編著/共著

小泉義之、立木康介(編)、佐藤嘉幸武田宙也田中祐理子千葉雅也、ほか(著)[フーコー研究]/佐藤嘉幸、立木康介(編)、武田宙也田中祐理子、ほか(著)[ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む]

フーコー研究 / ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む

岩波書店/2021年3月、水声社
2021年4月
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『フーコー研究』と『ミシェル・フーコー『コレージュ・ド・フランス講義』を読む』(以下『コレージュ講義を読む』)の2冊の論集は、京都大学人文科学研究所の共同研究「フーコー研究」(2017-2020年度)の研究成果報告論集である。フーコー思想の総合的かつ系統的な研究は、日本のみならず、フランスや英米圏においても驚くほど少なく、両論集はその空白を補う稀な試みである。同時にこれらの論集は、フーコー思想を単に哲学、思想史に還元するのではなく、美学、社会理論、科学認識論、精神医学/精神分析など多様な観点を含む、人文諸科学を横断する試みとして位置付けている。また、コレージュ・ド・フランス講義録の出版完結、それ以前の講義録の刊行開始、『性の歴史』第4巻出版など、フーコー研究は現在激変期にあり、これら2冊の論集は、フーコーのコーパスの大幅な増加に依拠して、既存のフーコー像の刷新を図る企図を持っている。

 例えば『フーコー研究』では、フーコーの人間学批判、フーコーと啓蒙、フーコーと文学、フーコーと精神医学/精神分析といった重要主題が、講義録、死後出版、その他の新たな資料を踏まえて新たな形で論じ直される(とりわけフーコーと精神医学/精神分析については、『性の歴史』第4巻や『セクシュアリテ講義』のような刊行まもないテクストまでが分析の対象とされる)。これらの主題に加えて、パンデミック/セキュリティとフーコー理論(第I部)、フーコーの新自由主義分析(第V、VI部)、フーコーとパレーシア(真理を語ること)(第VII部)といった講義録刊行によって焦点化された新たな主題が、多くの論者によって多面的かつ批判的に分析される。こうして本論集の多くの論考は、私たちが置かれたアクチュアルな社会状況(セキュリティ的、新自由主義的、ポストトゥルース的統治によって貧困化された私たちの生のあり方)への論者たちの批判意識を反映している。

『コレージュ講義を読む』でも、パンデミックとフーコー理論、フーコーと文学、フーコーと精神医学/精神分析、フーコーとパレーシアといった主題が、前期(1970年代前半)、中期(1970年代後半)、後期(1980年代)に分類されたコレージュ講義各時代の主題を明確化すべく、十全に展開される。同時に、この論集のもう一つのオリジナリティは、複数の論者が1970年代前半の講義録をマルクス主義との対決という視座から多面的に読解する点にある。この時期のフーコーは、監獄情報センター(GIP)の実践を通じてマルクス主義に極めて接近しており、コレージュ講義で「階級闘争」概念やアルチュセールの「国家装置[appareil d’État]」概念を批判的に乗り越えるための模索を行っていた(そうした模索から、「規律権力」や「権力諸装置=配備[dispositifs de pouvoir]」といった概念が生まれることになる)。こうした問題系は、日本側の共同研究メンバーのみでなく、外国人研究協力者(エチエンヌ・バリバール、ダニエル・ドゥフェール、サンドロ・メッザードラ、マウリツィオ・ラッツアラート)によっても批判的に検討されている。そして本論集は、ジュディス・バトラーによる、パレーシア概念を現代の社会運動と交錯させる論考によって閉じられる。

これら2つの大冊を通じて、私たちはフーコーという思想家が、いかに多面的な仕方で私たちの認識を変革し、それを通じていかにラディカルな社会変革を目指したかを理解することになるだろう。とりわけ、『フーコー研究』冒頭で小泉義之が行う「反司牧革命」という問題提起(『革命論』における市田良彦のそれを引き継ぐもの)は、司牧権力によって「全体的かつ個別的に」統治された私たちの生を、いかなる仕方でも統治されない可能性へと開く点で、同時代に生きる私たち全員に関わるものである。

(佐藤嘉幸)

広報委員長:香川檀
広報委員:大池惣太郎、岡本佳子、鯖江秀樹、髙山花子、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年10月25日 発行