをブラウンの頭蓋骨と重ね合わせる。そのうえで、ウォルシンガムの野で出土した古代の骨壷をめぐるブラウンの『壺葬論』に、ゼーバルトがキリスト教的なヴァニタスの教訓を乗り越えていく知的営為の永続性を読み込んでいるのではないか、と解釈する。また終盤では、西洋近代の生糸産業の歴史やナチス・ドイツの映画における養蚕の描写を通して、とどまるところを知らない人間による自然支配の歴史が描かれる。鈴木氏は、伝統的に復活や救済を意味する蝶ならびにその変態のアレゴリーと、搾取や奴隷制を含意する蚕のアレゴリー間の緊張関係が『土星の輪』の力学を形成していると結ぶ。

二番目の発表はマーレン・ゴツィック氏の「糸・織り・布・服──石内都の写真にみる儚さ」である。しばしば身体や痕跡、記憶というキーワードを想起させる石内都の作品の中でもゴツィック氏が取り上げるのは子ども用の着物を撮影した「幼き衣へ」のシリーズと、大正時代以降に普及した銘仙着物が被写体の「絹の夢」のシリーズである。考察にあたり援用されるのは、服や布(テクスタイル)と死や儚さの関係を文化人類学で用いられる「リミナリティ」の概念によって分析する文化学者のメラニー・ハラーの論だ。リミナリティとは、誕生や結婚、死といった人生の通過儀礼や移行段階における境界状態、いわば「どの状態でもない」段階を指し、非日常性や生命の危険という特徴と結び付けられるという。「幼き衣へ」において子どもの着物に縫い付けられた「背守り」や、親類や近所の人々が端切れを持ち寄って継ぎ合わせる「百徳着物」は、リミナルな段階にある新生児の儚い命を守ろうとする「命の衣」として象徴的に機能する。さらに、ここには蚕の繭が持つ「包む」という象徴的な意味合いも含まれている、とゴツィック氏は指摘する。対して「絹の夢」の銘仙着物は、その匿名性や大量生産品ゆえの物質的な儚さとともに、近代の一時期に栄え、戦後まもなく衰退してしまった「徒花」としての歴史的な儚さをも象徴する。それにも増して石内の写真の独特な点は、生糸や織機、紡績機といった生産の過程への着目や、着物の立体感によって着用した人の存在を感じさせる表現にみられるように、人々の営みやその記憶を喚起させるところにあるという。

三番目の発表は結城円氏による「『ヴァニタス』といけばな──花の写真の儚さ」だ。結城氏の問題提起は、現代美術における「ヴァニタス」表象を通して見える文化受容のありようについてである。その事例として、フラワーアーティストの東信と写真家の椎木俊介による写真集のシリーズ『植物図鑑』を挙げる。そもそも西洋では花のモチーフは、15世紀頃より、キリスト教の教えに基づく「生の儚さ」の象徴として静物画に描かれてきた。17世紀に入ると、オランダ絵画において経済的豊かさを象徴するとともに、枯れゆく花や虫によって「長くは続かない繁栄」も表現されるようになった。後者の物質主義批判の一方、開花時期の異なる花々を描いた絵画には、永遠性や不滅が表現され、ヴァニタス固有の時間性が描かれる。時間性が問題となるのは、写真というメディアが、継続的な生の流れから一瞬を切り取り、全て同等に扱うという「虚しさ」に特徴づけられ、また「過去」に存在したものと「未来」に訪れる死の双方を示すというヴァニタス的な時間性を持っているためである。こうした文脈から、しばしば欧米では花をモチーフとした写真作品が消費社会批判とヴァニタス回帰の観点から解釈され、とりわけ日本のいけばなが注目されているという。しかし、歴史的経緯から見ればいけばなは江戸時代の博物図譜に由来し、むしろ「写実的な描写」を博物学的視点から追求するものであった。したがって東信作品の自然表現は、西洋的なヴァニタスの文脈──復活、永遠性、神の全能性──のみからは見落としてしまう部分があるのではないかと結城氏は指摘する。

