NO NUKES 〈ポスト3・11〉映画の力・アートの力
本書は、著者が「NO NUKES/原子力はいらない」という一つの力強い表明に辿り着くまでに費やした10年間の探究が結実した一冊である。その探究において著者は、映画や現代アートの制作者だけでなく、東日本大震災や原発について書かれた本や創作物で表現される、さまざまな「声」を聴くことに徹する。そのような著者の試みが明らかにするのは、東日本大震災や原発をめぐる「他者」たちの「声」や経験の「痕跡」の一つ一つが、新型コロナウイルスの感染拡大および2020年東京オリンピック・パラリンピック延期への対応という名目のもと、大きな政治的な力によってかき消されようとしている皮肉な現状である。人文学はそのような政治的な力に対して何ができるのかについて、本書は以下の多角的な視点から考察していく。
本書の構成は、映画・映像メディアや現代アートにおける東日本大震災/原発の表象を考察し、<ポスト3.11>の時代における映画およびアートの力を問うものになっている。本書が取り上げるのは、戦後日本の原子力映画(第1章)、反原発運動に長年邁進してきた映像作家・鎌仲ひとみの作品(第2章、第3章、第5章)、弁護士であり「映画監督」の河合弘之によるドキュメンタリー映画(第3章)、酒井耕・濱口竜介監督の「東北記録映画三部作」(第4章、付録)、動物・女性・子ども・外国人の視線から語られるフクシマ(第5章)、そして社会への広がりを可能性に秘めた現代アート(終章)である。これらを通じて、ドキュメンタリー映画の流通・上映・検閲の課題、「解りやすさ」を重視する表現方法の意義、belatedness(遅刻感)とドキュメンタリー映画の語り、現代アートにみる「制作『主体』の拡張」と「表現の継続性」(186頁)などが浮き彫りになる。東日本大震災から10年の歳月を経て「NO NUKES」を主張する本書は、「他者」の「声」を聴き続けることこそが<ポスト3.11>時代に生きる生命同士の相互理解に繋がるだけでなく、「未来と結びついた生を取り戻すため」(3頁)の可能性と道筋を照らし出してくれるのだと希望を抱かせてくれる画期的な一冊である。
(久保豊)