研究ノート

現代オペラ演出とキャスティングの問題──サイモン・ストーン演出《ラ・トラヴィアータ》をめぐって

新田孝行

今年(2021年)3月、ウィーン国立歌劇場で新制作されたサイモン・ストーン演出、ヴェルディ《ラ・トラヴィアータ》は舞台を現代に移し、19世紀パリの高級娼婦ヴィオレッタはSNS上で大量のフォロワー数を誇るセレブリティへと置き換えられた。ヒロイン役のプリティ・イェンデは南アフリカ出身のソプラノで、同じ演出が一昨年パリで初演された際も彼女が歌っている。記事によれば、ストーンは「イェンデの人種的背景をヴィオレッタのそれに重ね合わせた」という。「194050年代の米国では、アフロアメリカンが社会的に力を持つためにはボクサーかジャズ奏者になるしかありませんでした。でもそれではただのエンターテイナーになってしまう。ヴィオレッタもそのような存在なのです」と彼は語っている*1

*1 中村伸子「海外レポートfromオーストリア」、『音楽の友』2021年5月号、143頁。

つまりストーンは、ヴェルディのオペラにおけるヴィオレッタと、1940年代から50年代のアメリカにおけるアフリカ系のボクサーやジャズ奏者との間に、社会的な境遇という点で共通性を見出し、その共通性を示すために、時代を現代に設定しながらも、ヴィオレッタ役にアフリカ系の歌手を配役した。実際には、オペラの世界でキャスティングは演出家の一存で決まるわけではないので、劇場側からイェンデが起用できる、あるいはぜひ起用したいという話がまずあって、そこからストーンは、いわば後付けで上記発言のような解釈を考えたのかもしれない。

近年盛んなアダプテーション研究では、似たようなケースがテーマとなっている。例えば、小説の映画化において、原作の登場人物の人種を変更することで社会的な問題提起を行う試みがある。英文学者の小川公代は、『ロビンソン・クルーソー』の映画化で主人公クルーソーと生活するアメリカ先住民フライデー役を黒人俳優に演じさせた『マン・フライデー』(ジャック・ゴールド監督、1975年)や、『嵐が丘』の映画化で孤児ヒースクリフ役に黒人俳優をキャストしたアンドレア・アーノルド監督『嵐が丘』(2011年)を、「「人種」と「差異」を創造的な側面として際立たせた翻案映画」と評価する*2

*2 小川公代「序文 アダプテーション研究とは?」、小川公代・村田真一・吉村和明(編)『文学とアダプテーション ヨーロッパの文化的変容』、春風社、2017年、22-23頁。

ストーンによる《ラ・トラヴィアータ》もこれに類する演出と言える。しかし、そのキャスティングはオペラの暗黙のルールに反している。演劇や映画では当たり前に行われているような、俳優の外見上の特徴や属性──肌の色や顔立ち、体形──で配役を決めることは、オペラでは厳密には不可能であると同時に、表向きはタブーである。不可能だというのは、オペラの演者は当然のことながらまず歌えることが条件であり、劇場の規模にもよるが、制作者側にとってはキャスティングの幅が演劇や映画に比べ著しく狭いうえに、通常オペラの一つのプロダクションは十年、場合によっては何十年と使われ、その間に、演出家が初演時の配役に込めた意図をほぼ無視して様々な歌手たちが出演するからである。ストーン演出《ラ・トラヴィアータ》も、特にレパートリー方式を採るウィーンでは、今後アフリカ系以外の歌手たちによってもヴィオレッタ役が歌い継がれていくことだろう*3

*3 ウィーン国立歌劇場の《ラ・トラヴィアータ》でストーン演出と交代した古いプロダクションはジャン゠フランソワ・シヴァディエによるもので、2011年夏のエクサンプロヴァンス音楽祭で初演され、同じ年の秋にウィーンで新制作として上演された。シヴァディエの演出は、この時エクスとウィーンの両方で歌ったフランスのスター・ソプラノ、ナタリー・ドゥセーの出演を念頭に置いている。キャリア晩年に差しかかった歌手というヴィオレッタの人物設定は、明らかにドゥセー自身の歌手人生を反映する(彼女は2年後オペラから引退した)。ウィーンではその後、まだ若い新進歌手たちによってヴィオレッタ役が歌われことも多く、ドゥセーを想定して作られた演出のニュアンスは失われることになった。