発表に続きコメンテイターの香川氏から全体へのコメントがなされた。まずバロック・ヴァニタスの概念には、現在のなかに未来の死の「予兆」を見るまなざしがあること、そして過去・現在・未来が折り重なり、統合されているというヴァニタス固有の時間性があることが指摘された。鈴木発表に対しては、虫のモチーフが使われている現代美術の一例として、骸骨や日用品のなかをカタツムリが這い回るクーン・サイスの作品が紹介された。この作品においてカタツムリは短命の象徴であるだけでなく痕跡を残すものであり、人間の生命を超えて自然史的な次元で人間を凌駕する存在としての虫という側面が注目される。産業による自然の搾取と破壊によって、やがては人間が自然史に飲み込まれるようにして凋落していく。その中でも『土星の輪』のなかで蚕が中心的なモチーフとされていることの意味が改めて浮き彫りになった。

ゴツィック発表に対しては、絹や布、衣服といったモチーフは女性が担う労働というジェンダー的な指標でもあり、特に女性アーティストが糸や布を用いることに改めて注視することの意義が指摘された。また現代美術において衣服のモチーフはしばしば着ていた人の不在のインデックス(痕跡)として機能し、ドイツの文学・文化科学の研究者クラウディア・ベンティーンによれば、痕跡性は未来の想像上の存在と不在を示すという。しかし、ゴツィック発表のリミナリティの理論はそれとはまた違った境界の時間性の提示ではないかという指摘がなされた。また結城発表に対しては、西洋の批評家たちに日本のいけばながどのくらい理解されているかという点は、文化翻訳という観点から確かに検討の余地があるとコメントがなされた。

会場からは、ゴツィック発表に対して、ここでいう通過儀礼とは単に時間的・空間的なものなのか、それとも個人の人生の限界といった意味なのかという質問がなされた。ゴツィック氏からは、リミナリティと境界とは少し意味が異なり、リミナリティは非日常的かつ自由な状態をも含意していること、伝統的な社会のなかで曖昧な立場にある人々が普通の社会とは別の場所で集まって過ごすような「周縁」の意味もあるとの回答があった。

三名の発表では共通して虫や花がヴァニタスのモチーフとして取り上げられたが、印象的だったのは、象徴的次元だけでなく、例えば写真や布といったメディウムの物質的な脆さやはかなさに注意が注がれた点だ。特に、ゴツィック氏の発表で、作品が豪雨の被害に遭った石内都について言及があったことは印象的であった。破壊や死は過去がもはや後戻りできないことを私たちに突きつけるが、同時に再出発と「未来」をどう引き受けるかという課題も提示している。今日的な問題として「ヴァニタス」表象を考えていくことの意義を感じさせるパネルであった。


パネル概要

「ヴァニタス」とは旧約聖書に起源をもつ「生の儚さ」や「現世の虚しさ」の観念で、17世紀オランダ静物画の特殊な一ジャンルにおいて、独自の図像表現とともに主題化された。砂時計や消えかかった蝋燭、弦の切れた楽器やシャボン玉、そしてなにより人の頭蓋骨というモチーフが、ヴァニタスの定型表現として知られている。この図像伝統はしかし、過去の一時期に限られたものではなく、その後の視覚芸術のなかに繰り返し多様なかたちで「回帰」し、とりわけ1970年以降の現代アートのなかに顕在化してくる。ダミアン・ハーストやゲルハルト・リヒターの作例が有名である。

現代のヴァニタス表現は、髑髏や蝋燭のような伝統的モチーフを空疎な記号として引用するだけでなく、より屈折した意味を生み出している。現代という宗教的基盤を失った時代においてヴァニタスが回帰してきたとき、写真などの現代的メディウムによって表現されたそれらのモチーフから、どのような新たな意味が立ち上がるのだろうか。また、伝統にはない「現代のヴァニタス」モチーフがあるとしたら、そこにある歴史観や死生観、あるいは時間意識とはどのようなものか。

本パネルは、ドイツの研究チームと共同で実施しているヴァニタス研究プロジェクトのメンバーから構成されている。文学や現代アートの作品をとりあげ、そこに用いられた虫や布や花のモチーフについて、トランスカルチュラルな視点も踏まえながら分析を試みる。

W. G.ゼーバルト『土星の環』とヴァニタス/鈴木賢子(東京藝術大学)

テクストと図版で構成された散文作品『土星の環』(1995年)において、作家W. G. ゼーバルトが20世紀末のイギリスを舞台に描き出したのは、まさに世の栄枯盛衰であり、いわゆる「ヴァニタス」と親和的である。しかしながら、彼は伝統的なヴァニタスを屈折させていると発表者は考える。

