パネル3 映画の生成と身体 ──カサヴェテス、ブレッソン、トリュフォーの実践をめぐって
日時:2021年7月4日(日)13:00-15:00
・ジョン・カサヴェテス『愛の奇跡』における俳優のパフォーマンス/堅田諒(北海道大学)
・ロベール・ブレッソンの演技論──モデルの「痙攣」する身体/三浦光彦(北海道大学)
・『恋のエチュード』における声と語り/原田麻衣(京都大学)
【コメンテーター】角井誠(東京都立大学)
【司会】木下千花(京都大学)
このパネルでは、映画における身体の在りようと、作品の生成過程をめぐる研究発表がおこなわれた。ジョン・カサヴェテス、ロベール・ブレッソン、フランソワ・トリュフォーという個性的な映画作家の作品を対象におこなわれた3つの発表はいずれも面白く刺激的で、映画における身体や生成の問題をとらえるうえでの興味深い手がかりを提示するものだった。司会の木下千花氏による円滑な進行のもと、3名の発表が終了した後にはコメンテーターの角井誠氏による鋭い質問や的確な助言が提示され、最後にフロア全体で質疑応答の時間が設けられた。以下はそれぞれの発表のポイントと、角井によるコメントおよびフロアでの質疑応答をまとめ、報告者の簡単なコメントを付け加えたものである。
最初の発表は堅田諒氏の「ジョン・カサヴェテス『愛の奇跡』における俳優のパフォーマンス」であった。この発表は、カサヴェテスが制作過程でコントロールを十分に発揮できなかった作品『愛の奇跡』(A Child Is Waiting, 1963)におけるパフォーマンスを分析し、当該作品の位置付けを再考しようとするものだ。まず堅田は、レイ・カーニーの議論を受け継ぎつつ、プロデューサーであるスタンリー・クレイマーが本作の編集に対して介入することでカサヴェテスの痕跡が消去されていった経緯を検証していく。光学的な処理によってミディアム・ショットをクロースアップに変更したり、切り返しショットのスピードを落としてショットの持続時間を伸ばしたり、音楽を付け加えたりといった仕方で、本作品の様々な箇所にカサヴェテスの狙いとは方向を異にするクレイマーの「感傷的」な編集が施されていることが確認される。
そうしたクレイマー的なセンチメンタリズムに対して、堅田はソフィ(ジーナ・ローランズ)のパフォーマンスに「カサヴェテス的な刻印」を見出そうとする。そこで分析されるのは、障碍を抱える児童の保護施設に呼び出されたソフィが、預けられた息子の様子を尋ねるシーンに見られる、ソフィの発話や身振りである。堅田は、特定のフレーズの反復、息継ぎの音、嗚咽時に特有の呼吸音、緩急といった発話の特徴や、椅子から立ち上がって窓際へと歩んでいくときの身振りに着目し、そこに「身体の変調・不安定化」を見出す。ここには、「監督と俳優の緊張関係=協働性」が働いており、カサヴェテスが語るような「感情的真実」を感じさせる要素として「身体の変調・不安定化」が現れている、と堅田は主張する。パフォーマンス研究の成果を生かし、画面上の演技の細部もしっかりと視野に入れた分析は面白く、興味深いものであった。
発表後のコメントでは、詳細な画面分析が評価されつつ、今後の課題となる点が指摘された。まず、制作においてコントロールが行き届かなかった作品について、作家性の痕跡をテクスト分析を通じて正当化することの難しさが挙げられた。「身体の変調・不安定化」にカサヴェテスの作家性を見出すとなると、どこまでがカサヴェテス的で、どこからがそうではないのかが見極め難くなる。ジュディ・ガーランドや、子役ブルース・リッチーの演技はどうなのか。「カサヴェテス的な刻印」をもう少し細かく定義する必要があるだろう。また、俳優と監督を二項対立的に捉える視座がやや図式的なことや、本作品の脚本をカサヴェテスが自ら書いていない点についても言及された。フロアからは、他者(プロデューサー)の介入によってかえって別の魅力が生まれるという観点は考えられるのか、制作過程においてバート・ランカスターはどの程度権力を行使していたのか、ジュディ・ガーランド演じる主人公の機能不全ぶりをどう捉えればよいか、といった指摘があった。
