こころの熟成 老いの精神分析
老いは、人間も他の物理的な存在者と同じく、どうしようもない崩壊の過程を生きているという事実をつきつける。「余生」という言葉が象徴的に示すように、老年期は、もはや語るべきことのない人生の消化試合であるかのようにみなされてきた。しかし、平均寿命が長くなり、高齢化社会が到来すると、余生は余生ではなくなり人生の無視しえない部分を構成するようになった。
私たちはいま、身体機能や認知機能の低下はもちろんのこと、自身のリタイア、近しい者たちの死、それらによって引き起こされる喪失感や無能感、そして家族だけでなく看護者や介護者を含む周囲との変化していく関係を、長きにわたり生きていかなければならなくなった。これらは、幼い頃からの体験や記憶によって完全に規定されているわけではないが、やはりそれらとのあいだに無視しえない関係を有しており、老いの「こころ」の特異な構造と機能を前景化する。
本書は、精神分析によってこの老いの「こころ」にアプローチする「老いの精神分析」の試みである。著者のブノワ・ヴェルドンは、フランスの精神分析家、臨床心理士であり、ロールシャッハ法の権威としても知られている。ヴェルドンは、一方で、自身の高齢者心理臨床にもとづく症例をとおして、他方で、老いに直面しそれを生きた作家や思想家の言葉を素材として、豊かな記述を繰り広げる。後者には、みずからの老いに戸惑い、怒り、弱気になる晩年のフロイトの個人的な書簡も含まれている。
こうした症例や素材は、本邦ではあまり馴染みがないかもしれないフランスの非ラカン派の精神分析の概念や理論、さらにはクライン派のそれを動員しながら、一貫した仕方で、インテンシヴに論じられていく。それらをとおして目指されるのは、老いとともに起こる様々な変化の可能な(そして不可能な)補修であり、ワークスルーである。このあたりは、本書および堀川聡司による充実した解題を参照されたい。
本書は、健やかで幸福なとはいかなくても、失望や断念や誤魔化しとともにであっても、私たちが主体として老いを生きることへの真摯な願いに貫かれている。精神分析は老いをその射程に入れた。それは、人生全体が恒常的なモニタリングと手厚いケアの対象となりつつある社会的現状と無関係ではないかもしれない。私たちは、抜かりなく、精神分析だけでなくアンチ・オイディプスの射程も広げることにしよう。
(小倉拓也)