パネル2 記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて
日時:2021年7月4日(日)10:00-12:00
・映像で記録された立川談志の落語から考える/池野拓哉(フリーランス)
・柳桜口演『四谷怪談』における怪談噺の粘着性/斎藤喬(南山宗教文化研究所)
・演芸速記のリアリティ/宮信明(早稲田大学演劇博物館)
【コメンテーター・司会】佐藤守弘(同志社大学)
学会から「記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて」というパネルの発表者公募メールが来て、そこに提案者である池野拓哉氏のタイトルに「落語」の文字を目にした時、なにか頭を絞って発表をひねり出そうかなとも思った。しかし、とくに新しいアイデアが浮かばずそのままにしていたが、企画委員会から「表象では珍しい落語パネル」という言葉とともに司会/コメンテーター依頼のメールが届き、間髪入れず快諾する意を伝えた。というのも、私は以前、戦前期の浪花節/浪曲に対する評価を軸に民衆芸術/大衆娯楽について考えるテクスト(「キッチュとモダニティ──権田保之助と民衆娯楽としての浪花節」『大正イマジュリィ』No.11、2016年3月)において、戦前における浪花節の3つの隆盛期が蓄音機、ラジオ放送、拡声マイクロフォンのそれぞれの浸透と重なっているということを指摘するなど、演芸とメディアの関係に興味を持っていたからだ。
それだけではない。私自身が落語のファンである割には、会場にナマの落語を聞きに行ったことはほとんどなく、主に本や録音、映像といった複製によって享受しているということもある。他の文化ジャンルと同じく──あるいはそれにも増して──落語に関する言説においては、「ナマ」での受容という体験が真正なものとして特権化されている訳で、その点では私はファンを名乗ることすらおこがましいことになる。その辺りのメカニズムに興味があったというのが、このパネルに参加することを決めた一番の動機であった。
タイトルが示唆するように、このパネルは「パフォーマンス」の「記録」がどのような「リアリティ」を持つのかを、それぞれの発表者が問うものであったが、「リアリティ」とはどういうものであるのかに関する見解は、それぞれに異なっていたように思われる。ただ、視点が異なることは悪いことではないと考える。というのも落語を含む大衆演芸は、これまで文学や社会学の研究領域内で主に扱われてきた対象であり、それをメディア、表象文化として考えるという試みがこれまでなされていなかったことを考えあわせると、スタート地点にあっては、できるかぎりさまざまな捉え方があった方が落語研究を推進させる動力となるのではないかと考えるからである。
パネルは、斎藤喬氏による「柳桜口演『四谷怪談』における怪談噺の粘着性」で幕を開けた。その目標は、春錦亭柳桜(初代、1826-1894)の口演速記『四谷怪談』の速記を採り上げ、怪談噺特有の記録──速記本──におけるリアリティの所在を明らかにすることにあった。柳桜の噺のなかで、お岩の呪詛は、強い伝播力──感染力──を持っているとされ、人から人へとその呪いが口伝えで祟っていくとされる。そしてその呪いを鎮めるために口演を聴き、あるいは速記を読んだ人びとは、四ツ谷稲荷を信仰し、お岩の墓所があるという鮫ヶ橋妙行寺に参詣したという。つまり「聖地巡礼」を引き起こしたのである。つまり、ここでのリアリティとは物語の外の世界に起こった出来事であり、物語世界の中での呪いが、柳桜の語りとその速記を通じて、外部世界に影響を及ぼしたのである。
続く池野拓哉氏の「映像で記録された立川談志の落語から考える」においては、立川談志(七代、1936-2011)の実演映像を仔細に分析した上で、談志がマクラだけではなく、噺が進行している途中に自在に地語りを入れることで、噺のリアリティを補強する様子が描き出された。古典として受け継がれてきた噺の筋(プロット)を中断して地語りを入れ、観客とのやり取りによって第四の扉/壁を打ち破ることで、本来の噺のリアリティを増すというのが、談志の高座の魅力であって、それを克明に伝えるのが映像メディアであるというのだ。すなわちそれが静的なナラティヴを「一期一会」の高座で生気を吹き込む彼独特のやり方であり、それに注目することは、落語というテクスト/パフォーマンスをプラグマティックな次元で語ることを可能にするのではないかと考えた。