一方タブーだというのは、オペラ歌手は類稀な声と訓練によって高度な歌唱技術を身につけた声楽家であり、その評価は外見と関わりなく、あくまで声と歌唱によって判断されるべき存在だというのが一応の前提、建て前だからである。アメリカの劇場における「ブラインド・キャスティング」はこれに基づく。いわば目隠しで、歌だけで判断しようという方針であり、とりわけ非白人歌手が、実力とは別な理由で不当な扱いを受けないようにする配慮となっている*4。対して件の《ラ・トラヴィアータ》では、アフリカ系の歌手がアフリカ系であるがゆえに選ばれた、少なくともその一因となったことを演出家自身が公に認めている。もしイェンデが、ウィーン国立歌劇場やパリ・オペラ座の新演出公演で主役を張るには実力不足だと衆目の一致する歌手だったならば、観客や同僚の歌手たちの間でたちまち非難が巻き起こっただろう。

*4 John Graziano, "Race and Racism", Helen M Greenwald(ed.), The Oxford Handbook of Opera, New York: Oxford University Press, 2014, p.771.

観客の側には「ブラインド・キャスティング」に対応する鑑賞の仕方がある。目隠しで観るのではなくても、視覚が捉える歌手本人から、その歌声によって喚起される想像上の人物を切り離す。さらに、たとえ〇〇な役柄を〇〇ではない歌手が演じていたとしても、〇〇な人物だという体で・・・・・・・・・・・演じているものと受けとめる。これは歴史的に培われてきたオペラ観客に特有の態度である。演劇や映画では、〇〇な役柄を〇〇でない人が演じれば、疑問や不満の原因となるか、先に触れた翻案映画のように、制作(製作)者側に何らかの解釈上の意図があるのではないかと観客は推し量ることになる。つまり、演劇や映画で〇〇な役柄を〇〇でない人が演じるのは不自然なのだが、オペラでは決して不自然ではなく、むしろそのクリシェになるほど常態であるとさえ言える。

このようなオペラ上演における一種の反イリュージョニズムを可能にするのは、やはり歌声の力にほかならない。この点について最も明快に語ったのは哲学者スタンリー・カヴェルである。『A Pitch of Philosophy』(1994年、日本語訳の邦題は『哲学の〈声〉』)の第3章「オペラと〈声〉の貸借」で、カヴェルは次のように述べる。

オペラの場合、歌手と役柄のどちらに重点があるかは決定不可能なように思われる。それどころか、オペラがもちこんだ声と身体の関係についての新たな考え方からすれば、歌手と役柄の関係は二次的である。声と身体の新たな関係においては、この歌手がこの役柄を具体化する(あるいはこの役柄がこの歌手を具体化する)のではなく、この声が、この人物、この分身、この登場人物、この仮面ペルソナ、この歌手のなかに居場所を見いだす──こういってよければ憑依する──のである。原則的にその声は役柄から影響を受けない。*5

*5 スタンリー・カヴェル『哲学の<> デリダのオースティン批判論駁』、中川雄一訳、春秋社、2008年、221頁。

偉大な声は歌手その人に「仮面」を被せ、役柄から解き放つ。演劇とも映画とも異なり、オペラでは歌声の現前、その鳴り響き(「この声」)において、役柄と、演者である歌手との関係が「決定不可能」であり、そもそも「二次的」なものにすぎないというカヴェルの主張には、客席で文字通り超人的な歌唱が歌手の人となりを忘れさせる体験をしたオペラファンならば、容易に共感できるだろう。それはまた、オペラ歌手について散々論じられてきた、役柄と歌手との間の──とりわけカストラートや異装(ズボン役)における性差をめぐる──関係の曖昧さや不一致を美学的に基礎づける理論でもある。

しかしながら、声の力を担保とするオペラの反イリュージョニズム、すなわち、〇〇な役柄を〇〇でない人が演じることを許すオペラの伝統的作法は、現代のオペラ演出において衰退しつつあるのではないか。演出上アフリカ系と設定された人物をアフリカ系の歌手が演じるサイモン・ストーンの《ラ・トラヴィアータ》は、その一つの兆候である。オペラがキャスティングの面で演劇に近づいた、とも言える。ストーンはもともとストレート・プレイ出身の演出家である。

実は同じような演出が最近他にもあった。やはりプリティ・イェンデが出演したマスネ《マノン》(ヴァンサン・ユゲ演出、パリ・オペラ座、2020年)では、彼女が演じる外題役に、ジョゼフィン・ベイカーの伝記的事実やイメージが参照されていた。より問題含みなのは、ダミアーノ・ミキエレットが演出したドニゼッティ《ドン・パスクワーレ》(パリ・オペラ座、2018年)で、若いカップルのエルネストとノリーナいずれもがアフリカ系の歌手、若者に懲らしめられる気の毒な金持ちの老人ドン・パスクワーレに白人歌手が配役された。記事によれば、エルネストは「フランスで「悪ガキ」と称される低収入者用公営団地に住む、教養も職もない典型的なニート」、ノリーナは「同じ団地で育って化粧やファッションにしか興味がなく、類が友を呼ぶエルネストと良いバカップル」だという。このようなキャラクター設定において黒人の歌手を「チョイスしたのには意味があった」、と記事の筆者は語る*6

