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ピエール・クロソウスキー歿後二〇年+大森晋輔編『ピエール・クロソウスキーの現在 神学・共同体・イメージ』(水声社)刊行記念シンポジウム 歓待・倒錯・共犯性──ピエール・クロソウスキーの思想をめぐって

報告:須田永遠

【日時】2021年5月8日(土)10 :30-16 :15
【場所】Zoomミーティングを使用したオンライン
【主催】東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属「共生のための国際哲学研究センター」(UTCP)および科学研究費・基盤研究(B)「予見をコア概念とした統合的思想史の構築」
【共催】水声社


【プログラム】
開会挨拶(10 :30-)
発表・午前の部(10:35-12:15頃):ビデオ配信
クロソウスキーと歓待の原理、再び/國分功一郎(東京大学)
聖女テレサの介入──『バフォメット』再訪/千葉文夫(早稲田大学名誉教授)
メディアとしてのシミュラークル──バタイユからクロソウスキーへ/酒井健(法政大学)
読み手によるコミュニティ──「共犯者」の具体的様相/須田永遠(国立情報学研究所)
悪はありやなしや/兼子正勝(電気通信大学名誉教授)
発表・午後の部(13:00-14:20頃):ビデオ配信
クロソウスキーとスコラ神学的歓待論──ポルノスコラグラフィーの神学/山内志朗(慶應義塾大学)
予見と行動、あるいはイメージの内乱/森元庸介(東京大学)
二重権力のユートピア──クロソウスキーにおける倒錯としての価値転換/松本潤一郎(就実大学)
クロソウスキーと〈悪循環〉/大森晋輔(東京藝術大学)
ターブルロンド(14:45〜16:15頃):リアルタイム配信


ピエール・クロソウスキー(1905-2001)をめぐる言説は、この数年で新たな局面を迎えつつある。きっかけは2010年代の半ばから本格的に遺稿の調査が開始されたことだ。2015年、パリのジャック・ドゥーセ文学文庫に眠る幾つかの未刊資料を収めた『ユーロップ』の特集号(Europe, Pierre Klossowski, Charles Dobzynski, Poètes d'Espagne, no 1034/1035, 2015.)と、その責任編集者の一人スラフェン・ヴァエルティによるモノグラフィSlaven Waelti, Klossowski, l'incommunicable : Lectures complices de Gide, Bataille et Nietzsche, Librairie Droz, 2015.)が刊行されたことを皮切りに、メモ類や書簡、草稿などの出版が相次いだ(Du signe unique, Feuillets inédits, édition de Guillaume Perrier, Les Petits matins, coll. « Les grands soirs », 2018; Sur Proust, sous la direction de Luc Lagarde, Serge Safran, 2019; Les Doublures. Manuscrits du Souffleur et autres documents, édition, avant-propos, transcription & notes de Guillaume Perrier, Éditions Ismaël, 2021.)。かつて神秘的なものとして祀られてきた作家のイメージは、より生きた像を結んでわれわれの前に甦りつつある。そうした中で、日本では大森晋輔氏を中心に本邦初のクロソウスキー・シンポジウムが2018年に開催され、その成果をもとにした論集『ピエール・クロソウスキーの現在 神学・共同体・イメージ』(大森晋輔編、水声社)が昨年刊行された。

作家の歿後20年にあたる本年の58日に開催されたシンポジウムは、こうした内外での受容の隆盛を承け、より広い観点からクロソウスキーの作品を検討することを目的とするものであった。論集の著者7名の他に國分功一郎氏と山内志朗氏を迎え、クロソウスキーの新たな側面に光を当てようとする試みは、見事成功したように思われる。各発表の要旨とターブルロンドは既に文書化されており、読書人WEB発表要旨】【ターブルロンド)で読むことができるので、ここではターブルロンドでの話題の一部を紹介し、企画者としての所感を述べてみたい。

