特別寄稿 ウクライナ情勢 文化面での反応 鴻野わか菜
2022年2月24日、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、それを受けて3月6日、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター主催の「SRC緊急セミナー ウクライナの情勢 文化面での反応」がズームで開催された。「ロシア・ウクライナ両国の文化的な関係に大きな注目が集まっている現在、文化の研究者たちが氾濫する情報を整理するとともに、現状に対する見方を提起」するという趣旨のもとに、「演劇」(伊藤愉)、「音楽」 (梅津紀雄)、「映画」(梶山祐治)、「文学」(奈倉有里)、「美術」(鴻野わか菜)、「文化研究」(村田真一)という6つの分野で何が起こっているかについての報告がなされた。
このセミナーでは、すでに世界各地の音楽界などで始まりつつあったロシア文化の「キャンセル・カルチャー」の状況、またロシアで反戦活動を行う文化人の動向、発言、作品が紹介された。各報告と、司会者の安達大輔氏のコメントのもとに、この間、ロシアで2つの傾向、すなわち「恥」と「沈黙」(と「削除」)が広がりつつあることも明らかにされた。文化人の多くは、戦争を始めた国の国民であること、これまで反戦活動、民主化運動に十分参加しなかったことを「恥じ」、侵攻開始直後は反戦デモに参加し、SNS等でも反戦の意を示した。しかし、3月4日、ロシア軍に関する「虚偽情報」を広める行為に対して最大15年の禁固刑を科す法案がロシア議会で可決されると、自分や家族の身を守るために、反戦を訴える公開書簡や反戦のメッセージをSNS等から削除し、沈黙する動きが広まった。本シンポジウムは、この法案が可決された2日後に開催されることとなった。
しかし、ブチャでの殺戮、マリウポリの攻撃など、戦争が長引き残酷化する中、国内にとどまっている文学者やアーティストですら、危険を冒して、戦争に関する作品や発言を公開する例が再び増加している。
モスクワ在住のアーティスト、パーヴェル・オジェリノフ(1979年生)は、マリウポリにいる親戚の身を案じながら、爆撃された住宅や、人類の破滅を象徴するような雪の荒野を描いて発表。
同じくモスクワ在住のアーティスト、アンドレイ・クスキン(1979年生)は、2014年のロシアのウクライナ侵攻の際にも、侵攻に抗議を示してロシアの権威ある美術賞の展覧会場に軍服で登場するパフォーマンスを行ったが、2022年5月15日には、今回の戦争に抗議する作品《混合》を完成させ、SNSで発表した。クスキンは、「血、糞、戦争」という言葉を、それぞれの言葉が指す材料で画布に描き、「戦争」という言葉は、血と大便を混ぜた材料で描いている。3つの言葉が大書されるスタイルは初等読本を模したとクスキンは語る。「なぜこの作品を描こうと決意したか? なぜなら、あらゆる戦争は血と糞であることを人々が忘れているように思えたからです。人はすっかり愚かになり、基本的なことを学び直すために小学校へもう一度入学する必要があるからです。だからこの作品は、初等読本のようなスタイルで描かれています。とても単純な作品ですが、人々に働きかける作品だと思います」。
また、ロシア現代美術を代表する若手アーティストで、昨年からアメリカで美術を学んでいるモスクワ出身のエカテリーナ・ムロムツェワ(1990年生)は、連作ドローイング《Women in black/戦争に反対して黒衣を着る女性たち》を3月25日にInstagramで公開した。反戦活動が危険を伴うロシアでは、黒い服を着て白い花を持って町に出ることによって反戦の意を示すグループ「フェミニズム反戦抵抗組織」が活動しているが、ムロムツェワは、「彼女たちの行為は戦争に反対するすべての人々の悲しみと痛みを表すものだ」と考え、その姿を描いた連作の公開を決意した。この連作は、「越後妻有 大地の芸術祭2022」のプロジェクトとして、7月21日から8月22日まで、芸術祭の拠点施設である「越後妻有里山現代美術館 MonET」の企画展示室で、また8月5日から28日まで、代官山のアートフロントギャラリーでも展示される予定である。本作を販売した収益は、ウクライナの避難民を支援するファンデーションに寄付される。
一方、ウクライナのアーティストは、戦争が続く中、戦地のハルキウやキーウにとどまり、あるいはウクライナ西部や国外に避難し、それぞれの場所で活動を続けている。
