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アーカイブのゆとり:インド国立デザイン研究所アーカイブ機関「EXPERIMENTS IN ART AND TECHNOLOGY: INDIA 1960s & 70s」国際連続会議レポート

報告:中井悠

インド西部にアーメダバード(アフマダーバード)という街がある。長いことグジャラート州の州都だった大都市で、イギリスの統治下で盛んになった繊維工業と、その統治からの解放を目指したマハトマ・ガンディーが活動拠点としたアシュラム(道場)で知られる。

1946年、この街に住むギータ・サラバイという当時24歳の音楽家が、インドの伝統音楽に西洋音楽が与えている影響を憂いたあげく、そのような影響から伝統を守るためには西洋音楽がそもそもなにかをきちんと知ることが必要だという考えにいたった。幸いにして彼女は、繊維工業で莫大な財を成し、ガンディーの独立運動のパトロンでもあった地元有数の名族サラバイ家の出身だったので、思い立ったが吉日とばかりに、西洋音楽の本場たるニューヨークに旅立った。半年に及んだ滞在中にギータは数々の西洋音楽家と知り合うが、とりわけ仲良くなったのは自分より十歳年上のジョン・ケージという風変わりな作曲家で、彼とは現代音楽と対位法を教えてもらう代わりにインド音楽を教えるという交換条件を交わしてほぼ毎日会うようになる。

この交流を通じて学んだインドの音楽思想がケージの作品や言説に与えた影響についてはよく語られてきた。けれど、ギータがインドに帰国したあとも交流が長く続いたことはあまり語られない。とりわけ1958年のヨーロッパ・ツアー中、ロンドンに住んでいたギータの義姉マノラマの家に泊めてもらった際に、ケージに同行していたデーヴィッド・チュードアがマノラマと意気投合したあとは、ケージとギータの周囲でもアーメダバードとニューヨーク間の文通が活発になっていく。チュードアがインド料理に目がなかったこともやりとりに拍車をかけた。じっさい、サラバイ家からの度重なる招待に応えるかたちで、1962年11月に(日本ツアーの帰り道に)アーメダバードへはじめて赴いたのはケージではなくチュードアだった。

それから四年後、ニューヨークでExperiments in Art and Technology [E.A.T.]という、実験的な芸術と工学的な技術の交流をサポートするアーティストとエンジニアの団体が結成される。ケージとチュードアもはじめからメンバーに名を重ねたが、より密接に関わったのは自作回路を使った電子音楽を手がけ、エンジニアたちとの技術的な議論をたしなむことのできたチュードアの方だった。そして、ほどなくしてE.A.T.の活動もサラバイ家の面々と結びついていく。

そのさきがけとなったのは、ギータの兄妹のギーラとゴータムが設立に関わった国立デザイン研究所(NID)にインド初の電子音楽スタジオをつくる計画をチュードアに持ちかけたことだった。依頼を受けたチュードアは、1969年の10月から12月にかけてアーメダバードに滞在し、当時最先端のモーグ・シンセサイザーを持ち込んでスタジオをつくり、電子音楽の制作ワークショップを行なった。参加者を呼び寄せるためにNIDがばら撒いたフライヤーには、デーヴィッド・チュードアはビートルズに電子音楽を教えた先生で、ニューヨークの名高い「E.A.T.研究所」の所長だと書かれていた。結局集まったのは七人ばかりの受講生で、最後の成果発表まで残ったのは五人だけだった。ギータもそのうちの一人だったが、本番を直前にして出演を見合わせた。その結果、チュードアが土壇場で、実は個人的に忌み嫌っていたモーグ・シンセサイザーを使った音楽を作って穴を埋めたとされる。

同じ1969年の暮れにはE.A.T.の他のメンバーもインドを訪れ、ギータたちの兄の物理学者でインドの宇宙計画の父として知られるヴィクラム・サラバイの手引きで、アメリカのアーティストたちがインドの農村を訪れ、村人たちとともに制作した乳搾りバッファローの世話の仕方に関する教育番組を350の農村に衛星放送するアナンド・プロジェクトをはじめる。そして翌70年から一年間に渡ってアメリカのアーティストやコレオグラファーたちにインドを巡らせる企画《American Artists in India》がロックフェラー財団のサポートを受けて実現し、トリシャ・ブラウンやイヴォンヌ・レイナーなど十人が旅立った。こうして、西洋文化の影響から伝統を守るためにニューヨークに赴いた一人の音楽家の決断の皮肉な帰結として、彼女の思惑とは裏腹に、アーメダバードはインドにおけるアメリカ実験芸術の拠点になっていく。