宮信明氏の「演芸速記のリアリティ」は、「言語の写真」である速記という近代メディアがどのように落語に邂逅し、落語がそれをどのように利用し、さらに速記が落語にどのような影響を及ぼしたのかを歴史的事実を押さえながら丹念に解きほぐしていった刺激的な発表であった。速記は、一回限りの〈いま、ここ〉でしか体験できなかった落語を記録し複製することで落語の受容の域を一気に広げた。その速記本がはじめて刊行された三遊亭圓朝(1839-1900)の場合には、はじめは「聞く」という動詞が使われていたのが、次第に「読む」に変わっていく点を指摘して、寄席芸というリアルタイムのメディアが、新たな複製メディアに対応していく様子を描出する。その上で、速記本の流通が演題の定着、さらには「古典化」を進めることで、落語という芸能が近代的メディアによって変容し、今日のかたちになっていく過程を明らかにした。
このように本パネルでは、三者三様のアプローチで、落語のパフォーマンス/記録/リアリティの様相が明らかにされた。それは落語というパフォーミング・アーツをそれぞれ物語論的、語用論的、メディア論的なアプローチで解析しようとした試みであると感じた。芸術や文化の諸領域をまたぐ学会/研究会はさまざまにあるが、その中でパフォーミング・アーツの研究が盛んであることが特徴のひとつである表象文化論学会において、落語を中心とした大衆芸能/演芸の新たな視座からの研究は、もっと行われてもいいだろう。このパネルがその端緒となることを大いに期待したいと考えている(私が抱いている落語における「ナマ」と複製をめぐる問題もそこでは俎上に上ることであろう)。
パネル概要
生で行われるパフォーマンスというのは、会場に来た観客に対して行われるものであり、本来は記録される為に行われるのものではない。生のパフォーマンスが主で、記録されたパフォーマンスは、その場を共有することができなかった人や、記録として楽しみたいという人の為の、付随的なものだった。ところが2020年以降、配信されるパフォーマンスが増えることにより、記録されたパフォーマンスが生のパフォーマンスと対比して考えられても良いものに位置付けを変えたように思われる。
このパネルでは、記録されたパフォーマンスと生のパフォーマンスをそもそも比較できないものとして捉えるのではなく、比較する価値のあるものとして改めて位置付けることで、記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて考える。言い換えれば、生ではないことを過度に意識せずに記録されたパフォーマンスについて考えてみる、ということである。
またこのパネルでは、記録されたパフォーマンスのリアリティを考える上で適切な題材であれば、映像・音声・テキストを問わず対象としたい。配信されるパフォーマンスということを考えた時、生のパフォーマンスで観客が感じ取る様々なことを共有するのに、現在一番近い媒体が映像であるように思われるが、パフォーマンスの種類によっては映像に限らないことが考えられる為、対象の題材の種類は問わないものとする。
映像で記録された立川談志の落語から考える/池野拓哉(フリーランス)
DVD集『立川談志大全(上)』〜 立川談志 古典落語ライブ 2001~2007〜の中から、主に『風呂敷』と『木乃伊取り』における立川談志と観客のやりとりを取り上げ、談志の演者としての語り口がもつリアリティについて考える。
