特別インタビュー&ディスカッション 「ネオ・ファミリーソング」としてのアニソン
日時:2021年7月3日(土)16:00-17:30
つのごうじインタビュー(録画)
聞き手:橋本一径
2020年10月に惜しくもこの世を去った、ロックバンド「赤い公園」のギタリストでソングライターの津野米咲は、父であるつのごうじの音楽の素晴らしさを人々に伝えることを、自らの使命としていたようなところがある。影響を受けたミュージシャンを聞かれれば父の名をそこに紛れ込ませ、自らがパーソナリティを務めたラジオ番組で父の曲をしばしばオンエアし、ライブで父の曲のカバーを披露してみせたこともあった。
彼女が父の音楽を紹介するとき、「戦隊ものやアニメ」の作曲家だと枕詞のようにつけていたことからもわかるように、つのごうじの仕事としてもっともよく知られているのは、『悪魔くん』や『鳥人戦隊ジェットマン』などの作品の主題歌やエンディングテーマの作曲である。劇場版『ゴルゴ13』(1983年)の主題歌「プレイ・フォー・ユー」で作曲家としてデビューし、翌年にTVアニメ『ガラスの仮面』の主題歌をヒットさせた彼は、確かにキャリアの当初からアニメとのかかわりが深かった。80年代後半にはTVアニメ『聖闘士星矢』の初代主題歌「ペガサス幻想」(松澤浩明作曲)が、ハードロック調の楽曲により主題歌という枠を超えて広く愛され、アニソン史における転機を画することになったが、松澤と親交の深かったつのは、同アニメの二代目主題歌「ソルジャー・ドリーム」を松澤と共作するなど、この80年代後半からのアニソンシーンにおいて、重要な役割を果たしていくことになる。なかでも主題歌を含めて音楽全般を担当した90年代後半の『鬼神童子ZENKI』や『爆走兄弟レッツ&ゴー』が、彼の代表作であることは間違いない。
一方でアニソンの歴史を振り返ると、90年代は本格的な「タイアップ」の時代の始まりでもあった。89年の『ザ・ベストテン』放送終了に象徴されるように、音楽番組の減少に危機を感じたレコード会社は、アニメなどのテレビ番組の主題歌に活路を見出す。ソニーが製作に携わった『るろうに剣心』の初代主題歌であるJUDY AND MARYの「そばかす」(1996年)に代表されるように、番組内容とは必ずしも関係のない楽曲が主題歌として用いられるようになり、初期の『聖闘士星矢』のそれのような、番組タイトルや主人公の名前が歌詞で連呼されるスタイルの主題歌は、下火になっていく。
1999年の『ぶぶチャチャ』とその続編『だいすき!ぶぶチャチャ』(2001年)を最後に、つのごうじがアニソンの表舞台から姿を消したのは、上記のようなアニソン史の文脈の中で説明ができるのかもしれない。しかしつのごうじはもともと、「表舞台」などというものを志向してはいなかったのである。作曲のみならず、「嵐の神話」(『劇場版 悪魔くん』エンディングテーマ、1989年)や「気分はパプワ晴れ」(『南国少年パプワくん』エンディングテーマ、1992年)などでは見事な歌声を披露しながら、ソロ活動に乗り出すこともなく、「劇伴」と呼ばれるジャンルにおいて映像に音楽を合わせることを得意とし、自宅に設えたスタジオで、シーケンサーなどのデジタル機材をきわめて早い時期から使いこなして制作していた彼は、言わば裏方の中の裏方であった。
そしてそれは制作のスタイルだけにはとどまらない。つのごうじの作る音楽は、大げさに言えば日本のポピュラー音楽史の中の「裏方」だった。アニソンであれ何であれ、つのごうじが目指す先にあったのは常に、大人から子供までがみんなで口ずさむことのできる音楽だった。その理念は90年代後半には、家族ぐるみのコーラス・プロジェクト「ピタゴラス」に結実する。こうした音楽性は、日本のポピュラー音楽史の中で見れば、「レコード歌謡」よりも「ラジオ歌謡」の系譜に位置づけられるものだろう。「ラジオ歌謡」とは、もともと酒場やカフェーを舞台としたため不健全とみなされた「レコード歌謡」に対抗して、家庭的で健全な音楽を目指したラジオ番組に由来する系譜であり、その流れは戦後の『みんなのうた』へと連なる(詳細は輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』、光文社新書を参照)。これに対していわゆる「歌謡曲」は、「レコード歌謡」の不健全さを引きずりながら、藤圭子に代表されるごとく、「アウトロー」や「不幸な生い立ち」を売り物とするようになり、こうした傾向は演歌やフォークさらにはJ-POPにまで引き継がれる。「アウトロー」であるからこそメジャーであり表舞台であるといういびつさを持つのが、日本の歌謡曲の伝統であると言ってよいだろう。
歌は多くの人々にとっての「ともしび」であるべきだと、インタビューで語ってくれたつのごうじは、知ってか知らずか、日本の歌謡史にとっての「裏方」に位置する健全さを、自ら引き受けてきたように思う。だが、津野米咲が父の音楽の特徴を、「キャッチーなメロディ」と「泣けるコード進行」の同居であると看破していたように(『BARFOUT!』2013年11月号)、その健全さは、単に幼稚で能天気なものというわけではない。大人も子供もついつい口ずさんでしまうほど「キャッチー」なのに、どこか物悲しい。そんな健全さと哀愁の同居こそ、津野米咲もまた、美しいコーラス・ワークを魅力のひとつとした「赤い公園」の音楽において、目指していたものではなかったか。
津野米咲をはじめとする「赤い公園」のメンバーたちは、自分たちの楽曲が売れること、メジャーになることに、強い執着を示していたように見受けられる。そのような執着も、彼女たちのプロジェクトが日本の歌謡史を転覆させようとするような革命的なものだったと考えれば納得がいく。不当にも「裏方」に追いやられた「健全」な音楽を表舞台へと引っ張り出し、「アウトロー」であるがゆえに王道であるというような、近代日本歌謡史のねじれたメインストリームに、真っ向から勝負を挑むこと。そんな壮大なプロジェクトを成就させるためには、自らがそのメインストリームに君臨することが、どうしても必要だった。「赤い公園」の売れることへの執着は、メンバー個人の夢や願望の実現といった次元にとどまるものではない。
そのようなプロジェクトは、「赤い公園」の解散によって潰えてしまったということになるのだろうか。しかしつのごうじが目指していたのは、特定の歌手やグループに属することなく、誰が作ったのかも意識されないまま、老若男女が口ずさんでしまうような歌であったはずである。そもそも、ある歌が「持ち歌」として特定の歌手に独占されるようになったのも、レコード歌謡の発展の中で生じた歴史的な事象であるにすぎない。そしてプロ・アマ問わずに多くの者がSNSに様々な楽曲の「歌ってみた」動画を投稿するようになっている今日では、「持ち歌」という考え方に変化が生じつつあるようにも思える。つのごうじの、そして「赤い公園」の楽曲が、聴き継がれ、歌い継がれ、やがて誰の「持ち歌」なのかすら意識されなくなるころには、彼らが「裏方」であったことなど、誰にも信じられなくなっているのかもしれない。今回の特別インタビューが、そのためのささやかなきっかけのひとつとなることを願う。