あるいはそのはずだった。だがまもないうちに、国立機関であるはずのNIDをサラバイ家が私有化しているという批判がアーメダバード中に広がり、ギータの兄妹たちは70年代半ばに研究所から追い出されてしまう。その結果、E.A.T.のインドでの活動も徐々に途絶え、チュードアが手がけた電子音楽スタジオも数年以内に閉鎖され、モーグ・シンセサイザーはタダ同然の値段でNID卒業生の一人が引き取り、内部をシロアリに食われるがままに放置された。数年前に旅行でアーメダバードに立ち寄った際、持ち主に連絡してみたが、たとえチュードアの亡霊がやってきて個人的にお願いされたとしてもこの楽器は誰にも見せられない、という丁重な断りのメールが返ってきた。

2021年の7月から10月にかけて、NIDのアーカイブ機関の主催で、半世紀前にインドで繰り広げられたE.A.T.の活動を振り返る国際オンライン連続会議を開催した。世界各地からテーマに関わりのある活動をしているアーティストや研究者が集い、隔週の金曜日に一人もしくは数人の発表セッションを行なった。参加したのは、最終回にチュードアとE.A.T.の研究者として発表した中井のほかは、NIDを卒業したインドのアーティスト/デザイナーで、母校で最近E.A.T.をめぐる授業を行なったときにE.A.T.が70年代に残していった機材をたまたま発見したランジット・メノン(Ranjit Menon)、イギリスのアーティストで、70年代のインドにおける宇宙計画と芸術の相互作用についての研究をずっと続けているジョアンナ・グリフィン(Joanna Griffin)、E.A.T.の立ち上げ時から活動に加わり、インドにおけるプロジェクトに全面的に関わったあと、現在E.A.T.のディレクターを務めているジュリー・マーティン(Julie Martin)、インド系イギリス人の音楽家で、自分の家族のルーツを辿りながらアーメダバードに調査に行き、チュードア滞在時に学生たちが作ったテープをNIDで発掘したポール・パーガス(Paul Purgas)、アメリカの東アジア文化研究家で、パーガスの調査のきっかけともなった、チュードアのNID滞在に関する素晴らしいエッセイを十年ほど前に書いたアレクサンダー・キーフ(Alexander Keefe)という、出身も立場も世代もテーマに対する関わり方も多様な面々だった。しかも、それぞれ知り合いを自由に呼んできてもいいことになっていた。だからたとえば、メノンは現在教えているフィンランドの大学の同僚でE.A.T.に強い関心があるサウンド・デザイナーのクリスティアン・エクホルム(Kristian Ekholm)と一緒に登場し、マーティンは1970年の《American Artists in India》プロジェクトでトリシャ・ブラウンとともにインドを回ったジャレッド・バーク(Jared Bark)を連れてきた(彼の思い出話を通じて、ブラウンが70年代に展開したダンス・スコアのいくつかがインド滞在時の経験に由来するとわかったことが個人的には大きな収穫だった)。このような偶然に任せた内容の広がりを反映して、観客の方も、五十年前にE.A.T.のプロジェクトに関わったニューヨークのエンジニアから、現在NIDに通っているアーメダバードの学生まで、世界各地から時差も厭わず雑多な顔ぶれが毎回集まった。良い意味での緩さをさらに推し進めたのは、発表もディスカッションも時間に関する縛りがなかったことである。こうして通常の学会では経験したことのないゆとりに包まれて、当初のプログラムからは予測できない発表が毎回上演され、オンライン会議の特性をうまく使った豊かな交流と議論の場が生み出されていた。

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とりわけ議論が白熱したのは、インドにおけるE.A.T.の活動を文化帝国主義のきらいがあるとして、ロックフェラー財団など資金の出どころから、滞在したアメリカのアーティストたちの心情までを細かく辿りながら、相互交流というより一方的な思いの押しつけだったと批判的に描写したキーフの発表のあとだった。ジュリー・マーティンが実際にプロジェクトを動かした立場からキーフの話におけるいくつかの事実関係の誤りを正したあと、現在NIDに通っている若い学生がアメリカ側の思惑とは裏腹に、E.A.T.の活動がアーメダバードに及ぼした影響について説明し、それが忘れられつつあるように見える近年のNIDの動向を嘆きながら、今回のようなシンポジウムを通して見失われた伝統との接点が浮かび上がることの重要性を語ったように覚えている。まるで、かつてのギータの憂いが、その憂い自体の廻り回った逆説的な効果として生み出された伝統を対象に変えて繰り返されているような、不思議な印象を受けた。

