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その薔薇の名──渡邊守章氏追悼

田中純

東京大学に「表象文化論」の名を冠した学科を創設した立役者のひとりであり、すなわち、その名付け親(ゴッドファザー)であった渡邊守章氏が、本年(2021年)4月11日、88歳の生涯を終えられた。渡邊氏は表象文化論学会設立時からの会員であり、2010年には、第一線で表象文化研究を牽引してきた実績に加え、当時の京都造形芸術大学舞台芸術センターにおける一連の企画、ならびに、『越境する伝統』および『快楽と欲望──舞台の幻想について』という二冊の著書に対して、第1回表象文化論学会賞特別賞が授与されている。10年以上に亘る学会賞の歴史のなかでも、特別賞の受賞者は渡邊氏ただひとりであり、これは表象文化論という学術分野におけるその存在の大きさを示す事実と言えるだろう。渡邊氏の逝去に接し、心からの感謝と哀悼の意を表したい。

わたし自身は渡邊氏の専門であるフランス文学や舞台芸術からは遠く、直接に教えを受けた経験ももたない。しかし、同じ大学院専攻にほぼ入れ替わるようにして着任した経緯から、渡邊氏の学風が濃厚に残る研究と教育の場で、「表象文化論とは何か」をおのずと感得してきたように思う。わたしにとって渡邊氏は、「表象文化論」の初発の意志を体現する人物であったし、その業績を仰ぎ見ながら、自分の立場を確かめることのできる定点のひとつだった。ここではそうした視角から、渡邊氏にまつわる思い出のいくつかを振り返ることにより、「初発の意志」を確認し継承してゆくための手がかりとしたい。

わたしが折に触れて思い起こすのは、本学会設立準備大会(2005年11月19日)における渡邊氏による開会講演の言葉である。そこで渡邊氏は、表象文化論の研究者に不可欠な営みとして、「偉大なテクスト」を見つけ、それと取り組むことを挙げた(この講演全体の概要については、本学会サイトに掲載されている報告文を参照していただきたい)。この場合の「テクスト」は言語には限らない。また、渡邊氏にとって「偉大なテクスト」の典型とは、自身がその翻訳と上演に長い年月を捧げたポール・クローデルの『繻子の靴』だったに違いない。

「偉大なテクスト」をめぐる渡邊氏の言葉をより広い意味に理解すれば、生半可なかたちでは答えの出ない問い、意識的にせよ無意識的にせよ、自分がつねに立ち返ってしまうような研究上の問いこそを抱え続けること、と言い換えられるだろう。そんな問いとしての偉大なテクストや作品との関係は、こちらが恣意的に愛したり、飽きて捨てたりできるようなものではけっしてない。なぜならそれは、テクストや作品に自分のほうが「選ばれてしまう」という経験だからである──いわば、逃れられない運命のようなものとして。わたしは渡邊氏が口にした「偉大な」という形容詞のなかに、そんな運命的な響きを聞き取っていたように思う。

渡邊氏は同じ講演のなかで、自身にとってフランス語がそうであったように、異言語を深く習得する必要性について強調したうえで、日本語話者であれば、そこからもう一度日本に立ち返り、日本の文化や芸術を異化して見る研究の重要性を説いた。それはたんなる比較ではなく、渡邊氏の著書のタイトルにもあるように、冒険的な「越境」でなければならない。

昨秋、「表象文化論の系譜学」を題目に掲げた講義を準備するためにわたしは、1990年代初めに東京大学表象文化論研究室の教員が中心となって刊行された雑誌『ルプレザンタシオン』を集中的に読み返していた。そこでわたしは、ステファヌ・マラルメの詩「エロディアード──舞台」のうちに、世阿弥が『遊楽習道風見』で語っている「有をあらはす」「無」としての「色文無縁の空体」たる水晶に通じる、「女の体の女性性を削ぎ落としした後に立ち現れる鋭い色気のようなもの」を見出す渡邊氏のテクストに遭遇した(「「エロディアード」の主題による変奏」、『ルプレザンタシオン』4号所収)。フランス文学の深い学識と豊富な観劇・演出経験に裏づけられた、この越境的な着想に感銘を受けた記憶がなまなましかっただけに、渡邊氏の逝去に覚えた喪失感はよりいっそう大きい。

渡邊氏のなかで、先に触れたような研究者としての信条は、「偉大なテクスト」を創り上げようとする作者・演出家としての野心と一体だったに違いない。一例のみ挙げれば、渡邊氏はクローデルの作品や伝記にもとづいて創作能を手がけており、そのうちのひとつはクローデルの恋人の名に掛け、『薔薇の名──長谷寺の牡丹』と題されている。渡邊氏が好んだ「紋章」の比喩を用いれば、この創作能における「薄墨色に咲く大輪の薔薇」のイメージは、渡邊氏の研究者・創作者の両面をともに表象する紋章にも思える。

フランス語の「薄墨色(灰色)」には「酔い痴れた」の意味があるという。渡邊氏のテクストは、高度に知的で抽象化されていながら,同時に官能的でもあり、酔い痴れることを求めつつ誘う、強烈な色気を感じさせている。かつて先述の二冊の著書を評した折にわたしは、舞台を語る著者の言葉は「恋の言説」にすら近づくほどに艶めかしい、と書いた。講演やシンポジウムの場における渡邊氏の姿には、みずからの発話を演出する演出家としての熟慮のみならず、俳優としての隙のない立ち居振る舞いをも感じさせる魅力があったが、その文章もまた、渡邊氏が舞台上の特権的な身体の数々のうちに幻視した、世阿弥の言う「花」にも似た官能美を、書物のページ上で上演=表象しようとしているのである。

思い起こせば、学会賞授賞式に際し、副賞として渡邊氏に贈られた薔薇の名は「ブルームーン」、あの「薄墨色の薔薇」に見立てた花束だった。われわれが渡邊守章氏から継承すべき表象文化論の初発の意志とは何よりもまず、「偉大なテクスト」が喚起する知的な快楽と欲望、あるいは、その快楽と欲望をめぐる知に──徹底して明晰なまま──「酔い痴れる」、薄墨色の官能を恐れないことではないか、と思う。それをこの薔薇の紋章に託して、記憶に長く留め置きたい。

(田中純)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年6月30日 発行