研究発表3
日時:2021年12月4日(土)13:00-15:00
- 1950年代の小津安二郎・成瀬巳喜男監督作品における喫煙シーンと女性像/早川唯(筑波大学)
- 写真を編み直す──写真の経年変化とアルバム化・資料化の一例/榎本千賀子(新潟大学)
- 1990年代の時代劇にみるイレズミ表象とその受容──ドラマ『遠山の金さん』の表現に対する考察/大貫菜穂(京都芸術大学)
司会:滝浪佑紀(立教大学)
研究発表3では、滝浪佑紀氏の司会のもと、写真と映像に関する三つの研究発表が行われた。
始めに、早川唯氏が「1950年代の小津安二郎・成瀬巳喜男作品における喫煙シーンと女性像」と題した発表を行った。まず、先行研究における両監督作品の女性イメージを整理し、小津作品の女性は封建的な価値観に従順である一方、成瀬作品の女性は従来の規範から逸脱した形で主体的に生きる傾向が強いという対比関係がみられることが示された。それを踏まえて、発表者は1950年代の両監督作品における女性の喫煙描写の具体的な分析を進める。それによると、小津作品において煙草は女性の日常的嗜好品として用いられ、映画において描かれるのは、喫煙する女性が組み込まれた日常世界である。対して成瀬作品において喫煙する女性は、それまで彼女たちが担わされてきたイメージの内側にとどまっており、女性の喫煙シーンは中絶(『浮雲』)や不倫(『鰯雲』)といったある種の非日常的出来事を象徴し、日常に揺らぎを生じさせる不穏な予兆として機能している。以上から、これらの喫煙描写は両監督の二項対立的女性像を曖昧化するものであり、従来の対比関係とは異なる可能性を提示するものだと結論づけられた。
続いて「写真を編み直す──写真の経年変化とアルバム化・資料化の一例」と題して榎本千賀子氏の発表が行われた。発表者が企画運営に携わった福島県大沼郡金山町のコミュニティ・アーカイブ〈かねやま「村の肖像」プロジェクト〉に寄贈された、同町出身の渡辺章榮(わたなべ・あきえい)氏旧蔵の自伝的アルバムを取り上げ、アルバムに見られる書き込みや町民を交えて実施されたアルバムのアーカイブ作業においてみられた人々の反応を例に、時間経過に伴って撮影時のコンテクストとの結びつきを弱めた写真がみせる変化に人々がどのように応答し、身近な過去を記述しようと試みるのか、ジークフリート・クラカウアーの写真論を補助線にして解釈が試みられた。渡辺アルバムには、撮影直後に書かれたと推定される写真の裏書きと、撮影後長期間を経てアルバムに編みなおされる際に付け加えられたキャプションが併存している。これらの書き込みの比較を通じて、発表者は、渡辺アルバムに①人物・場所情報の追加と日付の削除による、写真の潜勢力──クラカウアーが指摘したような、個人の同一性をはぎ取ってしまうような力──への抵抗、そして②撮影時の細部の新たな発見と同期する新たな現実の組織方法の発見、の二点が顕れていると主張する。発表の終わりには、今後の課題についても触れられた。
最後に大貫菜穂氏による「1990年代の時代劇にみるイレズミ表象とその受容──ドラマ『遠山の金さん』の表現に対する考察」と題した発表が行われた。本発表で大貫氏は、東映太秦映画村・映画図書室における資料調査、東映京都撮影所のスタッフからの聞き取り調査ならびに映像分析によって、遠山金四郎景元を主人公とした時代劇の諸作品、中でも松方弘樹を主演に据えて製作されたテレビシリーズの定型的演出とその独自性について検討した。発表は四つの章で構成され、第一章では1950年代初頭から1960年代初頭にかけて製作された映画「いれずみ判官」シリーズ(片岡千恵蔵主演)の成立が述べられ、続く第二章では映画版に続いて製作された「遠山の金さん」テレビシリーズ(1970年放映開始)について、四代目中村梅之助以降七人の俳優によって演じられた歴代遠山金四郎の変遷と各シリーズの特徴が概説される。第三章では松方弘樹が六代目遠山金四郎を演じたシリーズに焦点が絞られ、映像分析とともに当時製作に携わったスタッフの聞き取り調査から得られた証言が引用され、松方版の特徴が例証された。終章では、東映京都撮影所で長年イレズミ絵師として多くの作品に携わり、松方版「金さん」でも遠山金四郎のイレズミを手がけた毛利清二(もうり・せいじ)の功績が改めて取り上げられ、毛利を始めとする各スタッフたちとの緊密な連携のもとに、松方が「遠山金四郎もの」の「伝統」を踏まえつつも独創性に富んだ、より親しみやすくより威厳のある遠山金四郎像を創りあげたと結んだ。