落語では通常、演者が観客に語りかけるのはマクラだけであり、噺に入ると語り手としての演者は省略され、登場人物の台詞だけで落語が進行されることになる。だからマクラと噺では演者の役割が異なるし、古典落語においては「現代」が邪魔になることにもなる為、噺の中では一般的に「現代」の語り手は省略される。しかし談志の古典落語では、省略されるべき語り手としての談志本人が、噺の最中に現れたり消えたりする。例えば『風呂敷』ではサゲた後、終わらずにサゲについての解説をし始める。また『木乃伊取り』では噺の佳境で突然、演者に戻って観客に向かって語りかける。こういった時、噺の中に出てくる登場人物を演じる談志と、噺を語る現代の演者としての談志には、どちらも同じくらい濃厚なリアリティがある。特に『木乃伊取り』で談志が客席に語りかけた瞬間では、意表を突かれた観客は登場人物の語りなのか演者としての語りなのかを瞬時に判断できない。
このような古典落語から逸脱する談志と観客のやりとりは、音声だけで捉えるのは難しく、映像ならではといえる。この演じている談志と演じられている談志、両者のリアリティについて考えることを通して、記録されたパフォーマンスにおける立川談志の落語が持つリアリティについて考察する。
柳桜口演『四谷怪談』における怪談噺の粘着性/斎藤喬(南山宗教文化研究所)
本発表は、明治期に活躍した噺家春錦亭柳桜(1826‐1894)の口演速記『四谷怪談』(一二三館、1896年)を取り上げ、記録されたパフォーマンスが持つリアリティについて検証する。怪談噺の口演速記といえば、同時代人である三遊亭円朝(1839 - 1900)の『怪談牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』が知られているが、柳桜の十八番であった落語の『四谷怪談』は、鶴屋南北による歌舞伎の『東海道四谷怪談』とは異なる筋書きで、晩年においては円熟味を増し恐怖のあまり客足が遠のいたという逸話を持っている。言うまでもなく、速記本においては声音や所作など舌耕芸に本質的な要素は記録されないが、ここでは円朝が怪談噺について語った「粘着性」を補助線としながら、柳桜口演が聴衆にもたらしたであろう寄席における恐怖体験について考察を試みる。
『累ヶ淵』の粘着性は、口演のパフォーマンスとしては寄席における恐怖体験の根拠となるだけでなく、物語の内部においては仏教思想に基づく遁れられない悪因縁と取り殺す幽霊による怨念の実在性を結びつける機能を果たしているかに見える。本発表では、このことを念頭に置きながら、円朝の同時代人である柳桜の『四谷怪談』を対象に速記本が記録する恐怖のリアリティについて、噺家の口演がお岩の墓所を再建するきっかけとなったという物語の外部の出来事とあわせて検証する。
演芸速記のリアリティ/宮信明(早稲田大学演劇博物館)
2021年5月、4月25日からの緊急事態宣言の発出を受けて、鈴本演芸場と浅草演芸ホールはYouTubeで5月上席興行の緊急生配信を行った。その際、鈴本演芸場の社長に就任したばかりの鈴木敦は「自宅にいながらにして寄席にいるかのような気分を味わってもらいたい」と、その思いを述べている。また、古くは1884年(明治17年)、最初の速記本『怪談牡丹燈籠』が出版された時には、速記者の若林玵蔵が「寄席に於て円朝子が人情話を親聴するが如き快楽」を読者に与えると、演芸速記の特長を喧伝している。さらに、1931年(昭和6年)には、ラジオで初めて寄席中継が放送され、神田にあった立花の高座から受信機のスピーカーに直接お茶をすする音を送り込むなどして、寄席の雰囲気をありありと伝えたという。
このように寄席芸における「記録されたパフォーマンスが持つリアリティ」とは、なによりもまず、寄席にいるかのような、その場で落語や講談を聴いているかのような雰囲気をどのようにすれば作り出せるのかという問題であったといえるだろう。寄席を再現するための方法が模索されてきたのである。本発表では、「記録されたパフォーマンスが持つリアリティ」について、寄席芸、特にその速記本に焦点を当て、当時の演芸界の動向や社会の風潮、さらに速記が取られた環境の変化などにも目を配りつつ、新しいメディアに適応していく寄席芸のあり方を考察する。