ウクライナ現代美術を牽引するジャンナ・カディロワ(1981年生)は、侵攻開始8日後にキーウを離れ、ウクライナ西部の山村に疎開。「最初の2週間というもの、私は芸術は夢だった、アーティストとしての私の20年はすべて夢にすぎなかった、平和な町や人間の運命を破壊する無慈悲な戦車に比べれば、芸術は無力で儚いのだと感じました。でも今ではそうは思いません」と語り、現在は、村の川の石を用いてパンのオブジェを制作している。連作のタイトル《パリャヌィツャ》は、ウクライナ語で「丸パン」を指すと同時に、ウクライナ語を母語としない者には発音しにくい単語であることから、侵攻開始以来、ロシアから潜入した偵察者を見分けるための言葉となった。パンは、平和や恩寵、生命、幸福な食卓の象徴であり、アーティストが戦争開始後に初めて制作した作品がパンであったことは、失われた生活や生命を取り戻そうとする願いのように思われる。しかし、石のパンを食べることができないように、ウクライナにはまだ平和な生活は戻っていない。作家は、本作を販売した収益をすべてウクライナの戦地の人々に寄付するため、本作を、ヴェネツィア、ベルリン、そして、日本では「越後妻有 大地の芸術祭 2022」で、4月29日から11月13日まで展示している。
クリミア半島のケルチ出身のマリヤ・クリコフスカヤ(1988年生)は、ジェンダー、フェミニズム、身体、暴力、戦争などを主題にパフォーマンスやインスタレーションの分野で活動を続けてきた。侵攻開始後、生後5ヶ月の娘を連れて国境に避難したが、そこで数週間にわたって耐久生活を送り、作家からようやくEUに入ったという連絡が届いたのは、3月19日のことだった。3月27日、クリコフスカヤは筆者に、「私は戦争が始まって以来、まだひとつも作品を作っていません。絵を描く場所も力も時間もありません。今日にでも描き始めたい。水彩画を描き始める場所が欲しい」と語った。しかし今では、下記のインタビューで詳細に語っているように、旺盛な活動を展開している。
侵攻開始直後は、芸術が戦争を止められなかったことに絶望し、創作の気力を失ったウクライナやロシアのアーティスト達も、現在は、創作を続け、その声を世界に届けようとしている。
ロシアのウクライナ侵攻に際しての両国の作家、アーティスト達の反応、活動についてはこの4ヶ月間で日本でも様々なテクストが書かれたが、ここでは、2名のアーティストのインタビューを訳出し、ロシアとウクライナのアーティストが、戦争から約4ヶ月が経つ現在、芸術や戦争について何を考えているかを記録しておきたい。
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マリヤ・クリコフスカヤ
マリヤ・クリコフスカヤの3月末までの活動は、Tokyo Art Beatに掲載された「ウクライナのアーティストの現在。避難生活中の2作家に聞く「芸術への希望」」で紹介したが、その後の作家の動向や、現在の思いについて、新たにインタビュー(2022年6月11日)を行った。
──国外に避難した後、どのような生活、活動をされていますか。
私はウクライナから独力で出国することはできませんでした。私と6ヶ月の娘と高齢の親類を出国させてくれたのは、オーストリアのオーバーエスターライヒ州博物館協議会会長のアルフレッド・ワイジンガー博士です。彼は美術館の車でオーストリアからウクライナまで8時間以上かけてやってきて、国境を超え、路上で車中泊して私たちを待っていてくれました。一刻も早く乳児を助け出そうとして。その後、私たちは、8時間ほどかけて一度も車を止めずにオーストリアのリンツへ行き、大きな広場に面したホテルに泊まりました。ワイジンガー会長は私たちに一番大きな部屋をとってくれ、ホテルのスタッフは私の子供のためにシロップを買ってきて、最大限の配慮で世話をしてくれました。その後、フランシスコ・カロリヌム州立ギャラリー等が借りてくれたアパートに引っ越しました。リンツのウクライナ避難民支援センターで服や食料を受け取りました。あらゆる人々が力の限り関わってくれ、支援してくれました。
私がウクライナの防空壕で1ヶ月の耐久生活を送っていたことをワイジンガー会長に伝えてくれたのは、ドイツテレコム・コレクションのキュレーター、ナタリー・オヨスとライナルト・シューマッハでした。彼らが私たちのウクライナ出国を助け、行き先を見つけてくれたのです。彼らは私をキュレーターのクラウス・ビーゼンバッハに、ウクライナのパフォーマンス・アーティストとして紹介し、私はベルリンの新国立美術館でパフォーマンスをすることができました。2022年8月31日には、リンツのフランシスコ・カロリヌム州立ギャラリーで大規模な個展も開催されます。これは未来のウクライナのための展覧会で、キュレーターは、ライナルト・シューマッハ、ナタリー・オヨス、アルフレッド・ワイジンガーです。彼らと、私の夫で共作者のオレク・ヴィンニチェンコの努力が不可能を可能にし、私たちのすべての彫刻と絵画をキーウから疎開させることができました。スウェーデンのアーティストで友人のアレクサンドラ・ラーション=ヤコブソンも私を支え、本当に多くの人が開かれた心で接してくれました。
