単著

稲垣諭

絶滅へようこそ──「終わり」からはじめる哲学入門

晶文社
2022年4月

ポスト太陽的思考のすすめとヴィヴァ人類

今から約60億年後、中心核での核融合反応で水素を使い果たした太陽は、膨張と収縮の力のバランスを失って膨らみ始め、巨大な赤色巨星へと変わっていく。約76億年後の赤色巨星の直径は現在の太陽の200倍以上、体積は800万倍以上、地球の公転軌道の一部を含み込む。赤色巨星の表面温度は約3000度。このとき地球はどうなる?太陽にのみ込まれ熱せられ蒸発する、太陽の中心へ落下し破壊され太陽の物質と混合する・・・科学的なストーリーはいくつかあるようだが、地球滅亡のシナリオは共通しているようだ*1

*1 「太陽にのみ込まれる運命」『日経サイエンス』2008年11月号(https://www.nikkei-science.com/?p=17236、2022年10月1日参照)

稲垣がボクらに勧めるのは、地球滅亡・人類滅亡の視点からボクらが現在直面している問題(暴力・戦争・ジェノサイド・テクノロジー・ネット社会・官僚制・環境・自然との共生・ジェンダー・資本主義・格差・身体・脱毛ツルツル化・他者非難の正義・宗教的態度・歴史性など)を見つめ直し考えてみよ、である。稲垣の勧めるこの「ポスト太陽的思考」(カッコイイ言い方!)は、ボクらが自らの絶滅へのカウントダウンを、肩の力を抜いて力まず冷静かつ素直に、しかしながら真摯に唱える。ボクらはポスト太陽的思考のレッスンを始める。

レッスンの詳細は本書を繙いて欲しい。ポスト太陽的思考の特徴は(それはボクらにとって歓迎すべきことだとわたしは思うのだが)「ケシからん」「ダメじゃん」「おとといきやがれ」の力みがまったくないところだ。一つだけ例をあげようか。

SNSから日々発信される中傷や暴力や苦しみの言葉は、発信者と受信者ともに苦しみの再認や追体験を引き起こし、苦しみを蔓延させている。だからSNSは「苦しみ増殖装置」なのだが、ポスト太陽的思考では、SNSネット通信はいけないとかヤメロのように論は進まない。ポスト太陽的な視点から見下ろせば、一定程度の平和と安全が確保された社会では暇でやることが特にない孤独が苦しみの源泉となっていて、SNSをとおした苦しみの蔓延も近代の安泰がもたらしたことなんだよという風景となる。状況証拠もある。自傷行為のインスタ投稿は、平日の午前中は少なく、夕方から夜にかけてと日曜日とが最も多いというドイツのデータ。孤独を感じやすいこの日時に、暇は勤勉の敵というプレッシャーをモロに受けて苦しみが発生するらしい(ちなみみ、精神医学や生物学や考古学や進化生物学などの最近の論文や報告を状況証拠としてたくさん持ち出しているのも本書の特色であり、好感度持てます!)。

じゃあ、苦しみの増幅と大量発生をなんとかしなければいけないと思いきや、ポスト太陽的思考は、今度は「苦しみ」や「ストレス」が人類に存在する理由を人類進化の時空規模で見つめ直し、それらの適応的価値へと留意を始める。でもこれでもまだ終わらない。苦しみは適度にあったほうがいいじゃんという言説が、権力や制度と結託して暴力となることも告発する。断罪の落とし所なきこうした「力みのない」思考がポスト太陽的思考の真骨頂なのだ。うんうん(「7. 苦しめば報われるのか」「8. 大人しい人間、裁きたい人間」のあたり読んでみてね)。

でも、見〜つけた〜!ポスト太陽的思考、徹底できてないんじゃないかってところ!

「9. 暴力と寛容」と、9と密接に関わる近代と歴史の終焉を論じて村上春樹論へと至る「12. 歴史の終わりとは何だったのか?」だ(ここだけ他と違って、何だか力(リキ)みを感じるんだけどな)。この数節は、ポスト太陽的思考から逸脱している。もっとも大急ぎで付け加えれば、不徹底だからダメんじゃんと批判したいのではない。それでイイのだと同感してるの。

暴力と攻撃をどんなに身に受け目撃しようと、それらをすべて許容し抵抗しない「絶対的寛容」は、暴力を防ぐための暴力にだけは寛容になりそれを許容することを否定する。だから絶対的寛容は、一切の不寛容がなくすべてが許される状態、いまだ人類に実現したことのない理念でもある。

他方、生命は、自らに加えられた暴力と危害に抵抗する傾向を進化の歴史のなかで身につけ、さらには、弱者に押しつけられる不合理な暴力に抵抗する暴力を例外的に許容する思想(「解放的寛容」マルクーゼ)が出現した。解放的寛容の範囲をどこまで認めるかのという問題を考え出したところで、稲垣にポスト太陽的思考が降臨する。人類史のスパンでは、実は世界全体の暴力の総量は減少している。これは識字率の上昇を始めとする世界の近代化とグローバル化の成果でもある。しかし、暴力は減少しているけれども、苦しみの総量は増えている。ジェノサイドやテロリズムやSNS上の誹謗中傷といった狡猾な「計画的攻撃性」は発揮され続けている。如何?どうすりゃいい?