*6 「海外レポートfromフランス」、『音楽の友』20188月号、173頁。記事には二人の署名があるが、紙面から特定できないので記さない。この記述には明らかに問題があるが、現地のフランス語プレスには書くことを憚られるような一部の観客の本音が吐露されているとも言える。

長いオペラの歴史において非白人の歌手が擡頭し、レオンティン・プライスのようなスターが登場するのは20世紀半ば過ぎのことである*7。前述したカヴェルの議論は、オペラでは声が素晴らしければ誰にでもなれるという楽天主義を含意するが、この楽天主義は現実として、人種の壁を容易には超えられなかった。現在ではヨーロッパの大劇場の新演出公演で、アフリカ系の歌手に主役のロマンティックな役柄が与えられるようになった。それ自体は確かに意義深い。しかし上述のプロダクションでは、歌手たちがアフリカ系であることが、例えば蝶々さんをアジア系ソプラノが歌う時のような素朴な本当らしさ(credibility)のためだけではなく*8、ヨーロッパで活躍する人気演出家が個人的な解釈を打ち出すために利用されていると言えなくもない。それは、現代オペラ演出における反オペラ的な、つまりオペラの伝統には反する演劇志向の一つの現れである。黒人ゆえに出演できないことと、黒人ゆえに出演できることは、オペラならではの役柄と歌手との間の決定不可能な関係を人種主義的に固定化する反オペラ性において選ぶところがない。

*7 Graziano, "Race and Racism", pp.757-770.
*8 Ibid., p.771. 一方で、白人歌手が蝶々さんやオテロを演じることも何の障害もなく受け容れられてきた。映画やアニメーションにおける原作の翻案で最近しばしばホワイトウォッシングが問題になるが、古典的なオペラ作品の上演に関してそのような批判は聞かれない。ただし、2017年のロンドンでペーター・エトヴェシュのオペラ《ゴールデン・ドラゴン》(2014年)の公演が台本上、中華料理の店を舞台とし、中国系・アジア系の人物が登場するにもかかわらず、配役の歌手がすべて白人だったことが問題となり、中止に追い込まれた事件があった。以下の新聞記事を参照(https://www.theguardian.com/uk-news/2017/oct/12/chinese-takeaway-opera-golden-dragon-hackney-empire-all-white-cast-music-theatre-wales、最終確認:2021年5月10日)。白人歌手は非白人の役も演じられるが、非白人の歌手が白人の役を演じるのには観客の抵抗があるという非対称性が、非白人の歌手の活躍を妨げる一因となってきた。註10も参照。

最後に、オペラの楽天主義を示す映像を紹介したい。アメリカのソプラノ歌手ラトニア・ムーアがサンディゴ・オペラのプッチーニ《蝶々夫人》(ガーネット・ブルース演出、2016年)に出演した際のドキュメンタリーである*9。アフリカ系の大柄なムーアが色鮮やかな着物を着て15歳の芸者を演じる姿は、人によっては笑いを誘ったり、奇妙で前衛的な演出に見えたりするかもしれない。「蝶々さんの悲劇にアフリカ系アメリカ人女性の歴史を重ねたのか」と邪推する批評家もいるかもしれない。そのいずれもおそらく正しくないだろう。ここで行われているのは最も慣習的なオペラ公演だが、役柄にも演者にも位置づけられない圧倒的な歌声が、ムーアを一人の登場人物を超えた「蝶々夫人なるもの」に変貌させる。肌の色はもはや問題ではない。そのことがオペラの、オペラ的な真実である*10

*9 https://www.youtube.com/watch?v=DzLYX-CllNQ(最終確認:2021年5月10日)
*10 ラトニア・ムーアはヴェルディのアイーダ役を得意としており、2013年3月に東京の新国立劇場でも歌った。来日の際、彼女は「今後歌っていきたい役」について夢を語っている。「本当に歌ってみたいのは「オテロ」のデズデーモナです。でも、これは難しいかも...オペラでは、歌手の見た目が役柄と多少違っていても大抵は受け入れられるのですが、「オテロ」の設定──オテロが黒人、デズデーモナが白人──が逆になるとどうでしょうか。音楽は素晴らしいし、私の声にもとても合っているので、いつかチャンスがあることを願っています」(https://www.nntt.jac.go.jp/release/updata/30000566.html、最終確認:2021年5月10日)。

新田孝行(東京都立大学・慶應義塾大学)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年6月30日 発行