第15回研究発表集会報告

研究発表4

報告:宮川麻理子

日時:2021年12月5日(日)10:00-12:30

  • 今村太平と「音画的原形質」──アニメーションにおける「原形質」の感覚横断性の再検討/王琼海(立命館大学)
  • 物音と言葉──リチャード・フライシャー『ラスト・ラン』の音響設計/早川由真(立教大学)
  • 現代映像芸術のスクリーン・プラクティス──2021年に開催された3つの展覧会を中心に/馬定延(関西大学)
  • アントナン・アルトーの俳優論再読──新しいスペクタクルのために/吉水佑奈(神戸大学)

司会: 仁井田千絵(京都大学)

研究発表4 スクショ.jpeg


研究発表4では、仁井田千絵氏による司会のもと、アニメーション、映画、映像芸術、そして俳優論をめぐって4名の発表が行われた。共通する問題意識として浮かび上がったのは、視聴覚の領域を横断しつつ先行研究で十分に議論されていないトピックを扱い、対象についての新たな視点を提示しようとしていたこと、そしてその中で、演者あるいは観客の身体そのものが改めて問われていた点である。

最初の王琼海氏の発表「今村太平と「音画的原形質」──アニメーションにおける「原形質」の感覚横断性の再検討」は、まずエイゼンシュテインが論じたアニメーションに特有の「原形質」、すなわちキャラクターの輪郭がどのようなフォルムにもダイナミックに変化できる性質に着目した。先行研究では、原形質には五感を呼び起こす共感覚的性質があると指摘されているが、王氏は、聴覚は視覚から派生する二次的なものとされ、両者は対等ではないと問題提起を行った。そこで、原形質と音との関係を論じるため、今村太平の「漫画映画論」におけるディズニーキャラクターの描写に着目する。

戦時下のアニメーション理論家・今村太平は、これまでエイゼンシュテインの原形質論を捉え逃していると批判されてきたが、実は原形質論と同様の議論を「音画」という語彙のもとに、感覚横断的に視聴覚両側面から検討していたのではないか、というのが王氏の主張である。戦時下に用いられた「音画」とは、袋一平が「sound picture」を訳したもので、映像と音の関係を表す特殊な用語である。トーキーが登場して間もない頃は、資本主義西欧の「トーキー」に対して、ソビエト映画に向けて「音画」という言葉が使われていた。今村は、この音画の中で、音楽の原始性にアニメの前衛性を見出し、アメリカの資本主義国家の技術崇拝を批判した。しかしここで興味深くまた倒錯的であるのは、今村が原始芸術を称揚するために、この音画的なものをアメリカ映画の中に、すなわちディズニーアニメの中に見出そうとしたという指摘である。キャラクターがメタモルフォーゼし、機械と一体化していくディズニーキャラクターは、一見すると近代的で進歩主義的なものである。しかし、その時に奏でられる音楽は、音楽の雑音化であり原始への回帰である。王氏は、ディズニー映画に見られる機械(産業資本主義)へのメタモルフォーゼの中に、ノイズ的な原始的音楽への回帰を見出す今村の両義的態度が見られると主張する。

それでは今村が評価したこの原始性は、原形質とどのような関係があるのだろうか。ディズニー映画では、効果音と音楽が不可分であり、ミシェル・シオンがいうところの「音像接合」が存在する。王氏は、今村が論じた生活音と音楽の相互転換は、この「音像接合」と同様であり、音の未分化な状態を原始性と呼んで再評価した。さらに人間の感覚はメディアによって変容し、視聴覚経験も変化していくことで、諸感覚が未分化な状態へと回帰する。ここに、王氏が指摘する「音画的原形質」の特性がある。産業化された機械へと変容していくディズニーアニメが、原始的な音を伴い、見るものの感覚を聴覚的にも変化させるものであり、それこそまさに原形質的な性質であるという内容は、大変刺激的であった。

なお、質疑応答(※実際は4名の発表の後に全体討議として行われた)の中では、今村の音画理論をあくまで原形質に結びつける動機が問われたが、今回は今村の潜在的なポテンシャルを引き出すことに主眼が置かれたとのことであった。

早川由真氏による「物音と言葉──リチャード・フライシャー『ラスト・ラン』の音響設計」も、映像の中の音に着目した発表であった。早川氏は、1960年代末から70年代中盤にかけてのアメリカ映画の変革期、多数のロード・ムーヴィーが注目を集めた中で、なぜフライシャーの『ラスト・ラン』が周縁的な作品として扱われたのかという問いを立て、本作の特殊な音響設計に焦点を当てて分析する。そもそもジャンルを規定する要素が多様で輪郭が曖昧な「ロード・ムーヴィー」ではあるが、その特徴は、早川氏によれば、身体と機械が一体となった生命体と共に、ある種の情感を提示するものであるという。