ポスト太陽的思考は答える。寛容・不寛容、西洋の思想哲学、総じて「ヨーロッパ的概念パッケージ」(D. グレーバー)に触れ、読み、学ぶ機会が絶滅すること、「そこにひとつの希望を、つまり人類の終わりさえ含み込む、人間だけが考えうるような希望を見出す以外の道があるとも思えないのです」*2。二重否定分でわかりにくいけれど「これ以外の希望はない」ということだ。この引用文は、絶対的寛容の体現者としてソクラテスを挙げながらも、しかしそのソクラテス自身が、「ヨーロッパ的概念パッケージ」の一部であるプラトンの著作に私たちが触れることをとおして、不寛容を巧妙に隠して世界を侵食した近代化の産物以外の何物でもない、こう指摘したあとに登場する。プラトンを読み学ぶ機会があとかたもなく消滅すること(哲学を学び教えるコミュニティの消滅)、すなわち滅亡することが希望であるというくだりである。つまり絶滅は人類の望み得る希望なのだ(棒線強調するよ!)主張されている。

*2 稲垣(2022)214頁。

そして村上春樹論をとおして語られるのは、ポスト太陽的思考による絶滅までの時間をどう過ごすかである。組織に属さず連帯せず、しかし決まった役割と責務を果たし、ただし、自分のこなした仕事の責任の所在がはっきりしないことにイラつき苦しみながら孤独にけれども十全に生きていく。自分に暴力がふりかかっても、それを自分も含めて誰かのせいにすることもできず、力で対抗して歯向かうこともしない。大人しく弱々しいことを引き受けながら、機械的な日常のルーティーンを生きる。稲垣は『1973年のピンボール』の「僕」に絶滅までの時間を過ごす人類の「理想」とおそらくは希望を読み込んでいる。

繰り返しちゃうぞ。稲垣はポスト太陽的思考から逸脱している。ポスト太陽的思考は「人類の」希望や理想を語ってはいけない。なぜなら、ポスト太陽的思考は、人類の視点から解脱超越した、どこでもないところからの眺めであるからだ。バタイユの語った「至高性」は、たかが苦しみや痛みがあるからといって、人類の立場へと引き戻されるようなヤワさのない、そういう境地である。絶滅を本気で叫ぶなら、人類をやめる地点から、ケシ粒のような人生と人類史と地球史を眺めなければならないだろう。それでこそ、さよなら人類、ピテカントロプス(これも人類だよというイチャモンはなしよ)になる日も近づくというものだ。

哲学者のトマス・ネーゲルは、人生の意味についての哲学的考察のなかで、人間だけが生を内側から眺める視点と外側から眺める視点の両方をもつために、人生の意味や目的について悩み、死を恐れたり悪とみなしたり、不条理へのやるせなさや怒りが湧いてくることを説いた*3。それは人間だけが哲学する根拠でもあった。ボクらが、内側から眺める視点だけで生活するなら、人生の意味や神に与えられた使命などという観念はそもそも生じない。「なぜ何のためにこの文章を書いているの?」「それは原稿を依頼されて締め切りをとうに過ぎてしまったからだよ」「なぜなんのために会社に行くの?」「それは給与をもらってそのお金で食べ物を買うためさ」。これからすることの意味や目的を説明するとき、説明を人生の内側で完結させる視点に留まり続けるなら、非哲学的で即物的なこんな問答にフムフムするだけだ。

*3 以下を参照。ネーゲル(1989)『コウモリであるとはどのようなことか』(永井均訳、勁草書房)の「1. 死」「2. 不条理」、ネーゲル(2009)『どこでもないところからの眺め』(中村昇ほか訳、春秋社)の第11章「誕生と死、生の意味」

自己の外側に視点を持っていき、自分の人生を宇宙大の膨大な時空のなかに位置づけ、外側から眺めるとき、答えようにも答えられない人生の意味の問題が浮上する。「なぜ何のために生きてるんだろう?」「今ここに生きていることの目的ってあるんだろうか?」「どうしてこんなに苦しいのだろうか?」「どう生きたらいいのだろうか?」。自分の行動や状態、特にこれまでを踏まえた未来のそれらに、何か隠れた意味や目的や使命があるように思えたり、あるいは無意味に思えたり、あるいは目眩に似た感覚に襲われる。外側からの視点での思考は、ポスト太陽的思考に他ならない。

ネーゲルは、ポスト太陽的思考はニヒリズムへの誘惑と拒否の両方を含意できると指摘した。今の努力も苦しみも毀誉褒貶も成果も200年たったら無になる、だから無意味。でも、「200年たったら無になる、だから無意味」と必死に考えていることも無になる、それも無意味。だったら200年たったら無になるってことを、気にしなくたっていいじゃないかと。

稲垣のこだわりはこれとは違うようだ。絶滅を希望するし歓迎もする。けれども、それは人類の希望であり理想であり、人類という視点をオレは捨てない(おそらく「生命」の視点を捨てないと言うだろうね)。外側からの、どこでもないところからの眺めに、人類であれイヌであれミミズであれオケラであれミツバチであれ粘菌であれバクテリアであれ石英であれ、内側からの視点もやっぱ入り込んでしまう。両方の視点があってこそ哲学の思考は始まる(これってネーゲルとも共鳴する)。だから人類の希望について考えざるをえなくなる。

ポスト太陽的思考の不徹底は実は歓迎すべきことなのだと思う。ポスト太陽的思考がどこでもないところからの眺めなのだとしたら、それを徹底できないからこそ、希望も憂いもある。思考も始まる。
絶滅へのカウントダウンに備えることがボクら人類の真に望むべきことだ──主張の過激さに似合わず、ポスト太陽的思考は案外ヴィヴァ人類なのかもしれない。ボクもポスト太陽的思考へとモードチェンジした状態で稲垣さんと議論してみたい。

(染谷昌義)



広報委員長:増田展大
広報委員:岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子、堀切克洋
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年10月23日 発行