読むことのワイルド・カード ポール・ド・マンについて
アメリカ合衆国で活躍するルクセンブルク出身の哲学者ロドルフ・ガシェは、それまで英語圏においては文学批評の亜流と見なされていたデリダをその哲学的な意義において検討した画期的な研究、『鏡の裏箔』(1986年)で知られているが、そこからはじまる「脱構築三部作」の第三作目にあたるのが本書である(原著1998年)。ここでガシェは、1970年代から80年代にかけていわゆる「脱構築批評」が吹き荒れた後でポール・ド・マンの仕事をそれら一過性の批評トレンドとは一線を画すものとして精査し、そこからさらに、しばしば同一視されるデリダとの違いを詳細に吟味している。そのなかで、ガシェはド・マンを英語圏におけるデリダのたんなるエピゴーネンではなく、ド・マン単独でユニークな思想家として、さらには単独性を究めることによってその単独性さえをも消尽させてしまった思想家として扱っている。
ポール・ド・マンといえば、1980年代のその全盛期にはいわゆる「イェール学派」の領袖として哲学や文学などの人文学全域にわたる(かのようにみえる)博識をもとに、読み手の読解における諸前提の足下をすくうような批評態度によって件の「脱構築批評」の主導者と見なされ、ほとんど宗教的とまで言いうるようなカリスマ的な地位を確立した人物である。しかしまた、その徹底した批判的な態度はある種のニヒリズムと受け取られることになり、彼の没後、そのような反発が占領下ベルギーでの対独協力新聞への寄稿の「スキャンダル」化として現れることになる。
しかし、崇拝と嫌悪が入り混じる中で忘れられているのは、ド・マンのテクストの難解さである。それを読んだことのある者であれば、彼の批評的手つきの巧妙さに驚嘆しながらも、その読書内容自体を概念化することができないという経験がない者はいないだろう。「ド・マンは何を言いたかったのか?」という問いはほぼ解答不可能な難問なのである。ゆえに、ド・マンの崇拝者たちも攻撃者たちも実はド・マンのテクストを「読んではいない」ということになる。ド・マン自身が繰り返し示していたように、われわれは読んでいるつもりでも実際は読んでいないのである。このような難解さはド・マン自身のテクストに起因している。それはたしかにさまざまな知的領域を縦横無尽に駆け巡るものではあるが、文脈を無視した引用や範疇が異なる術語の結び付けが頻繁に行われており、最悪の場合には支離滅裂な議論に終始しているようにさえ見えてしまうのである。
もちろんそのような難解さについて、意味やそれによる全体化に対するド・マンの抵抗であると一旦は理解することはできるが、むしろ本書はド・マンのテクストから首尾一貫した思想を抽出する試みである。そのニヒリストとしてのイメージには反して、ド・マンの中には首尾一貫した思想がある、とするのがガシェの立場である。すなわち、ド・マンはただたんに全体化や「意味」への傾向をもつものが自己崩壊していく様を描くだけではなく、それはこの「単独性」に向かっていることを見定めるのが本書の目指しているところである。
(吉国浩哉)