蛇足ながら、報告者自身のコメントも付け加えておきたい。まず、分析自体は面白く興味深かったのだが、本作品以後の一連のカサヴェテス作品において最も重要な役割を果たす俳優であるジーナ・ローランズの演技に「カサヴェテス的な刻印」が見出されるというのは、ある意味で当然のことのようにも思われた。カサヴェテスらしさが本格的に現れるのが次作の『フェイシズ』(Faces, 1968)からだとしても、50年代から夫婦として私生活においてもカサヴェテスのパートナーだったローランズが、彼の作品に(メイン・キャラクターとして)はじめて登場するのが本作品である。ローランズとカサヴェテスがやろうとしていた演技の方向性をより明瞭に浮かびあがらせるためには、本作品よりも前にローランズが出演した、別の監督が撮った作品での彼女の演技を参照し、比較するという手もあるのではないか。また、真っ黒なドレスを着たローランズが煙草を吸いながら話す例のシーンに関しては、彼女の台詞が途中で切られており、唐突に扉を開いてランカスターたちが入ってくるショットに繋げられていることがやや気になる。ローランズは次のショットで俯いており、やや不自然な繋ぎであるため、台詞の途中でカットが割られているように見える。こうした箇所を含め、脚本などの一次資料の調査がもし可能であれば、現時点ではカーニーの記述に多くを負っている監督とプロデューサーの軋轢に関しても、さらに色々なことが明らかになるだろう。
また、コメントや質疑応答でも指摘されていたが、他の俳優たちの在りようを端的に非カサヴェテス的として除外するのではなく、ローランズの在りようと比較・分析する作業に踏み込めば、さらに面白い議論になると思われた。飾らない子供たちの素朴な在りようと比べて芝居臭さが際立ってしまうジュディ・ガーランドの異物感に加えて、障碍児ルーベンを演じたブルース・リッチーの演技も重要だろう。終盤の舞台上で、これまで一切の遊戯を拒絶してきたルーベンが、目線をウロウロと泳がせながら少しずつ芝居の台詞を口にしていくクロースアップは──観客席の奥にいて遠く隔てられた父親スティーヴン・ヒルとの、視線が交差するようで交差しない絶妙な切り返しが、クライマーによる多分に「感傷的」な編集に多くを負っているにしても──素晴らしい。ルーベンというキャラクターのこうした在りようは、実はカサヴェテス作品という観点から見ても興味深いのではないか。つまり、ルーベンは(社会的なコードに則った)わかりやすい仕方で感情を表現することをしない存在だが、一見すると無表情にも見えるその顔によって、実のところ彼は豊かに感情を表現している(バート・ランカスターに呼び出されたシーンで見せる軽蔑と不安の入り混じる絶妙な表情を想起してもよい)。このような感情の演技は、隠れた傑作である前作Too Late Blues(1961)におけるステラ・スティーヴンスの在りようにもある部分で通底するものがある。これらの演出に共通する姿勢は、感情の涸れ果てたような表情が次第に変容していくさまを通じて、「信じるに足る」感情の発生や移ろいを捉えようとする態度とでも言えようか。ダニエル・スターンのいう「範疇情動」と「生気情動」の区別もヒントになるかもしれない。
三浦光彦氏による「ロベール・ブレッソンの演技論──モデルの「痙攣」する身体」は、ブレッソンの演技論を宗教的、美学的なコンテクストから読み解こうとするものだ。三浦はブレッソンの演技論とジャンセニスムやシュルレアリスムの思想との関連性を検証しつつ、ブレッソンのいう「モデル」──ここでは「内部から外部へと向かう運動」としての俳優とは異なり、「外部から内部へと向かう運動」として規定される『シネマトグラフ覚書』の記述が参照されている──に表れるある種の拮抗関係を「痙攣」として捉える視座を提示する。レイモン・ベルールの Le corps du cinéma:hypnoses, émotions, animalités (2009) を中心に英語・仏語の文献を幅広く参照しつつ、ジャンセニスムとの関わりのなかでシュルレアリスムの運動が「催眠」や「痙攣」といった用語を取り入れていった流れをまとめたくだりは、非常に刺激的であった。