質疑応答では、発表者に対する質問やコメントがフロアから多く寄せられた。以下に主なものを紹介する。
まず早川氏に対しては、小城大知氏から専売公社のたばこ広告には女性が男性のもつ煙草に火をつけてやる描写が多く、女性の喫煙描写には①女性が自ら煙草に火をつけて吸う、②女性が男性に火をつけてもらって吸う、③女性が男性の煙草に火をつける(自らは吸わない)、の三つが挙げられるという意見があり、そのうえで、早川氏が取り上げた小津・成瀬作品にはどのパターンが多いのかという問いかけがあった。それに対し、早川氏は小津作品には①が多く、成瀬作品には③とともに女性同士で火をつける描写も多く見られるとの回答を行った。また、大久保清朗氏によって、『浮雲』のヒロイン・ゆき子の死因についての事実確認があった(これに関しては、最後の報告者のコメントでも少し触れる)。
大貫氏に対しては、細馬宏通氏から松方期「遠山の金さん」と1980~90年代の日本の若者に興隆したいれずみ文化との関連性についての質問が寄せられた。これに対して大貫氏は、松方期「遠山の金さん」はイレズミ表現を1970年代までの任侠/やくざ映画から引き継ぎ、その存在をテレヴィ時代劇として1990年代のお茶の間に広く浸透せしめ、2000年代に定着していく若者のタトゥー・ボディピアッシング文化の興隆の基盤を築いたのではないかとコメントした。木下千花氏からは、映画ではイレズミを入れること自体が物語の上で重要になる例が多く存在するが、そのような例はテレビ作品にも見出せるのかという質問が寄せられ、松方期「遠山の金さん」に金四郎がイレズミを入れる場面があるほか、いくつかの例が見出せると大貫氏は回答した。
次に榎本氏に対して、司会の滝浪氏よりクラカウアーの写真論を引き合いに出したことの意義についての確認があった。また、長谷正人氏からはコミュニティ・アーカイブとクラカウアーの写真論との繋がりにギャップがあることが指摘され、今後の課題としたいという榎本氏の回答があった。
報告を終えるに当たり、日本映画研究を専門とする報告者から、早川氏と大貫氏に対して、瑣末ながらコメントを残しておきたい。
まず早川氏の発表は、分析対象を1950年代の小津安二郎・成瀬巳喜男作品に絞っているが、この時代の両監督作品の喫煙描写について作家論的視点から論じるのであれば、同時代に活躍した他の映画監督たちの作品だけでなく、両監督の他年代の作品にも注意を払い、対象作品群を映画史のうえに置きなおす作業が言うまでもなく必要である。あるいは質疑応答で小城氏が指摘したように、ひとくちに喫煙描写と言っても行動の類型化が可能であり、決して一からげに扱われるべきものではない。また、同じく質疑応答において大久保氏が『浮雲』のヒロイン・ゆき子の死因について発表者に質したように、映像解釈に若干の粗さも垣間見えた。今後、より精密な視点に基づいて研究がなされることを期待する。
大貫氏の発表では、映像素材の取り扱いに僅かな改善の余地がみられた。恐らくテレヴィ放送の画面をスマートフォン等で撮影したものが映像資料として提示されたために、音量レヴェルが極端に低く、オンライン視聴においてすら台詞の聴き取りに困難をきたしていたのである。とはいえ、丹念な調査によって映像製作の現場におけるスタッフの証言を豊富に引き出して作品分析に繋げた功績は、それを補って余りあるものである。東映太秦映画村・映画図書室にスタッフとして在籍する報告者としても、今後の進展が大変注目される。
(藤原征生)
1950年代の小津安二郎・成瀬巳喜男監督作品における喫煙シーンと女性像/早川唯(筑波大学)
小津安二郎と成瀬巳喜男は人びとの日常を描いた著名な映画監督であるが、描かれる人間の社会的階級の差異により、その日常にも差異が見られる。ことに女性表象においては、封建的で保守的と指摘される戦後小津映画の女性像に対し、戦後成瀬映画の女性像は主体的という印象を与える傾向にあった。しかし、両監督の作品内の女性の喫煙シーンは、こうした両監督の既存の女性観を反転させうると同時に、二項対立的な女性表象を超越した、同時代の日本社会における女性イメージを反映していると考えられる。