私は今、フランシスコ・カロリヌム州立ギャラリーでの個展の準備をしています。個展の仮題は「そして私たちはすばらしい新世界に帰る」です。この展覧会では、疎開させた旧作だけでなく新しい大作も展示します。爆撃を免れてまだ稼働しているチェルニヒウの製鉄所で彫刻を制作し、ストックホルムのアートセンターで、その彫刻を用いたパフォーマンスをします。ブレーメンの現代美術館とバクーのゲーテ・インスティテュートでは、《254. パフォーマンス》を行います。これが今後の半年の主な予定です。
私はヨーロッパ周辺ですでに多くのプロジェクトを実施しましたし、イェール大学とデンマークの国立美術館でレクチャーもしました。こうした機関はごく小額の謝金しか支払わないことが多いのですが、私はどんなに少ない謝金であっても現地に行って仕事をします。私にとって、仕事を続けていく可能性こそが、信じがたい疲労のなかでもエネルギーや力を感じ、自分の戦いを続けていることを感じる源泉だからです。それに、私はたとえ数百グリブナであっても、時には数千グリブナであっても、ウクライナの軍隊に寄付したいのです。私は知らない方々から数百ユーロの寄付を受けましたが、そのお金はウクライナの親戚と家族に送りました。夫の命を救うための手術代として。また、2014年のロシアのクリミア侵攻以降は年金を受け取れなくなった年老いた両親が生きていけるように。正直に言えば、私は辛くてストレスを感じていますが、今、他の大多数のウクライナ人よりも良い環境にいるので、働き続けることが義務だと感じています。
──戦争のさなかのアートの役割についてどう思いますか。プロジェクトを通じて何を伝えたいと思いますか。
アートはとても大きな力です。アートは、もっとも聖なるもの、魂に触れることができ、何千、何十万の人々を目覚めさせることのできる「ソフト・パワー」です。アートは心の傷を癒すこともできます。私にとって戦争と避難は、もう8年間も続いていて、それは苦しい年月でした。この8年間、私はまさにアートを通じて生き延び、そして、国際的な文化の共同体が私を支援してくれました。アートのおかげで私は自分の感情、フラストレーション、痛み、苦悩、悪意、そして時に憎悪を、どうにか抑えることができたのです。私の家が占拠された時、アートは私を自殺から救いました。そして今では、イメージやアクションを通じて表現する可能性があるおかげで、そして私の娘エヴァと家族のおかげで、私は生き続けています。戻る場所はどこにもないことを知っていても、先に進んでいくことには意味があります。私は今も、独立したアーティスト個人としてウクライナの税金を払い続けています。私は、この税金が、誰かに防弾服を与え、誰かの命を守ることを知っています。それは、誰かの子供が両親の家に戻れること、私の国がいつか再び完全に自由になり、頭上をロシアのミサイルが飛ばなくなることを意味しているのです。
ワジム・ザハーロフ
次に訳出するのは、ロシアのアーティスト、ワジム・ザハーロフのインタビュー(2022年6月14日)である。ザハーロフは、1959年、ドゥシャンベで生まれ、イリヤ・カバコフと同様、ソ連時代はモスクワで非公認アーティストとして活動したが、1989年以降は、主にドイツを拠点に活動している。1992年からは雑誌『パストール』(8号まで)を刊行し、ソ連の非公認アーティストの活動を記録した出版家でもある。2013年のヴェネチア・ビエンナーレでは、ロシア・パヴィリオンの代表を務めたが、2022年4月23日に開幕した第59回ヴェネチア・ビエンナーレでは、「私はロシアのプロパガンダと、ウクライナでの戦争をもたらしたロシアの侵略に反対する……」というプラカードを持って、閉鎖中のロシア・パヴィリオンの前で立つというアクションを行った。
──ヴェネチア・ビエンナーレでアクションを行おうと思ったのはなぜですか。
私の国がウクライナで始めた大規模な戦争について、ロシア国民として、またアーティストとして、私の姿勢を論理的にかつもっとも正確に表現するためには、2022年のヴェネチア・ビエンナーレのオープニングの日にロシア・パヴォリオンの前でアクションをすることがふさわしいと思ったのです。私は2013年のヴェネチア・ビエンナーレで、ロシア・パヴィリオンの代表としてパヴィリオンの内部で《ダナエー》を展示しましたが、今年は閉鎖中のパヴィリオンの外に立ち、侵略を行なっているロシアの罪を告発したのです。それに私は、現時点で、ロシアの公式な催しをすべてボイコットするよう呼びかけています。しかし残念なことに、私がアクションを始めた15分後に、私のアクションを正しく理解しなかったイタリアの警察に妨害されました。
──戦争のさなかにアートはなにができると思いますか。