『ラスト・ラン』の分析に当たってまず注目されたのが、車の疾走場面と音楽の関係である。同時代の映画と比べると、本作ではカーチェイス場面において、エンジン音やタイヤの軋む音等が響く即物的な音響設計になっているという。ただしジェリー・ゴールドスミスの伴奏音楽が使用されているなど、投錨的音楽も完全には排除されていない。同様に早川氏が注目したのが、キャラクターの身体レベルでの物質性と意味の両義性である。例えば、明確な言葉や表情を見せるリカードに対し、無言で表情のみで示唆するクローディが対峙される。また、他者をモノ扱いするリカードに対して、車さえも人と同様大切に扱うガームスが浮かび上がる。

早川氏が注目したのは、ガームスが撃たれ、こと切れる場面である。この時、車のエンジンが切られると同時にガームスも絶命する。それはあたかも、人馬ならぬ人車一体の瞬間であり、身体がモノになる瞬間である。ここで特徴的なのは、ゴールドスミスによる叙情的な旋律が流れる、早川氏によると「モノの側から見た情感を際立たせる」演出である。それは、投錨的音楽と、機械と身体の一体化が中心であったニュー・ハリウッドの時期において、本作の独自性と言える場面である。身体のモノ化を描くことで、モノの側から見た情感が提示される点が本作のロードムーヴィーとしての特異性であるという指摘は、音と映像の詳細な分析に基づいており、説得力のあるものであった。

質疑の中では、アニメーションのサントラと映画における効果音と音楽の区分の差異や、フライシャー作品に通底する身体のモノ化についてさらなる議論がなされた。

続く馬定延氏の「現代映像芸術のスクリーン・プラクティス──2021年に開催された3つの展覧会を中心に」では、スクリーンを、映像文化を支える同時代的な関係性を切り出す方法と捉え、3つの展覧会を概観し、その意義を検討した。ピピロッティ・リスト「あなたの眼はわたしの島」展、ホー・ツーニェン「ヴォイス・オブ・ヴォイド──虚無の声」展、ロイス・アン「満州の死…それは戦後アジア誕生の基盤である」展は、いずれもコロナ禍において開催され、作者本人の来日が叶わない中で実現された。馬氏が指摘したのは、2020年以降展示空間はネット上に移行され、オンライン空間が現実の代理ではなく、特化された芸術表現を能動的に提供する場所となり、その基盤にスクリーンを通した体験が存在する点である。

こうした状況下において実現された「あなたの眼はわたしの島」展では、映像の支持体となるのは、スクリーンに限らず壁や建築そのもの、その場に置かれたオブジェ、そして観客の身体という3次元的な空間である。馬氏が指摘したのは、ここではコロナ禍の状況とは真逆に、集団的な体験がデザインされており、身体の反応を感じながら、空間的な経験から生まれるものを知覚し、その場にいる「私」と周囲、すなわち公と私の区別を曖昧にする機能を持つという点である。

「ヴォイス・オブ・ヴォイド──虚無の声」展では、プロジェクションとVR体験が組み合わされ、さらに聴覚的要素も多面的に展開された。朗読やVRを通した動作体験では個別の身体が受動的ではなく、どのように振る舞うか決定する能動的な身体、馬氏の言葉で言えばコントロールするゲーム的な身体へと変容する。ただし本作は、作品の構造を意図的に露出し、観客が役割を演じているという自覚をもち、虚構世界への没入を妨げている。その目的は、歴史に対する理解を条件付ける距離について問いかけることであると馬氏は結論付けた。

3つ目に取り上げた「満州の死…それは戦後アジア誕生の基盤である」は、オンラインでの展示にも関わらず、倍速再生はできず、早送りも巻き戻しもできない仕掛けになっている。ネットの動画再生では視聴者が速度を自在に操ることができるのとは真逆に、個人がコントロールできない体験を提示するという、ネット空間における特異な展示である。馬氏が問題にするのは、こうした展示空間の変化は、現代の映像芸術の美学や実践、その受容にどのような影響を与えるのかという点である。また、インターネットでのアーカイブの可能性ではなく、一度しかアクセスできない、オンライン体験の一回性がどのような意味を持つのかと問題提起をして発表を終えた。

質疑の中でさらに踏み込んだのはホーの展示であり、観客が聞く囁き声の音量がもたらす効果や、声を聞くためには身体を能動的に対象に接近させる必要がある点などが述べられた。展示空間における聴覚的効果の興味深い事例であり、かつ馬氏がコメントしたように、パネル全体が声、音、映像の問題として相互に関連していたことが改めて浮かび上がった。