本研究では、小津の『宗方姉妹』(1950)や『お早よう』(1959)、成瀬の『銀座化粧』(1951)や『浮雲』(1955)といった1950年代の両監督作品における女性の喫煙シーンに焦点を当て、劇中の女性の職業や喫煙の場所や喫煙方法、タバコの銘柄や役者に着目することで、彼らが喫煙シーンを通して描いた女性像を検証する。
喫煙する女性表象に着目した先行研究には、とりわけ広告を題材にしたものが多く、例えば舘かおる編『女性とたばこの文化史-ジェンダー規範と表象』(世織書房、2011)では、喫煙する女性は性的イメージ、見られる身体として表象される傾向にあったことが言及されている。本研究では、こうした同時代の女性の喫煙に対する社会的イメージをふまえたうえで、従来、小津と成瀬、それぞれが提示したと考えられてきた女性像の反転と、女性の喫煙シーンがもたらす日常描写への影響関係について論究する
写真を編み直す──写真の経年変化とアルバム化・資料化の一例/榎本千賀子(新潟大学)
私達が日常生活において撮影する膨大な量の写真は、時間の経過とともに撮影時のコンテクストから離れ、その意味内容を変化させる。クラカウアーは「写真」(1927年)において、彼自身の祖母の肖像写真を例に、こうした写真の経年変化について考察し、古びたヴァナキュラー写真が、そこに映し出す対象を、かつての統一性と必然性を失い、いかようにも配列可能な任意の細部に解体されたものとして可視化してしまうことを指摘した。
本発表では、発表者が福島県大沼郡金山町で構築した写真を中心とするコミュニティ・アーカイブ〈かねやま「村の肖像」プロジェクト〉に寄せられた一冊の写真アルバム(渡部章榮写真アルバム)とその資料化プロセスを中心に、ヴァナキュラー写真の経年変化と人びとの応答を考察する。渡部のアルバムには、撮影後数年〜35年を経て記されたキャプションと、撮影後ごく間もない時期に記された写真の裏書きが、その位置づけを大きく違えつつも併存する。キャプション・裏書き間の差異、そして市民の参加を交えて実施した資料化の過程でしばしば見られる固有名詞に対する人びとの強い関心を手がかりに、古びてゆく写真とともに、身近な過去を記述する人びとの日常的実践の一端を明らかにしたい。
本発表の成果は、資料解釈として当該コミュニティ・アーカイブの活動に資するだけでなく、写真を用いた過去記述の実践を具体的事例から捉え直すことによって、ヴァナキュラー写真一般の理解を深める上でも貢献するものとなるだろう。
1990年代の時代劇にみるイレズミ表象とその受容──ドラマ『遠山の金さん』の表現に対する考察/大貫菜穂(京都芸術大学)
江戸時代後期から末期に実在した江戸町奉行・遠山金四郎景元(1972-1855)は、天保の改革による町人への弾圧に抵抗したことを契機に歌舞伎や講談の題材となった人物である。景元の物語は、市井の理解者であり、そのために武家社会において権力を行使するモデルを提示し、みるものにカタルシスを与える作品として上演されてきた。
この物語は、第二次大戦後、東映が片岡千恵蔵を主演に据え12年に渡り上演した映画『いれずみ判官』シリーズが定着して以降、日本社会がテレビ主流の時代に入っても受け継がれた。それは、1970-2010年前後まで約40年間「遠山の金さん」としてお茶の間に提供された連続テレビドラマであり、本数は800話以上にのぼる。以上から、遠山金四郎景元ものは戦後日本におけるイレズミイメージの提示と民衆の受容の様相を明らかにする大きな一要素と位置付けられる。
とりわけ本発表では、松方弘樹主演『名奉行 遠山の金さん』『金さん VS 女ねずみ』(東映製作・テレビ朝日放映、1988-1998年)に着目する。任侠映画の衰退と同時に暴力団対策法が制定され、多様な次元でイレズミと負のイメージが結びつく時世に松方期は開始されたにもかかわらず、10年間で約220本の「金さん」を視聴者に提示した。つまり松方期とは、日本社会において、古きイレズミが翳りを見せる時代と、2000年前後の西洋由来のタトゥー・ピアッシング文化が隆盛する時代との狭間に、視聴者へイレズミとそれを背負うヒーローを時代劇でありながら同時代的な存在として表象し続けたのである。その内実を、ドラマの構造や当時の製作陣の証言をもとに詳らかにする。