伝統的なヴァニタス画においては、ときおり昆虫やその幼虫が主要モチーフに付随して描き込まれることがある。世俗世界のはかなさを主題にするヴァニタス画は、「メメント・モリ」の観念に、ひいては裁きの時に続く救済の信仰に裏打ちされており、虫の変態(メタモルフォーゼ)は永遠へと続く復活の象徴として描かれたのだった。これに対して『土星の環』で登場する蚕(幼虫・繭・成虫)は、伝統的ヴァニタスを踏襲しながら、そのイコノグラフィーから逸脱してゆく。すなわち『土星の環』では、人間によって完全に家畜化された蚕に対して、死ぬまで働き搾取される奴隷や労働者との観念連合が付与される。そのような古いイメージ・タイプの統合や転換は、《メレンコリアI》における画家アルブレヒト・デューラーの操作を彷彿とさせる。

つまりゼーバルトはヴァニタス的イメージを近代の自然支配とその暴力のほうへと屈折させたのではないか。本発表では、『土星の環』の最深部でそのような屈折と倍音をもたらしているものを探究する。

糸・織り・布・服──石内都の写真にみる儚さ/マーレン・ゴツィック(福岡大学)

文化の差異を超えて糸・織り・布・服は象徴的な意味を持っており、「生命」や「運命」の神秘に関連づけられている。ギリシャ・ローマ神話や北欧神話で女神が人間の運命の糸を紡いでいるように、世界各地の神話や宗教において、糸、機織り、布は「生」に関わる重要なモチーフとなってきた。

写真家の荒木経惟が石内都を「写真織女」と呼び、写真評論家の倉石信乃が石内の写真は「糸を染めるように、布を織るように」出来上がっていると述べているように、しばしば彼女の写真はメディウムとしての織物との類似性から語られがちである。それに対し、本発表はモチーフとしての布や服に注目する。《ひろしま》シリーズ(2008年)以降、石内は多くの写真で布や服を被写体にしている。《ひろしま》シリーズは被爆した故人の服を「遺物」のように過去(消えた時代)と現在(個人の記憶)をつなぐものとして表す。そうすることで、「生と死」について語ると同時に、遺された衣服を新たなかたちで生き続けさせる。さらに《絹の夢》シリーズ(2012年)と《幼き衣へ》シリーズ(2016年)では、布のもつ別の側面に注目する。前者は近代化が及ぼした織物産業の盛衰と着物の素材をなす絹の儚さを連想させ、後者は近代以前の子供の命の儚さをテーマにして神と布の関係を考えさせる。

本発表では、西洋のキリスト教に基づいたヴァニタス観とは異なる、日本の「儚さ」や「生と死」という観点から、糸・織り・布・服がもつ意味を探る。

「ヴァニタス」といけばな──花の写真の儚さ/結城円(ルードヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン)

ドイツのバロック研究において注目されている「現代美術におけるヴァニタス回帰」は、日本のアーティストの作品についても指摘されている。伝統的なヴァニタス・モチーフのひとつである「花」を捉えた日本人作家の写真作品が、欧米の現代美術分野で「ヴァニタス」として受容される傾向がある。しかし、なぜ日本の作品をヴァニタスと評するのか、その根拠が明確に示されることはない。

本発表では、ドイツ語圏のメディアを中心に「ヴァニタス」として受容されている東信(フラワーアーティスト)と椎木俊介(写真家)による《植物図鑑》シリーズ(2012年~)を例に、日本の花の写真に読み込まれる西欧的なヴァニタスの思想という観点から、文化翻訳の可能性・不可能性について考察を試みる。特に、彼らの花のモチーフが、ヴァニタスとしてだけではなく、同時に日本の「いけばな」として受容されている点に着目する。そして、西欧の現代美術分野でヴァニタスといけばなの関連づけが行われる背景を次の3点から分析する。1.花のヴァニタス・モチーフが表象する時間性;2.現代社会におけるヴァニタス表象の主要メディウムである写真の時間性;3.現代美術においてヴァニタスと関連づけられる消費社会批判。これらの分析をつうじて、西洋中心主義の受容とみなされる日本作品のヴァニタス化について、批判的に考察を加える。

広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年10月23日 発行