シンポジウム全体を通じて問題となったのは、やはりクロソウスキーとキリスト教との関係であった。シンポジウムの副題でもある「歓待hospitalité」はキリスト教神学の伝統的主題であるが、山内志朗氏はターブルロンドにおいて小説『ロベルトは今夜』での「歓待」の意義を、伝統との連続性と差異という観点から手際良く整理する。歓待を主人/客の二者関係ではなく、夫婦/客という三者の問題として捉え、それを三位一体と重ね合わせる点にこそ神学の伝統を踏まえたクロソウスキーの創意工夫があるというのである。しかし同時に、クロソウスキー自身がどこまで賛意をもってモティーフを使っているかは疑問であるという指摘もなされた。確かに、クロソウスキーにはあるモティーフを節操なく取り込むという性向がある。それを山内氏は品揃えを誇る「デパート」に擬え、千葉文夫氏は『バフォメット』中の豊富な例とともに「ファルス」と定義し、國分功一郎氏は「不真面目」と形容することで、クロソウスキーの猥雑さに迫った。

國分氏はまた「歓待」の主題を、神学ではなく19世紀の社会思想家シャルル・フーリエの思想と結び付け、同じくクロソウスキーにとって重要なマルキ・ド・サドの思想との関係性について問いを投げかけた。本来相容れることのない二つの思想はクロソウスキーの中でいかなる関係にあったのか。サド/フーリエの関係に代表される、解消し難い二項対立の意義をどう考えるかが、ターブルロンドでの重要な争点の一つであった。それに対して、松本潤一郎氏はオーディエンスからの質問に答える形で、その宙吊り状態に留まることが(おそらくは新たな価値転換と創造へとつながる)「力のゼロ地点」を生むという魅力的な見解を提示し、兼子正勝氏はそうした思想の背景にヘーゲル的な否定性の乗り越えという同時代的な問題意識があることを鋭く指摘する。だが、この二項対立の緊張はどこまでクロソウスキーによって保持されたのか、という示唆的な問題提起(侵犯の根本原理である言語の禁止事項を逃れて、クロソウスキーが晩年タブローへ移行したことはいかに考えるべきか)が酒井健氏によってなされると、大森晋輔氏はタブローもまた禁止事項をもった一つの侵犯の場であるという晩年の「記号としての絵画」という見方にまでつながる見解によって応答した。さらに、こうした侵犯/禁止の対立の緊張そのものを中世神学以来のイメージ固有の論理として剔抉したのが、当日の森元庸介氏の発表であったように思われる。ターブルロンドでは、この他にも神学における使用/享受概念や、聖霊主義から唯物論への系譜、そしてクロソウスキーにおける女性の重要性などをめぐって興味深い議論が交わされた。

こうしたターブルロンドの活況は何より協力的に参加してくださった登壇者と、素晴らしい質問をくださったオーディエンスのおかげである。だがそれに加えて、その成功には運営の方式も少なからず関与していたように思われる。本シンポジウムは、発表部分を事前に準備したビデオ配信とし、ターブルロンドのみをリアルタイム配信とした。事前収録した動画はシンポジウムの数日前から登壇者間で共有をし、各々視聴した上で当日に臨んだ。こうした方法を取ることにより、時間通りの進行が可能になり、登壇者は当日の発表準備に追われることなく体力を温存した状態で議論に臨むことができた。締め切りが前倒しになる分、事前の負担は大きくなるが、特に今回のような多人数でのターブルロンドを含むシンポジウムにおいて有用な方式であることは、今後の運営のためにも述べ添えておきたい。

昨年12月から企画を始動させ、状況が許せば対面で行うことを目標に準備を進めていた。オンラインでの開催となり、失われたものも少なくなかったが、運営上の発見があったことも確かである。クロソウスキーの投げた問いを中心に、さまざまな視座が交錯した今回のシンポジウムは、読み手の交流という意味においても、新たな問いが示されたという点においても実りの多いものであった。

尚、本シンポジウムの登壇者による論考は水声社のメールマガジン『コメット通信 2021年8月臨時増刊号 総特集 没後20年 ピエール・クロソウスキーの思想をめぐって』に収録されている(2021年11月末には水声社ブログにて一般公開予定)。上記の読書人WEB、シンポジウムの元となった論集とともにぜひ参照されたい。

ポスター (クロソウスキー・シンポ).pdf

(須田永遠)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年10月25日 発行