ただし、そもそも交流の副産物として形成された伝統が一枚岩ではないのと同じように、その伝統の連続性を保証するはずのアーカイブもまた分裂を抱えている。NIDのアーカイブ機関が主催するシンポジウムでありながら、奇妙なことに今回の発表者のほとんどは、自分の思い出や別のアーカイブの資料に頼った話をした。それはNIDのアーカイブ自体が未整理であることと(最近になって、外部から訪れたパーガスがチュードア関連の音源を発掘し、メノンがE.A.T.の機材を発見したことに現れているように)、現在のコロナ禍において新たなアーカイブ調査ができないことが大きく関わっている。でもそれ以上に、アーメダバードにおけるE.A.T.の活動に関する関連資料のほとんどが、インドではなく、ニュージャージー州のジュリー・マーティンの自宅アーカイブと、ロサンゼルスのゲッティー・センターに保管されているという事情がある。だからNIDの学生が母校の伝統を遡ろうとすれば、かつてのギータと同じくアメリカに赴くしかない。会議の重要な成果のひとつに、こうしたアーカイブにおける文化帝国主義的な不均衡を多少なりとも是正するために、参加者の間でデジタル化された資料のオンライン上での共有と共同研究が進みはじめたことがある。

ただし、アーメダバードも一枚岩ではない。ギータのアメリカ行きを支えたサラバイ家であれば、自分たちが設立したNIDの学生向けに留学を援助するプログラムを立ち上げそうなものだが、70年代半ばに仲違いして以来、ギータの家族と研究所の間にはずっと確執が続いている。そのため、NIDのアーカイブ機関はサラバイ家の保管する資料にアクセスすることができていない。ディスカッションでは、この問題を解決するため、その交流と確執の歴史の外部にいる中井がサラバイ家にアプローチするのが一番良いという暫定的な結論に至った。

だが正確に言えば、ぼく自身もこの歴史と影響の連鎖から切り離されているわけではない。上記のような議論を踏まえて、シリーズ最後の発表の終わりで話したのは、むしろ自分のチュードア研究が奇妙な形でE.A.T.のインドにおける活動の遠い副産物であることに最近気づいたということだった。2007年にゲッティー・センターに保管されているチュードアのアーカイブにたまたま出くわしたことから研究をはじめたが、そもそもロサンゼルスに赴いたのは、イヴォンヌ・レイナーが1972年に制作した《Grand Union Dreams(グランド・ユニオン・ドリームズ)》というダンス演劇の再演を目論んでいて、その関連資料がゲッティー・センターに保管されていたからだ。そして《Grand Union Dreams》は、レイナーがE.A.T.のプロジェクトでインドを旅した直後に、その体験の強い影響を受けて作ったパフォーマンスだった。

そのような巡り合わせからチュードアを研究しようという考えにいたり、ニューヨークに旅立った。そこでチュードアの友人たちと多く知り合ったが、とりわけ仲良くなったのがE.A.T.のジュリー・マーティンだった。数年前、彼女の自宅アーカイブに遊びに行ったとき、録音の山に埋もれていた昔のチュードアの音源を発掘した。調べた結果、これは1969年12月にアーメダバードで、ギータの土壇場でのキャンセルを受けてチュードアがしぶしぶ行なったモーグ・シンセサイザーを使った演奏の録音だということがわかった。その未発表音源を、《Monobirds: From Ahmedabad to Xenon 1969/1979》という二枚組のレコードと長大な解説ブックレットとしてデンマークのレーベルTOPOSから出すことになった。(https://topos.media/physical/topos09.html)奇しくもその発売日がこの一連の会議の最終日と重なっていたため、最良のリリース・イベントにもなった。後日、このレコード一式がアーメダバードに送られ、オリジナルのリールテープと五十年ぶりの再会を果たし、NIDのアーカイブにともに納められた。

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本会議の発表を含めたNID電子音楽スタジオをめぐる論考集(Subcontinental Synthesis: Electronic Music at the National Institute of Design, India 1969–1972)が、MIT Pressから今年中にも出版される予定である。

会議が終了した後、NIDのアーカイブ機関が記録映像を編集してオンライン・アーカイブを作ることになっているが、半年経ったのにまだゆとりを持って作業をしているようで、残念ながら今回のレポートには間に合わなかった。

(中井悠)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年3月3日 発行