また、三浦はダニエル・スターンによる「生気情動」の概念と演技論との関連性を角井誠の論文に依拠しながら整理しつつ、テクストの反復練習を課すジャン・ルノワールの演技論を「内部で獲得した微細な情動を外部へと再び送り返す」アプローチとしてまとめたうえで、ブレッソンの場合は外部へと送り返すプロセスが欠如していると述べる。その例として挙げられるのが、アンドレ・バザンが『田舎司祭の日記』(Journal d'un curé de campagne, 1951)について述べた「彼らの外面に見るのはむしろ痛ましいまでの精神の集中であり、分娩や脱皮の際の脈絡のない痙攣なのだ」(『映画とは何か (上)』野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、2015、194頁) という一節や、ミシェル・エスティーヴが『スリ』(Pickpocket, 1959)について述べた「初めて、淑女の財布から紙幣を盗むときに顔を引き攣らせるあの痙攣」(Michel Estève, Robert Bresson, Paris: Édition Seghers, 1974, p.86)という一節である。そのうえで三浦は、バザンやエスティーヴのいう「痙攣」が「顔面における筋肉の硬直、描線の結合、歩く際の上半身の硬直として見いだせる」と述べる。
さらに三浦は、痙攣を引き起こすための方法としてのシュルレアリスムの「自動記述」とブレッソンの「自動運動」との類似や、シュルレアリスムによって生み出される「痙攣」と演技における 「生気情動」との類似、というように議論を拡張していく。シュルレアリスムの方法論的な知見を参照することで、ブレッソン作品における「生気情動」の獲得は、内部と外部の対立の「痙攣」として把握される。つまり、モデルの身体においては「真実=内部」とブレッソンによる「現実=外部」 の対立が生じている、と三浦は結論づけた。
発表を受けたコメントでは、ブレッソンとジャンセニスムおよびシュルレアリスムとの関係を「催眠」や「痙攣」というキーワードで捉え直した視座が評価されつつ、今後の課題として理論的な記述を具体的な作品分析と結びつける必要性が提示された。時間が限られていたために発表では『スリ』や『田舎司祭の日記』の抜粋映像が上映されることはなかったが、美学的な理念としての「痙攣」が作品の中に具体的にどう見て取ることができるのか、さらにはどういうふうに作品の分析につなげていくことができるのか、次の段階ではより詳細な作品分析が必要になるだろう。また、フロアからは、ブレッソンとジャンセニスムの関係については受容する側が結びつけてきた側面があるのに対して、ベルールや「痙攣」とブレッソン作品を結びつける視座はそうした従来の言説の展開と異なっており興味深いという指摘や、ベルールの著作で中心的に論じられている観客の身体をどう扱うかという問題も話題に挙がった。
報告者からも補足的なコメントを挙げておきたい。非常に面白く刺激的な内容だったが、諸概念がやや横滑り的に用いられている点が気になった。まずブルトンのいう美学的な理念としての「痙攣」と、エスティーヴが『スリ』の画面上に見られる具体的な顔面の緊張状態として指摘した「痙攣」とが、同じ語句であるという理由でやや一緒くたに扱われているように見受けられた。類似点を見つけて発想を連鎖させていくアプローチも重要だが、それぞれの論者が用いる語句の微妙な差異を明確にしていく作業もまた大切である。このことは、「内部」と「外部」という、一見するとありふれた語句の使用法についても言える。シュルレアリスムにおける「痙攣」について論じた鈴木雅雄のテクストに表れる「私の真実(=内部)」と「現実(=外部)」といった語句と、ブレッソンが用いる「内部」と「外部」とがやや横滑り的に接続され、モデルの「真実=内部」とブレッソンによる「現実=外部」という記述へと繋げられていく。このあたり、先行する論者の語句に引っ張られすぎることなく、それぞれの差異を精査したうえで「痙攣」などの概念をあらためて独自に規定していけば、より充実した議論になるように思われた。
また、バザンやエスティーヴのいう「痙攣」という形容の妥当性を、具体的な画面分析を通じて精査する必要もあるだろう。私などは「痙攣」と言われてしまうと、どうしてもデヴィッド・クローネンバーグ『スキャナーズ』(Scanners, 1981)で頭部が爆発する寸前に小刻みに震える身体や、トビー・フーパー『悪魔のいけにえ2』(The Texas Chainsaw Massacre 2, 1986)で頭を殴られ脳震盪を起こしてガクガクと震える身体を想起してしまう。シュルレアリスムの「痙攣」概念に着目するのは面白いと思うのだが、具体的な画面分析をする際に、たとえば「このシーンに痙攣が見出せる」というような仕方で概念を端的に作品に当てはめてしまうと、作品の複雑な肌理から離れていき、抽象的な記述になりかねない。「顔面における筋肉の硬直、描線の結合、歩く際の上半身の硬直として見いだせる」と発表でも述べられていたように、硬直した身体に生じる微妙な震えの様態を、個々の作品やショットに基づいて丁寧に言い表していく必要があるのではないか。理論的な枠組みをしっかりと設定したうえで、作品の複雑な肌理と戯れ、その果てにブレッソンの演技論の特性を浮かびあがらせることができれば、さらに面白い議論になると思われた。
