イサム・ノグチの空間芸術 危機の時代のデザイン
アメリカと日本という二つの国を出自に持ち、西洋や東洋の文化を越境して活動したコスモポリタンな芸術家、イサム・ノグチ。本書は、そのような従来のノグチ像に対して、ノグチの創作をアメリカの社会との関わりの中で捉え直すことを目指すものである。
ノグチが、彫刻にとどまらず、舞台美術、家具のデザイン、庭や公園といった多岐にわたる仕事を行ったことはよく知られている。近年では、そのジャンル横断的な活動を包括した総合芸術家としての評価が進んでいるといっていいだろう。他方で、そのようなノグチ観が、彼のあらゆる仕事を、非凡な才能を持った一人のアーティストの造形感覚に帰してしまう側面を持っていることは否定できない。しかし、公共空間デザインという仕事が、当然のことながら、施主や建築家の意図、政治・経済・技術的な条件といったさまざまな要素の複合的な絡まりあいの中で成立していることを鑑みれば、それぞれの時代や社会背景、建築や都市計画、公共彫刻をめぐるアメリカの制度史を丹念に検討していく本書の作業は、ノグチの仕事に対してこれまでとは異なる方向から光を当て、より精緻な理解を促すものといえる。
分析の際に鍵となるのが「空間性」という概念である。「空間性」とは、著者の言葉によれば「空間への意識、空間を捉える感性、どのような空間が良いと思うかについての価値観」である。本書では、1930年代から80年代までを大きく4つの時期に区切り、それぞれ類型化された4つの「空間性」を設定している。そして各時期のノグチの空間デザインをこの「空間性」のもとに読み解いていく。
第1章では、1930年代の大恐慌から第二次世界大戦前半にかけての初期作が、拡大主義的なアメリカ社会の空間性に対する価値の転換として捉えられている。ノグチは、膨張するアメリカ経済が破綻し長期的な社会停滞に苦しむ中、公共彫刻の分野において、これまでの拡大主義的空間性に代わる新しい価値観を提示しようと試みた。一方で、当時そのような提案が実現に至ることは稀で、実現したものの多くが壁画レリーフという制限のある形式であり、それによってノグチの空間性が不本意な形で収縮・閉塞へと向かったというのが本章の論旨である。
続く第2章が扱うのは、戦中から戦後にかけての作品やプロジェクトである。上空から地面を見た風景を表現したレリーフ作品や、地下の空間から地上へモニュメントが立ち上がる広島の慰霊碑など、この時期のノグチの仕事には、垂直方向の動きを強調した空間性が見られる。本章においては、この垂直方向の空間性が、空爆(空から下方への破壊)と復興(大地から上方への再生)という時代背景に結びつけて論じられている。
第3章では、1950-60年代にノグチがデザインした庭や広場のプロジェクトが、冷戦期のアメリカの社会状況と関連付けて分析される。著者によれば、この時期のアメリカではインターナショナルスタイルのオフィスビルに併設する形で庭や広場を作る動きがみられ、その中で日本庭園に注目が集まっていたという。そして、ノグチの仕事を含めたこの時期の日本庭園という空間が、アメリカの覇権を体現するひとつの強固なイデオロギーに対するヘテロトピアとしての機能を担っていたと指摘する。これまで日本との影響関係から語られることが多かったノグチの庭や広場の仕事を、同時代のアメリカの文脈に置き直して捉えるというのは、評者にとっても新たな視座を与えてくれるものであった。
そして最後の章では、1960年代後半から80年代の晩年の仕事が扱われる。この時期のアメリカは郊外化が進んだ弊害として、都市の中心部の荒廃が深刻な問題となっており、公共彫刻によって都市を活性化する試みが行われていた。ノグチもまた、地方都市から依頼を受け、都市の再活性化のための公共彫刻や噴水のプロジェクトを手掛けている。著者は、このような公共彫刻や噴水がもつ空間性を「求心的空間性」として捉え、人々を中心に呼び戻し、共同体を再生しようとする中心の再創造という役割を果たしていたとしている。
このような分析を通して浮かび上がるのは、危機に直面する社会に対してアクチュアルな問題意識を持ち、自らの提案する公共空間によって、社会をより良いものへと変えようとした一人の芸術家の姿である。ノグチにとって、公共空間のデザインは、人々の空間への感性や価値観を変革するための実践であった。ノグチが自らの彫刻を指して「空間彫刻」と呼ぶとき、その「空間」とは抽象的なものではなく、時代や場所に結びついた具体的なものだったのである。
著者自身が述べている通り、本書が扱っているのはノグチの創作活動全体の中の公共空間デザインという一分野であり、本書のアプローチが他の分野の仕事とどのように接合していくかについては今後のさらなる調査や研究が待たれるが、本書はこれからのノグチ研究において参照すべき一冊であるといえよう。
(瀧上華)