シモンドン哲学研究 関係の実在論の射程
ジルベール・シモンドンは、日本ではとりわけ、ドゥルーズやスティグレールらの仕事をとおして、彼らの名前とともに知られている「知られざる哲学者」だと言える。「知られている「知られざる哲学者」」という、このあからさまな同着語法には、しかし真実性があるだろう。紹介者自身が、そのような仕方でシモンドンを知る=知らない者である。本書は、その「知られている」を相対化し、「知られざる」に分け入っていく、まさにその名に違わぬ『シモンドン哲学研究』である。
本書は、これまで「個体化論」や「技術論」といった呼称のもとに語られてきたシモンドン哲学のハードコアを「関係の実在論」と見定め、その体系と骨格を明らかにしようとする。シモンドン哲学は、それ自体の難解さもさることながら、そもそものシモンドンの著作の刊行のされ方が不規則的であったことからも、一貫性を持って捉えることは容易ではない。本書は、哲学史的および同時代的な思想的布置の解明、主著の段落レベルの整理をとおした読解、問題となる概念の用例の踏査、主著と膨大な草稿群との関係の精査などの地道な作業をとおしてこれを成し遂げる労作である。
紹介者なりに概要を示したい。第一章では、まず、アリストテレスの質料、形相、実体に取って代わる、情報、内的共鳴、準安定平衡、ポテンシャル、大きさのオーダーといった概念とともに、主著『個体化の哲学』の基本的なアイデアが提示される。このあたりは、例えばドゥルーズをとおしてシモンドンを知る紹介者にとっても馴染みの議論である。しかし、ここから本書は、シモンドンによる普遍論争へのコミットメントへと向かい、関係の実在論の唯名論的側面を明らかにする。このことは、シモンドンにおいて、関係の実在論が存在論だけでなく認識論にもおよぶ問題構成を有していることを説得的に示すものである。
第二章では、こうして強調される認識論の観点から、類似からは区別される類比の概念の考察がされ、類比が持つ方法論的な身分、それが「発見的な思考がその都度一時的に設ける仮の足場」であるという知見が提示される。これは、本書終盤の「哲学とは何か」という問いにも関わる、シモンドンの特殊な「範例主義」を理解する鍵となる。第三章では、メルロ=ポンティによるシモンドンへの疑義、つまり、前個体的なものが実体化された一者ではないのかという疑義に対して、おそらくはドゥルーズをとおして流布したシモンドン理解を牽制対象としつつ、各個体化における大きさのオーダーの相対性と、前個体的なものの二重性が主張される。
第四章では、シモンドンの最重要概念のひとつであり、しばしばベルクソン的な直観との関係が指摘されるトランスダクションが「発明」を範例として論究される。ここで本格的に前景化される、仮説形成を構成的部分とする循環的な因果としての、非継起的且つ非空間的な「同時性」の概念は、直接的には科学的発見とその創造性をめぐるものだが、おそらく、シモンドンの個体化の哲学の存在論的側面を理解する上でも重要だろう。紹介者の理解では、この「同時性」の概念の解明こそが、本書の最も重要な寄与のひとつだと思われる。(それが指す内容は違うが、ホワイトヘッド、メルロ=ポンティ、マルディネ、ドゥルーズにとっても「同時性」は重要概念である。)
第五章では、以上の議論と響き合うようにして、シモンドンにおける「哲学とは何か」が論じられる。サイバネティクスとその領域横断性に関する評価、そしてアリストレスに由来する「メタバシス」の再概念化をとおしてシモンドンが構想した、諸科学との関係における哲学的思考の地位、その意義が、「専門分化した科学を単なる一般観念によってではなく範例によって横断するという形而上学」と語られる。この「哲学とは何か」の結論は、本書で明らかにされる諸概念の内実や、そして本書の記述のスタイルそのものと同様に、ある意味で抑制的なものであるが、その抑制性こそがむしろ、シモンドン哲学の、そして哲学的思考そのもののたしかな解放性を、装飾なしに際立たせているように思われる。
紹介者は、本書の内容をすべて理解し切れたわけではない。ある意味では、本書をとおして、紹介者のなかでシモンドン哲学の難解さはむしろ増したと言ってもいい。しかしそれは、紹介者自身が、本書に導かれて、「知られている」を相対化し、「知られざる」に分け入っていくという過程に参入することができたということである。そして、この「知られている」と「知られざる」のあいだで起こる思考の運動──もしかして「同時性」?──は、本書を読み終えたことで終わることはないだろう。読まれるべき、そして何度も読み返されるべき一冊である。
(小倉拓也)