最終発表者の吉水佑奈氏は、「アントナン・アルトーの俳優論再読──新しいスペクタクルのために」という題のもと、アルトーのテキスト「情動の運動 Un athlétisme affectif」(1935)を題材とし、残酷演劇に見られるアルトーの俳優論の再読を試みた。その理論は、60年代の舞台芸術にとりわけ大きな影響を与えながらも、その上演の不可能性が指摘されてきた。吉水氏はアルトーの「スペクタクル」概念に着目し、この独自の演劇空間の成功は、俳優の演技の有効性にかかっているという点を手がかりに、「情動の運動」をキーワードとして演技論を再検討していく。

今回吉水氏が焦点を当てたのは、呼吸の役割である。この生理学的レベルで論じられた俳優のあり方は、同時代の心理主義演劇に対抗するアルトー独自のスペクタクル論の要になる。まず注目されたのは「心のアスリートである俳優」という点である。ここでいう心とは、心理主義とは異なり、俳優が持つ「情動の筋肉」を指し、感情は肉体に地点を有するという。そして演技は、肉体の運動と情動の有機体の運動が共に拠り所とする地点から生まれるが、その運動の方向性を左右するのが呼吸である。

「呼吸」とは、吉水氏によれば、肉体の地点にある感情の高揚に対応するものであり、この知識は演劇が心理主義から決別するために必要とされる。この議論から想起されたのは、俳優とは、呼吸をコントロールし、情動のありかをその身体のうちに規定し、それを観客と共有する、ある意味で身体レベルでのコミュニケーションを実践しようとしていたと考えられることであり、それは例えば、言葉を用いない表現者として、舞踏家のなせる技に近いのではないかということである。

さて、その呼吸にはそれに伴う「努力」が必要だという。ここでいう努力とは、残酷の一つであり、呼吸が感情の場所を、肉体・情動の有機体において見つける/外在化させるとき、それを駆動するものであり、この努力はスピノザのコナトゥスと読み替えられるのではないか、と吉水氏は指摘する。

最後にそうした呼吸の実践によって「スペクタクルと観客」がどのように一体化するのかという議論が展開された。ここで俳優に要請されるのは、観客が触れなければならない地点を理解し、呼吸の方法と身体認識を獲得することである。しかしアルトーの同時代の俳優はその方法を知らない。つまり、戯曲に従属し喋ることしかできない。その従属を突破する一つの方法として想定されているのが、呼吸の一つの形態としての叫びである。なるほど、アルトーは確かにラジオドラマ《神の裁きと訣別するため》などでも叫びを放っている(この点については質疑応答にて指摘された)。しかし「来るべき俳優」として想定されている「自らの身体認識を使って観客をスペクタクルと一体化させる」には、呼吸だけでは十分ではないだろう。吉水氏の指摘した通り、アルトーが想定した演技以前の俳優の身体の問題や、演技のメカニズムにはまだ検討の余地があると思われる。

質疑の中では、「一体化した状態」とは観客にとってどのような状態であるのかという問いが投げかけられ、アルトーが言及したバリ島の演劇を引きながら、観客と俳優が分離されない状態に吉水氏は言及した。また、アルトーがテクストを執筆した年代から、残酷演劇の定義の変遷やアルトーの思考の推移も検討できるのではないかとの指摘もなされた。

(宮川麻理子)


今村太平と「音画的原形質」──アニメーションにおける「原形質」の感覚横断性の再検討/王琼海(立命館大学)
近年のアニメーション研究において、エイゼンシュテインの「原形質論」を再評価する流れがあった。「原形質」とは、キャラクターの輪郭などが不定形で、自由に変化できる性質を指し、アニメーション独特の魅力とされてきた。今井隆介、土居伸彰などの先行研究では、この不定形の性質を視覚だけでなく、聴覚も横断する前感覚的なものとして再定義した。しかし、そこでは聴覚=音声を視覚から派生する二次的なものとして捉え、映像と音声は対等な関係ではなく、その相互作用への言及が不十分である。
この問題を解決するために、エイゼンシュテインから影響を受けていた戦時下のアニメーション理論家である今村太平を取り上げる。先行研究では「原形質」を捉え逃したと批判される今村は、映像と音声の関係性を指す戦時下の特殊な用語「音画」を使い、「原形質論」と類似する理論を主張しただけでなく、それを感覚横断的なものとして、視聴覚の両方面から検討した。
本発表では、今村の「音画的原形質」の実態や、そこに至るまでの道を明らかにするために、戦時下の映画雑誌などの一次資料を使い、「音画」という言葉の歴史的文脈を説明した上で、今村のテキストを解読する。最終的に、「音画」による感覚のメタモルフォーゼという「音画的原形質」の意義を議論し、原形質論おける映像と音声の関係を対等なものとして捉え直し、その相互関係を考察する。

