福祉国家 救貧法の時代からポスト工業社会へ
デイヴィッド・ガーランド『福祉国家』(原著2016年)に、福祉国家研究の第一人者であるイエスタ・エスピン=アンデルセンが寄せた賛辞──「他に類を見ない重量級の小著」、「福祉国家に多少なりとも関心を持つすべての人にとっての決定的入門書」──は、決して過分のものではない。オックスフォード大学出版局のVery Short Introductionsシリーズの一冊である本書は、限られた紙数(原著にして約140頁、邦訳でも200頁ほど)のなかで、福祉国家の通史や類型を手際よくまとめ、多様化する現代社会における福祉国家の窮状を抉り出すばかりか、「福祉国家」という名称自体の問題性──福祉「だけ」を行う国家は存在しないが、福祉を「まったく」行わない国家もまた存在しない──を前景化し、わたしたちの「福祉」概念を拡張する。ガーランドに言わせれば、福祉は、特定の経済階級や社会集団を益するものではなく、共同体の成員すべての命運にかかわるものである。ガーランドはわたしたちの福祉国家にたいする誤解を啓くだろう。
本書がミシェル・フーコーによる「統治性 governmentality」の議論の俎上にあることは、福祉国家がなにより近代の問題として、さらにいえば、近代における民主主義と資本主義の必然的な矛盾の結節点に立ち現れるものとして定義されているところからも明らかである。その意味で、ガーランドの関心は、あれこれの時代のどこそこの国におけるしかじかの福祉国家ではなく、福祉国家一般というメタ的な次元にある。こう言ってみてもいい。ガーランドが本書で試みるのは、福祉国家が歴史上で実際に採った形態を論じることである以上に、福祉国家という統治様態が取りえた/うる可能性の領域を分節することである、と。
ガーランドの『福祉国家』の特殊性は、もしかすると、福祉国家の擁護のために、生存権や人権を持ち出さないところかもしれない。ガーランドは一貫して福祉国家擁護論を唱えるが、にもかかわらず、左翼的ヒューマニズムという対抗原理を打ち出そうとはしない。彼はあくまで、ネオリベラリズム的な個人の自由と自己責任論をいなすようにして、それらの非現実性を指摘することで、福祉国家の必要不可欠性を引き出そうとする。『君主論』のマキャヴェリのような、狡い賢さ。
最終章が「なくてはならない福祉国家 The indispensable welfare state」と名づけられているのはあまりにも示唆的だ。福祉国家は、積極的に「あるべきもの」である以上に、「欠かせないもの」なのである。ガーランドは、背理法的なやり方で消極的に、しかしながら、消極的だからこそいっそう積極的であるようなやり方で、理想主義的にではなく、プラクティカルに、プラグマティックに、福祉国家を言祝ぐ。
雑多に多様な現実を暴力的なかたちで理想のほうに吊り上げるのでもなければ、ありえない理想を諦念的なかたちで現実に引き下ろすのでもなく、いまここにある現実をありのままに受け入れた上でなお、いまだここにない理想への地に足の着いた飛翔に憧れること。そのような(不)可能性への不断の挑戦にこそ、近代における福祉国家の存在理由が賭けられていることを、本書は痛いほどにわたしたちに教えてくれる。
(小田透)