問題=物質(マター)となる身体──「セックス」の言説的境界について
タイトルが示すように、本書が主題とするのは、ジェンダー形成において「問題」となるのは「身体」であり、その身体とは「物質」である、ということだ。
本書に先立つバトラー最初のジェンダー/クィア理論書『ジェンダー・トラブル──フェミニズムとアイデンティティの撹乱』は、ジェンダー形成の過程を「行為の様式化された反復」と定義していた。それは、主体が「男性らしさ」、「女性らしさ」という社会的規範に基づいて自らの行為を様式化された形で「反復」することによって、ジェンダーという主体の性的、社会的属性を時間経過の中で「行為遂行的(パフォーマティヴ)」に獲得していく、という過程を意味していた。ただし、『ジェンダー・トラブル』の中には同時に、ジェンダー生産と同時的な身体の生産(「ジェンダーの効果は身体の様式化を通じて生産される」)という問題も存在していた。しかし、その意味は多くの読者には明確に理解されることがなく、ジェンダーとは「行為の様式化された反復」、すなわち行為遂行的(パフォーマティヴ)なものである、というテーゼのみが注目されることとなった。そこから、ジェンダー形成における身体そのものの形成という位相が見過ごされてしまい、バトラーのジェンダー理論は単なる社会構築主義、すなわち、予め存在する身体が、「行為の様式化された反復」によって、「服を着るように」ジェンダーという社会的属性を獲得する、という理論であると誤解されてしまったのである(一般に社会構築主義は、社会関係が観念を形成すると規定し、物質を形成するとは規定しない)。
『問題=物質(マター)となる身体』でバトラーは、「ジェンダーは服のようなものではない」と強調している。それは、ジェンダー化の実践が、同時に身体そのものを認識論的かつ物質的に形成するような身体形成の実践、すなわち「セックス」形成の実践であるからだ。ジェンダー化とは、身体としての「セックス」の形成であり、男性/女性という二分法的性(セックス)化の過程である。『ジェンダー・トラブル』出版によって新たに問題化されたそのようなテーゼを執拗に証明することこそ、『問題=物質(マター)となる身体』の真の意義なのである。
(佐藤嘉幸)