物音と言葉──リチャード・フライシャー『ラスト・ラン』の音響設計/早川由真(立教大学)
本発表では、リチャード・フライシャー監督『ラスト・ラン』(The Last Run, 1971)における映像と音の関係を分析する。1960年代末に始まるアメリカ映画の変革期(ニュー・ハリウッド)には所謂「ロード・ムーヴィー」が多数制作され、自動車の疾走感をもたらす音楽と映像の結びつきが様々な仕方で描かれた。先行研究は本作品を「ロード・ムーヴィー」ジャンルのなかに位置づけてきたが、あくまで周縁的な作品として扱い、その独特の音響設計について充分に論じてこなかった。そこで本発表では、Margaret Herrick Libraryにおける一次資料調査の成果を反映しつつ、以下の問題を中心に作品分析をおこなう。まず、冒頭の走行シーンおよび見せ場となる中盤のカーチェイス・シーンにおいて、なぜ音楽を用いずに物音を強調した音響が設計されているのか。こうした音響設計は、「ロード・ムーヴィー」の系譜において、あるいは音響に関する技術的な変革が生じたニュー・ハリウッドの作品群において、どのように位置づけられるのか。これらの問題を明らかにしつつ、まさに音(声、言葉にすること)と映像(顔、言葉にしないこと)の微妙な関係そのものが主題化されるメイン・キャラクターたちの描写についても考察していく。以上の分析を通じて本作品における音響設計の特異性を明らかにし、ニュー・ハリウッドに関する新たな知見を提示したい。

現代映像芸術のスクリーン・プラクティス──2021年に開催された3つの展覧会を中心に/馬定延(関西大学)
2021年に開催された、ピピロッティ・リストの「あなたの眼はわたしの島」展、ホー・ツーニェンの「ヴォイス・オブ・ヴォイド──虚無の声」展、ロイス・アンの「満州の死…それは戦後アジア誕生の基盤である」展は、いずれも入国制限のため来日できない作家による遠隔ディレクションで実現された、映像作品を中心とする展覧会である。リストは、客間や寝室などを連想させる会場を、靴を脱いだ観客が座ったり、寝転がったりしながら鑑賞するようにした。またホーは、歴史的なテキストを題材に、プロジェクションとVRを用いて映画的身体からゲーム的身体へと変容する観客の視聴覚的経験を導いた。他方、アンは、上映、対談、レクチャー・パフォーマンなどの多角的な活動を実空間とオンラインで同時に提示した。昨年から続くコロナ禍の中で、美術と映画を問わず、映像作品の体験は一時的なオンライン・プラットフォームへの移行を含め、変化を余儀なくされている。このような時代のリアリティーは、現代映像芸術の展示の美学、そしてその受容にいかなる影響を与えていくのだろうか。本研究発表は、発表者が論文「光と音を放つ展示空間──現代美術と映像メディア」(2019)のなかで論じた歴史と理論を、3人のスクリーン・プラクティスに対する分析を通じて、同時代の実践と批評的に接続させる試みである。

アントナン・アルトーの俳優論再読──新しいスペクタクルのために/吉水佑奈(神戸大学)
本発表は、アントナン・アルトーのテキスト「情動の運動 Un athlétisme affectif」(1935)を主な対象に、残酷演劇として総称される彼の演劇理論における俳優のあり方について考察するものである。
残酷演劇においてアルトーは、戯曲中心主義であった当時の西洋演劇を批判し、演劇を構成するあらゆる要素による全体的なスペクタクルの必要性を主張している。この演劇理論は、主に1960年代以降の演劇に大きな影響を与えたが、具体的な上演に適用することは不可能とされ、概念的な受容がなされてきた。しかし、残酷演劇論をまとめた著書『演劇とその分身』(1938)等において、彼が実際の上演を前提にした理論化を試みていたことは明らかである。そのなかでも本発表では、俳優について論じられた「情動の運動」に注目したい。ここでアルトーは、俳優を情動の筋肉を有する心の運動選手(アスリート)と呼び、その身体内部の働きを、呼吸に基づき論じている。先行研究(Allet, 2017など)は、俳優の身体の感覚を生理的・物質的に記述した反心理主義的な演技論として扱っている。しかし呼吸の仕組みをめぐっては、十分に論じられておらず、その結果アルトーの身体論における重要な契機が見逃されてしまっている。
上記の問題意識に基づき、本発表は、テキストの読解をつうじて俳優身体論を再構成し、アルトーの理想とするスペクタクルを考える。この議論はのちの「器官なき身体」へ展開する可能性をも含んでいるのではないだろうか。

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年3月3日 発行