原田麻衣氏の「『恋のエチュード』における声と語り」は、フランソワ・トリュフォー『恋のエチュード』(Les Deux Anglaises et le Continent, 1971)の一次資料を読み解き作品の生成過程を検証しつつ、同作におけるナレーションの機能を明らかにしようとするものだ。トリュフォー自身が担当している三人称によるヴォイス・オーヴァー(以下VO)のナレーションは、先行研究において重要な要素として指摘されてきた。だが、原作であるアンリ=ピエール・ロシェの小説『二人の英国女性と大陸』(1956)には三人称のナレーションは存在しない。これまで原作の忠実な翻案を実践してきたトリュフォーは、なぜ本作品で三人称のナレーションを入れたのか。また、三人称のナレーションはどのような機能を果たしているのか。原田は、一次資料を分析することでこれらの問題を解き明かしていく。
シネマテーク・フランセーズに所蔵されている膨大な一次資料──トリュフォーが書き込みを残した原作本や、トリートメント、デクパージュ第1稿および第2稿など──を丹念に調査した結果に基づく分析は、非常に面白く、興味深いものであった。原田は、トリートメントやデクパージュを比較・分析していくことで、当初は主にクロードのVOとして想定されていた箇所が、徐々に三人称のVOによるナレーションに変更されていったことを明らかにした。では、なぜクロードのVOは三人称のVOへと変更されたのか。原田は、原作小説を論じたロバート・スタムに依拠しつつ、登場人物たちが恋愛的な感情を日記や手紙に書くという行為の媒介性に注目する。ただし、何かを書くという行為は、この映画においては発せられる声として現れる。もし一人称単数のナレーションが採用され、なおかつ画面上に登場人物の姿が映しだされていた場合、声は身体と結び付けられ、媒介されることなく聞こえてしまう。したがって、書くという行為の媒介性を重視した原作の形式に忠実であるためには、クロードの声を媒介するものとして三人称VOの匿名的なナレーションが必要だった、と原田は主張する。
発表後のコメントでは、緻密な一次資料調査が高く評価されると同時に、今後の課題として以下の点が指摘された。まず、クロードの一人称語りであっても三人称のVOであっても言葉によって媒介されているという点は変わらないので、三人称VOに変更した理由の解釈としてはもう少し掘り下げる必要がある。また、トリュフォーの声は明白な特徴を持っているので、完全に「匿名」の語り手として扱うことには困難が伴うだろう。そして、三人称のVOだけでなく、ミュリエルやアンの一人称の声に語りが委ねられているパート──内的なモノローグや、街中を独りで喋りながら歩くシーン、手紙や日記を読んでいるシーンなど──や、通常の台詞も含めて、複雑な「声の織物」としてこの作品全体を捉える視座も重要となるだろう。さらに、身体的なモチーフに満ちたこの作品におけるナレーション、声、人称の在りようを捉えるうえで、それぞれの人物の特徴的な身体性について考察を深めることで、議論の射程がさらに広がるはずだ。ごく簡単にまとめたが、以上のような指摘がなされた。
