単著

髙山花子

モーリス・ブランショ

水声社
2021年9月

「レシ récit」という多くの人にとって耳慣れないだろう──しかしフランス語としては 極めて一般的な──一語は、フランスの作家・批評家であるモーリス・ブランショ(一九〇七二〇〇三)の著作を読む者たちに特別な印象を抱かせ続けてきた。ブランショが自身の虚構的作品の区分を「ロマン roman」から「レシ」へと移行させ、さらに「レシ」という区分にさえ疑問符をつけるにいたった歩みのうちに、その理由の一つがあるだろう。それゆえに、ブランショにおける「レシ」が論じられる際には、ブランショ自身が書いた「レシ」がメインテクストとして扱われることが多かった。

それに対して本書は、作品としての「レシ」に限定することなく、ブランショの「レシ」 をめぐる思想を明らかにしようとした書物である。しかしこのような紹介にとどめるなら ば、本書の試みの重要な部分を伝え損ねることになるかもしれない。副題にある「レシの思想」は確かに、著者自身が記している通り、「モーリス・ブランショが「レシ」をめぐって考えたこと」(11‐12 頁)としても提示されている。序章ではまず、一般に「物語」と訳され るこの語の多義性と、文学研究における「レシ」についての様々な議論が紹介される。ジェラール・ジュネットらのナラトロジー論、「大きな物語の終焉」(リオタール)、『時間と物語』(リクール)における「物語=レシ」、さらには「ミュトス」の訳語としての「レシ」など、 様々な「レシ」の用例を並べた一連の文章は、「レシ」の思想史の探究へと読者を誘うだろう。その後第四章までは、一九四〇年代前半(ブランショが作家・批評家として活動を始め た時期)から一九五〇年代(『来るべき書物』)までのブランショによる「レシ」の特異な用 法の変遷がたどられる。「ジャンル」ではなく「モード」としての「レシ」が、アリストテ レス『詩学』における「出来事の組み立て」と対比されるような仕方で、「来るべき」「出来事そのもの」へと練り上げられていく過程である。ここまでは上記の紹介に収まる内容と言っていいはずだ。

しかし第五章以降、「レシの思想」は単に「レシについての思想」である以上に、「レシと いう思想」とでも言うべき仕方で示されるようになる。著者は一九六三年初出の「バラはバ ラであり......」(『終わりなき対話』所収)におけるアランへの言及に着目し、アラン自身のテクストなども検討した上で、「ブランショにとって、「真の思想」は「レシ」である」(151頁)とする。そしてこの「真の思想」とは論理的なつながりを拒むがゆえに「非論証的」であるが、「非連続の連続」、「つながらないもののつながり」をもたらすものだとする。こうして「レシの思想」は、論理的な思想とは別の思想として提示される。さらに続く第六章と 第七章では、必ずしも「レシ」という語の使用例に限定されることなく、「非連続の連続」 としての「レシの思想」が、一九四〇年代から一九九〇年代のテクストのうちにあらわれる 「音楽」や「歌」に見出されていくのだ。

したがって本書は「レシの思想」という一つの鍵概念を軸に、ブランショの思想の変遷(「レシの思想」)と一貫性(「レシの思想」)を同時に描き出そうした試みであると言えるだ ろう。しかし後者に着目したとき、ブランショにおける「思想 pensée」についての検討があまりなされていないことに気が付く。それゆえ「レシ」が特異な言語使用であるにとどまらず、あえて「思想」と呼ばれる必然性が分かりにくいように思えた。とはいえこうした点についてはすでに著者自身が新たに探究を始めているようである(Cf.「ブランショとパンセ について」、『立命館大学人文科学研究所紀要』NO.128)。著者の探究をさらに追っていく仕 方であれ、あるいはまったく別の仕方であれ、「レシの思想」を問うための出発点となる類い稀な一冊であることは間違いないだろう。

(伊藤亮太)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2022年3月3日 発行