『セルオートマトンによる知能シミュレーション 天然知能を実装する』
本書は、浦上と、ほぼ10年前、彼の大学院指導教員であった郡司が、複雑系の科学から生まれたセル・オートマトンを素材とし、そこに郡司の提唱する天然知能を実装してその振る舞いを論じ、近年注目を集めるリザバー計算に応用して、機械学習における有効性を論じたものである。天然知能と言うと、何か人間礼賛のような、自己啓発的概念にも思われがちだが、形式的に構成可能であり、技術としてさえ可能であることを示したわけだ。数式を多用したものではあるが、少なくとも、科学哲学やシステム論、生命論などの人文系研究者には読めるように配慮している。
本書は、セル・オートマトンや計算概念に特化したものではなく、「徹底的に受動的である様態=外部を受け入れる態度」を、アルゴリズムとして与えることで、その具体的事例を示したものだ(アルゴリズム化すること自体が重要なのではない)。それは、決定論ではなく、ランダムネスを受け入れることで時間発展が進行する、という形を取り、決定論的時間発展の形式(例えば微分方程式やセル・オートマトン)にランダムネスが線型結合する形式とは、本質的に異なるものだ。本書で示した「偶然性を受け入れる形式」は、さまざまな場面、さまざまな形で実装可能であり、ここではその一つの例を提示しているに過ぎない。ただし、具体的であるが故に、徹底して受動的な態度・受動的な装置という構想は、理解可能であると期待される。この偶然性の本質的意味を、とりわけ日本の人文研究者、表象文化論の研究者には是非、触れていただきたいと願っている。
著者の一人である郡司は、1980年代末、スペンサー・ブラウンのブラウン代数やヴァレラを知り、オートポイエシスを研究し、ブラウン代数をモデルとするヴァレラのオートポイエシスは、同期時間を前提とするセル・オートマトンに同じであると結論づけた。それはシステムの内と外をうまく接続し、物質的循環の維持を公理とする特定の力学系に過ぎない。オートポイエシスにおいて、自律性は、自己創出の公理と規定される。公理であるが故に、外部からコントロールされることの否定として自律性が定義されるわけだ。
郡司は、オートポイエシスに生命の自律性を見出せないと考えたが、同時に、ヴァレラが唱えるスペンサー・ブラウンの変調関数を本質的に拡張し、空間における時間の非同期性を導入するなら、逆に自律性を構想できる可能性があると論じ、いくつかの論文を著した。非同期を実現するために偶然性を受け入れざるを得ないという状況こそが、『セル・オートマトンによる知能シミュレーション, 天然知能を実装する』で論じる徹底した受動性としての自律性に繋がっていく。当時、時間を非同期にするセル・オートマトンの研究はほとんどなく、非同期時間の導入は、偶然性を受け入れることで初めて時間発展が可能となる枠組みを提供するものだった。しかし日本では、社会学のルーマンの影響が大きく、その後、概念的にオートポイエシスに似た、環境との予定調和的相互依存性を唱えるアフォーダンスの影響もあり、オートポイエシスは広く受け入れられることになる。ヴァレラはその後、内と外のインターフェースとして「身体」を導入し、身体化された心(エンボディード・マインド)を構想していく。それはオートポイエシスの延長であり、現象学に範を求める人工知能や、自由エネルギー最小化原理によって根拠づけられるようとされる「経験世界=世界」なるベイズ推論の描像にも整合的で、認知科学・脳科学・人工知能の趨勢は、内と外の循環として構想される世界系へと収斂しつつある。
オートポイエシスは、自己言及の肯定的展開に変調を加えたものに過ぎず、外部に対する徹底した受動性=偶然性の受容、とはかけ離れた態度である。天然知能とは、内部へ遡行する統語論的自己言及と、外部へ展開される意味論的フレーム問題の接続を、より明確に構想したものだ。すなわち、部分と全体という二項対立的概念の共立(肯定的アンチノミー)を自己言及の一般化、その二項の脱色・無効化(否定的アンチノミー)をフレーム問題の一般化と捉え、両者の接続によって、問題にされる二項対立からは予想もされない外部を受け取る装置として、天然知能が構想されるのである。
本書は、部分と全体をオートマトン規則の適用に関する能動と受動とに置き換え、能動・受動の肯定的アンチノミーと否定的アンチノミーの共立を実現する。それこそが、外部にあるもの(計算機の中ではランダムネス)を引き受けることで初めて非同期時間を駆動し、非同期時間の駆動がさらなるランダムネスを要請する、天然知能型オートマトンをもたらすのである。同期時間で実装される通常のオートマトンであるなら、生命のようなカオスと秩序を適度に組み合わせた振る舞い(カオスの縁と呼ばれる)は極めて稀有となる。ところが天然知能型オートマトンでは、カオスの縁が極めて一般的となる。つまり本書の主張は、外部を受け入れる形式こそが、進化をもたらし、物質から意識への歴史を根拠づけるということになる。逆に、外部を受け入れない立論は、内部にホムンクルスの変形に過ぎない秘密の構造を内在させ、あとは組み合わせで何か出てくるとする錬金術となってしまう。重ねていうが、偶然を受け入れるとは、決定論への結合とはレベルが異なるものだ。それが一体なんなのか、表象文化論学会の会員には、各々、それを展開してもらうことが、新たな生命論、創造論を切り拓くと期待される。
(郡司ペギオ幸夫)