いくつか補足的なコメントを加えたい。まず、本発表では三人称のVOを現実のトリュフォー自身の人生に引き付けようとする先行研究の立場から距離を取ろうとして、あえて「匿名」の語り手として扱う立場を取ったように感じられたのだが、現実のトリュフォーというテクスト外的な文脈に完全に還元しなくとも、テクスト内における要素としてあの特徴的な声の意味作用に踏み込んでいくことは可能ではないだろうか。たとえば蓮實重彥は、あの声の「せわしないリズム」に積極的な意義を見出している。すなわち、トリュフォーのフィルモグラフィにおける緩慢なリズムをもつ作品の系譜と、唐突なリズムをもつ作品の系譜、そうした二つの時間の「共棲関係」を可能にする媒介項として、『恋のエチュード』におけるトリュフォーのVOを位置づけている(蓮實重彥『映画はいかにして死ぬか──横断的映画史の試み』、フィルムアート社、1985、200頁)。そこでは、この作品自体が様々な意味で媒介としての性質を備えていることが示唆されている。こうした指摘をヒントにして、より多角的にあの声が諸要素を「媒介」していると捉えると、発表者の問題関心をさらに掘り下げていくことができるかもしれない。
また、もし一人称単数のVOが用いられ、画面上に登場人物の姿が映されている場合には「声は身体と結び付けられ」、「媒介されることなく発せられる」という指摘があったが、たとえ一人称のVOであっても声と身体の分離が露呈する場合は原理的にあり得る(うまくリップシンクしない場合など。あるいは別人の吹替で「私」と呟けばたちまち声と身体の関係は曖昧になる)。これは映像と音という二つの次元で構成されるトーキー映画の原理に拠るもので、むしろ声そのものの媒介的な性質に目を向けるべきかもしれない。また、発表では三人称VOがクロードを特権化している理由を「打ち明け話をする相手が存在せず、日記に書くしかない」ことに見出していたが、むしろこの権力関係のもたらす意味作用が気になった。つまり、一人称VOが用いられるミュリエルやアンとは対照的に、ほとんど一人称VOを免れているクロードは、三人称VOによって特権的に扱われているように見える。声の性質を捉えるうえで、その権力性が作品内で示す意味作用に踏み込んでいくことも可能ではないだろうか。
さらに、この作品の音響設計と声の関係も気になる点である。ジョルジュ・ドルリューの感傷的な旋律を伴ってネストール・アルメンドロスの繊細で端正な画面が繋がれていく語りの巧みさもこの作品の魅力のひとつだが、画面の内外を漂う環境音の存在も無視しがたい。たとえば海辺の一軒家の周囲では、海鳥の鳴き声や波の音がほとんどひっきりなしに聞こえているし──家の中までさざ波の音が微かに響いている──、湖のほとりや森林では小鳥のさえずりが聞き取れる。画面を浸透(媒介?)していくようなそうした音の在りようと、声たちはいかなる関係にあるのか。この作品が70年代の音響的変革の渦中に作られているという文脈も含め、そうした音の在りように着目することで見えてくるものもあるように思われる。
以上、3名の発表はそれぞれの角度から、映画における身体や生成の問題をとらえるうえでの貴重な手がかりを提示するものだった。今回の発表をきっかけに、さらに活発な議論が繰り広げられていくことを期待したい。
(早川由真)
パネル概要
映画、とりわけ、作家が作品に及ぼす力が大きいとされる現代映画において「身体」はどのように考究されてきただろうか。映画における身体を巡るこれまでの研究は、イデオロギーを逆照射する表象としての身体を検討するものや、観客とスクリーン上の身体の関係を現象学的観点から考察するものなど、その射程は極めて広いが、いずれも従来の映画理論において支配的であった精神分析・記号論的モデルに対するオルタナティヴを志向している。
このような問題意識を共有しつつ、本パネルでは、ジョン・カサヴェテス、ロベール・ブレッソン、フランソワ・トリュフォーという作家主義的な受容がなされてきた3人の映画監督を取り上げ、それぞれの作品・方法論で、映画における「身体」が表象される際に、いかなる事態が起こっているのかを次のように検討する。堅田は、カサヴェテスの『愛の奇跡』を分析対象に、俳優演技の考察を行う。三浦は、ブレッソン演技論の内実を美学的・宗教学的観点から検討する。原田は、『恋のエチュード』を取り上げ、語りの構造における声の機能を考察する。本パネルが目指すのは、テクストの創造過程が刻印された身体の分析を通じて、テクストの諸特徴を主に監督という主体に還元してきた従来の作家論の再考である。三者の議論が重なり合う地点から、映画研究における新たな議論の可能性と課題を析出することが最終的な目的となる。
ジョン・カサヴェテス『愛の奇跡』における俳優のパフォーマンス/堅田諒(北海道大学)
