単著

渡名喜庸哲

レヴィナスの企て 『全体性と無限』と「人間」の多層性

勁草書房
2021年1月

二〇世紀フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは、教科書的には「他者の倫理」を打ち出した哲学者として説明されることが多い。実際、レヴィナスの主著『全体性と無限』が提示している枠組みは、一方に、他者を自己ないし「同」の体制のうちで抑圧する体制として「全体性」を認め、他方に、そこには汲み尽くされない「他なるもの」──たとえば他者の顔──を「無限」として「全体性」に対置し、そこから「他者の倫理」を展開する、というものであった。

本書は、もはや公式見解にもみえるこの通説に真っ向から異議申し立てを企てる。たしかに虚心坦懐に『全体性と無限』を読んでいけば──といってもそれがすでに高いハードルなのだが──少なくとも第一部「同と他」と、第三部「顔と外部性」はそうした公式見解に沿っていると言える。しかし『全体性と無限』の少なくないページが割かれている「糧」「享受」「住むこと」等を扱う第二部、「エロス」や「繁殖性」を論じている第四部になると、なぜそれが「他者の倫理」を尊重しているはずの同書の枠組みと合致するのか、わからなくなってしまう。むしろそこには『全体性と無限』自体が他者を自己へと回収しようとする議論展開さえ読み取れるのであり、これはいったいどういうことなのか。「他者の倫理」をレヴィナス思想の中心主題とすることはミスリーディングなのではないか。そうした倫理主義的なレヴィナス像をその思想の最初に据えるのは間違いではないか──これが本書が通説に抗して提示する問題提起にほかならない。

本書はしかしこうした仮説を、たんに奇をてらったり牽強付会を振り回したりすることで論証していくわけではない。その手法はきわめてオーソドックスなものだ。本書の画期的な点は、なによりも二〇〇九年から始まった遺稿集『レヴィナス著作集』の公刊を十全に考慮に入れることによって、一九六一年の『全体性と無限』公刊にいたるまでの初期レヴィナスの発想源をたどり直している点である。

本書の最終目的は、『全体性と無限』の再解釈によって「レヴィナスの企て」を示すことだが、実際には、本書の半分以上が『全体性と無限』の前史を詳しく考察することに割かれている。著者は『レヴィナス著作集』の日本語訳者でもあり、『全体性と無限』の生成研究にも踏み込みつつ、翻訳の経験が反映された十年以上にわたる地道な作業と研鑽のうえに本書の主張がなされていることの意義は、強調してもしすぎることはないだろう。

このことは、広範で丁寧な原典読解によってなされているだけではない。現在まで汗牛充棟の観のある国内外のレヴィナス研究を幅広く考慮して議論の俎上にのぼせている点や、たんにレヴィナスの隔靴掻痒な言い回しの請け売りをするのではなく、著者なりの言葉で噛み砕いて説明しようとしている点(それはたんに表現レベルにとどまらず、レヴィナスが論じなかった映画や、日本の人気バラエティ番組への参照にも及ぶ。戸惑う人もいるだろうが、響く人には響くだろう)にもよく表われており、工夫の凝らされた、著者渾身の一作であることが伝わってくる。

では、本書の問いかけが倫理主義的レヴィナス像への反駁にあるとして、そこから打ち出される積極的なテーゼはなんだろうか。それは、レヴィナスの現象学理解に即して「「志向=超越的」に理解された「人間」の「実存すること」の多様性を描き出すこと、つまりさまざまな「世界との接触」における「感覚=意味」の多層性を描き出すこと」(本書7頁)こそが、『全体性と無限』の課題だということである。したがって「他者の倫理」というテーマからは逸脱的に見えた『全体性と無限』の第二部の「糧」の「享受」や、第四部の「女性的なもの」への「欲望」といった論点も、それぞれがそうした人間的実存の多層性をなす諸相であることがわかるだろう。

ならば、『全体性と無限』において、そうした多層性の提示が実際にどのようになされているのか、そうした多層性の解明はどういった狙いに収斂するのか──そうした問いが切実なものとなってくる。本書は五百頁近い専門書であり、けっして手に取りやすい体裁ではないが、そのような問いに即して本書とともにレヴィナスの思想の核心に迫っていくことは、その労力に十二分に報いる刺激的な読書体験となるはずだ。

最後に、評者なりにこう問いかけておきたい。他者や顔の倫理といった有名な主題が『全体性と無限』の明示的な中心課題とは言えないにしても、やはりそうした倫理は(文献学的にではなくその事柄に即して)人間的実存の多様な諸相を解明しようとするレヴィナスの企てにとって範例的な価値をもつと言えないだろうか。そのかぎりで、本書の主張に反して、たんに他にも数ある諸相のうちのひとつというにはとどまらない重要性がなおも残り続けるのではないか。

実際、『全体性と無限』公刊以後、後年のレヴィナス自身がそうしたストーリーに即してみずからの企てを修正的に解釈しているよう見えるのであり、また、そうしたストーリーを介してこそハイデガーとの対決がいっそう尖鋭になり、レヴィナスの思想が、他の同時代の哲学者たちに比して遅ればせではあれ、広く受容されるにいたった、そうした意義は依然として否定できないように思われる。

こうした観点に固執することは、もともと本書の考察対象が『全体性と無限』までの時期に限定されているため、不当と言われるかもしれない。しかし本書が、『全体性と無限』の前史を重く見ることで、倫理を第一哲学とするレヴィナス像を斥けようとするあまり、『全体性と無限』そのものの焦点をかえって曖昧にしてしまっている印象が拭えない。本書が掲げる「人間的実存の多層性」は、『全体性と無限』の読解を導くべき主張としては、いささかとらえどころのない漠然たるテーゼに響く(「多層性」はレヴィナスの言葉ではなく、本書の用語である)。

他方、本書も認めるように(328頁)、レヴィナスが「倫理」にアルケー(始源)をみていたこと自体は事実であり、『全体性と無限』の享受論やエロス論が従来の倫理的レヴィナス像を逸脱するものであったとしても、このこと自体は、「他者の倫理」をその一部として「人間の多層性」を解明している「レヴィナスの企て」そのものが倫理的であることを妨げるわけではないだろう。

『全体性と無限』を倫理の書として扱う見方がなぜここまで有力になったのか。その理由を、たんに文献学的な調査不足や受容の偶然的な事情に帰すことは十分とは言えない。従来の倫理主義的解釈の誤りは正されるべきだが、『全体性と無限』の倫理的意義を低く見積もるのではなく、別の仕方でこの意義を明らかにする可能性はないだろうか。倫理という主題の範例的優位をはじめから考慮に入れたうえで「人間の多層性」という本書の主題に積極的に関係づける議論があれば、本書の曖昧さの印象は多少なりとも解消されたのではないかと思われる。

(宮﨑裕助)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年6月30日 発行