新しい声を聞くぼくたち
2017年に画期的な『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)を上梓した著者による本書は、特に新自由主義や福祉国家の観点から、国内外のさまざまなポピュラーカルチャーのテクストを入念に紐解き、「男性性の複雑さ」(p.8)の内実と外縁を探っていく。第一部「ぼくらは何を憎んでいるのか」、第二部「男性性、コミュ力、障害、そしてクリップ」、第三部「ライフコースのクィア化、ケアする男性」の三部構成をとっており、学術的な場に限らず、SNSでも昨今広く注目されているキーワードや事象が丁寧に読み解かれていく。
クィアな視点から日本映画について、また特に映像文化にみる性的マイノリティの老齢表象について考えてきた立場から、本書の議論で惹かれた点を二つ紹介したい。一つは、不機嫌な男性の文脈で紹介される、コミュ力が低く「非標準的な男性」(p.171)として描かれる車寅次郎に関する指摘だ。
ご長寿シリーズ『男はつらいよ』の主人公である寅次郎が内面化した非規範性は、彼を自分のルーツである柴又から浮かせ、マドンナとの恋愛は決して成就することはないにもかかわらず、ジャンル的要請によって押し込まれる異性愛主義的な枠組みからもはみ出させる。河野は指摘しないが、特にシリーズ10作目に至るまで、寅次郎を周囲の人々は「かわいそう」、「頭がおかしい」と表す。もしそのように強制される「非健常性」と「非標準性」が観客の笑いの対象となる寅次郎というキャラクターを愛すべき「バカ」として描くことを可能にしたのだとしたら、寅次郎のクィアネスは高度経済成長期の日本を通じてどのように考えられるだろうか、と私は常々考えてきた。河野による指摘をさらに発展させ、新たな『男はつらいよ』論が書かれることを期待している。
二つ目は第九章で論じられるクィアな老後についてである。異性愛規範的なライフコースで期待される「成長」の物語や安らかな老後がなくなってしまったら、あるいはそれらを達成することができなかったとき、何が起こってしまうのか。本章での河野の貢献は、アメリカ文学者のリンダ・ヘスによるクィア・エイジングの視点だけでなく、それを発展的に援用したアメリカ文学者の宮永隆一朗による議論を読者に紹介した点に尽きる。贅沢をいえば、第八章で分析する漫画『きのう何食べた?』についても短い言及にとどめるのではなく、第九章でもさらに濃密な分析が欲しかった。
なぜなら日本のポピュラーカルチャーにおいても、クィアな老後に対する不安や孤独を表現した作品は少なくとも1980年代からすでに存在しているからだ。とりわけ1980年代・1990年代のエイズ・パニックを生き延びた性的マイノリティたちにとって、2000年代以降、老後への想像力は欠かせないものであった。そのような想像力を拾ってきた多数の作品が提示してきた声は決して「新しい」ものではない。けれども、もしクィアな老後を「新しい声」の一つとするのであれば、海外の事例に執着するだけでなく、国内の事例へもっと目を向け、耳を向けてこそ、『新しい声を聞くぼくたち』という姿勢をさらに有意義なものにすることができたのではないだろうか。
(久保豊)