村上春樹とフィクショナルなもの 「地下鉄サリン事件」以降のメタファー物語論
1994年に発表された『ねじまき⿃クロニクル』が、村上春樹にとっての重要な⽅向転換点として位置付けられることは、⼩説家⾃⾝が語る通りである。村上作品の主⼈公たちは、それまでのように内省的に世界から隔絶していく運動性ではなくて、何らかの仕⽅で能動的に世界と関わろうとする、「コミットメント」の姿勢を⾒せるようになるのだ。
著者はしかし、この『ねじまき⿃クロニクル』と、そののちに書かれた三つの⻑編⼩説━━『海辺のカフカ』、『1Q84』、『騎⼠団⻑殺し』━━との間に、重要な差異を⾒出す。これら三作品には、「メタファー」の連鎖としての物語構造を持つ点が共通している。そして、「メタファー・ゲーム」としての物語、というその着想に⼤きく影響したのが、オウム真理教団が1995 年に起こした「地下鉄サリン事件」だというのだ。⿇原彰晃が有していたある種の「メタファー」への感受性を⾒抜いた村上春樹の、「⿇原の差し出すジャンクの物語を放逐できるだけの、つまり浄化できる『まっとうな⼒を持つ物語』」(本書39⾴)を持ち得なかったことに対する⼩説家としての負い⽬が、「メタファー・ゲーム」としての物語の成⽴につながったのだと、著者は論じる。
本書は、この三作品における「メタファー」の構造を分析し、それが、⼩説世界におけるリアリズムとファンタジーの対⽴を解消しつつ、物語を推進させる機能を担っていることを明らかにする。その精緻な読みによって、村上春樹という⼩説家にとっての「コミットメント」の表現において「メタファー」が果たしている決定的な役割が浮かび上がってくる様は、とても刺激的である。
著者が語るように、彼の作品における「メタファー」の意義は、同⼀性を宙吊りにし、「メタフォリカルな多重関係を維持する」(95⾴)ことにある。だから『海辺のカフカ』に登場する佐伯さんは、カフカ少年の⺟であり、また同時に⺟ではない。その類似性の強度は、登場⼈物の⼼情に依拠しながら揺れ動くのであり、読者の読解次第でも変容する。その意味で⾔うならば、⿇原は決して優れた「メタファー」の使い⼿ではなかっただろう。たとえば彼が⾃らを再臨したキリストとして演出した時、⿇原とキリストとの間には「メタファー」関係があったと考えることもできるかもしれない。しかしそのような演出は、(とくに信者に対して)⿇原とキリストの同⼀性を強化し、それ以外の解釈を排除するための機能しか果たさなかった。
「地下鉄サリン事件」というカタストロフを⽣んでしまった一義的な物語、つまり特権的な⽴場から暴⼒的に押しつけられ、または誘惑的に与えられもする物語を、本来の「メタファー」の⼒によって解体すること。つまり、個によって⾃由に読み替えられ、⽣き直すことが可能な「メタファー」によって紡がれる物語を作ること。村上春樹の「メタファー・ゲーム」としての物語は、『アンダーグラウンド』から連続する、社会的カタストロフに対する応答だったと⾔えるのかもしれない。
(菊間晴⼦)