本発表では、ジョン・カサヴェテスの『愛の奇跡』(A Child Is Waiting, 1963)を分析対象に、テクストにおける俳優のパフォーマンスを考察する。本作は、これまでの作家論的なカサヴェテス研究において、プロデューサーのスタンリー・クレイマーとカサヴェテスの対立や、クレイマーの編集への介入などから、監督カサヴェテスのコントロールが及んでいない作品のひとつとして分析対象となること自体が少なかった。本発表の目的は、俳優のパフォーマンスという観点から作品の捉え直しを図ることで、カサヴェテスと俳優たちの創造行為の一端を浮かび上がらせることである。
発表では、まず、知的障害児施設を舞台にした本作に対するクレイマーとカサヴェテスそれぞれの態度を整理し、クレイマーの編集によって明確化した作品のイデオロギー性を批判的に検討する。つぎに、それでも作品に残っていると思われるカサヴェテス的な演出の痕跡を、いくつかのシークェンスの俳優演技に見いだす。とくに、ジーナ・ローランズ、ジュディ・ガーランド、バート・ランカスターらが一堂に会する場面に注目し、俳優の声の演技、身体の動き、俳優同士の演技の掛け合い、空間の使い方などを検討する。最終的に、この場面における俳優たちのパフォーマンスの特質が、他のカサヴェテス作品にも共通している要素であることを述べ、『愛の奇跡』が従来のカサヴェテス研究に再考を迫る作品であると位置づける。
ロベール・ブレッソンの演技論──モデルの「痙攣」する身体/三浦光彦(北海道大学)
「人間の自然を、本性を、尊重すること」ロベール・ブレッソンは自身の映画的理念を纏めた書物『シネマトグラフ覚書』にそのように記している。だが、実際のブレッソンの映画、とりわけ、『田舎司祭の日記』以降の作品において見られるのは、極めて不自然な人物たちの動き、表情である。アンドレ・バザンが「脈絡のない痙攣」と形容した、ブレッソンの映画における「モデル」たちの表情、演技をどのように捉えるべきだろうか。
本発表では、ブレッソンの演技論を「痙攣」と言う言葉を鍵語として考察していく。一方的に俳優をコントロールしようとするブレッソンとそれに縛りつけられる俳優たち。両者の拮抗関係は、身体において「痙攣」として立ち現れるだろう。本発表では、この「痙攣」を美学的、宗教学的観点から論じていく。
ブレッソンは映画監督になる以前、シュルレアリスムのコミュニティと関わりを持っていたことが明らかになっているが、シュルレアリスムにおける「痙攣」という概念はブレッソンの演技論を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。そして、この「痙攣」という概念はキリスト教の異端派ジャンセニスムに由来しており、ブレッソン自身もジャンセニスムを信仰していたことは先行研究においても指摘されてきた。シュルレアリスムとジャンセニスム、フランスにおける美学的、宗教的コンテクストがブレッソンの演技論に結実していることを示すのが本発表の目標である。
『恋のエチュード』における声と語り/原田麻衣(京都大学)
フランソワ・トリュフォー作品を特徴付ける要素の一つに「ナレーション」がある。今回取り上げる『恋のエチュード』(Les Deux Anglaises et le Continent, 1971)は、ナレーションがトリュフォー本人によってなされる唯一の作品である。トリュフォー作品において三人称のナレーションが用いられる場合、徹底的にその語り手の姿が映像から排除され主体の匿名性が守られてきたことに鑑みれば、本作の語り手は例外的といえる。また、映画冒頭で物語世界外の声は主演のジャン=ピエール・レオーからトリュフォーへと流れるように移行する。先行研究はそれを作家トリュフォーの介入として捉え、「トリュフォーが語る物語」という意味で「一人称単数の映画」と認識してきた。
本発表ではこうした先行研究の指摘を敷衍しつつ、これまで十分に検討されてこなかった原作・脚本資料との関係性を踏まえて、この作品の生成過程を分析する。原作となったアンリ=ピエール・ロシェの小説『二人の英国女性と大陸』は、手紙と日記で構成されるという特徴を持つ。原作の持つ形式が映像として受肉化=身体化されるさい、声はどのような機能を果たしているのか。これを明らかにすることで、語り手によるヴォイス・オーヴァーのナレーションと登場人物の台詞/モノローグが緊密に作用し、声と物語世界の重層的な位置関係を築いている『恋のエチュード』の特異性に迫ることが本発表の目的である。