それは難しい問題です。現在の世界の状況は、私たちが思っているよりもずっと複雑です。始まった戦争はまだ終わっていません! それに、戦争がいつ、どうやって終わるか、だれも知らないのです。そしてその結果がどうなるかも私たちは知りません。多くの予想がなされています。私にできるのは、ロシアのアーティストとしての個人的な態度を表明することだけです。それはすなわち、ロシアの進歩的なアーティストたちは、戦争を否定する姿勢を、言葉、作品、行動、反戦的なテクストの出版で表現しなくてはならないということです。国の機関が組織する公的な催しに参加せず、ロシアのアートフェアや美術館、公的な展覧会に作品を展示することも拒否するべきです。
それと同時に、ロシア文化が、すなわちアーティスト、作家、作曲者たちが、西洋の側からの抑圧について、あらゆる場所で批判するかわりに、少し沈黙を守ることも適切であると私は思います。私が念頭に置いているのは、ロシアに対するキャンセル・カルチャーです。私は、もしもロシア文化に、とりわけロシアのアイデンティティになにが起こっているかを理解しているのであれば、(戦争に対する否定的な評価を示すために)沈黙はもっとも重要な戦略だと思います。現在、ロシアで暮らしている文化人は、沈黙を守るか、あるいは、ウクライナで犯された悲劇を真に理解するための深みのある言葉を、新しい色合いを、音を、目立たない形で探さなくてはなりません。また、ロシアで100年にわたって自由思想を抑圧してきたレーニン、スターリン、プーチンのシステムのもとでの大規模なテロルについても考察しなくてはなりません。それを理解した後ならばロシア文化の未来について話せるのだという希望を抱いています。まずはじめに、私たち各々の中にあるロシア帝国主義を排除し、ロシアと現代世界の共存の新しい形式を見つけなくてはなりません。それには何年もかかるでしょう。
──現在のロシアの検閲は、あなたが非公認芸術家として活動していたソ連時代の検閲と似ていますか。
検閲に加えて、プロパガンダについても話したいと思います。検閲とプロパガンダはいつも共に機能しているのです。1970年代末からペレストロイカまで、検閲はありましたが、スターリン時代のような厳しい検閲ではありませんでした。たとえば、「グループSZ」(ヴィクトル・スケルシス、ワジム・ザハーロフのユニット)が、ニキータ・アレクセーエフの主催するAptartで1984年に行ったアパート展覧会は、KGBによって阻止されましたが、スターリン時代だったら私たちは射殺されていました。でも実際には、作品が没収され、私は一時的な投獄によって脅迫されただけでした。ソ連後期には、プロパガンダもそれほど強力に機能していませんでした。いつもある種の「解毒剤」があったのです。当時、ソ連のシステムが終焉を迎えつつあったことを真剣に受け止めた文化人はほとんどいませんでした。
ですが、今日、検閲ははるかに強力です。ロシアでは白い紙を持って立っているだけでも投獄され得る状況です。フェイスブックに投稿しただけでも罰金刑となり、警告を受けることがあります。戦争に反対すれば、10〜15年の禁固刑になり得るという法案も成立しました。また、プーチンによるプロパガンダは、ソ連末期のプロパガンダよりもはるかに人々に影響力があり、それが原因で友人や家族の関係が破壊されています。ロシアの公共放送が流すひどい嘘に対する解毒剤はまだ見つかっていません。この流れが止まるまで、私たちは創造することはできません。だからこそ、現在、ロシア文化への注目を声高に要求することは、挑発であり、ロシア文化の自殺なのです。
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ロシア文化のキャンセルにも今は甘んじるべきだというザハーロフの主張には、すでに30年近くドイツで「他者」なるロシアのアーティストとして暮らしてきた重圧やアイデンティティも関係していると思われるが、実際には、ロシアにとどまるアーティストたち、とりわけ、長年にわたって政府に抗議し、ウクライナを支援してきたアーティストたちも、「ロシア文化のキャンセルを黙って受け入れるしかない、私たちは何もできなかったのだから」としばしば発言している。
ロシアのアーティストたちが罪悪感のうちにキャンセル・カルチャーを受け入れるしかないと考えるのであれば、そこで必要になってくるのは、キャンセル・カルチャーに対抗するための外部からの声や支援、注目ではないか。戦争が続く現在、ロシア、ウクライナのアーティストたちは、世界に表現を届けるため、他者の伴走を必要としている。
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参考:ロシアのウクライナ侵攻に際しての両国の作家、アーティスト達の反応、活動についての一連の情報は、以下のリンクからたどることができる。
「北海道大学 スラブ・ユーラシア研究センター ロシアのウクライナ侵攻特集」
また、北海道大学で開催されたセミナーも、司会挨拶、「音楽」「映画」「美術」「文学」の発表は、現在もyoutubeで視聴することができる。