観世文庫所蔵能楽資料解題目録
能の観世宗家には、世阿弥自筆の能楽伝書や能の台本から、20世紀の文書に至るまで、600年間にわたって約4500点の文献資料が蓄積されてきた。それらのほか、面・装束などの寄贈・寄託を受けて設立されたのが財団法人観世文庫である。観世文庫が文献資料の網羅的な整理・調査を松岡心平東大教授(当時)に依頼したのが2002年。翌年からスタートし、のべ35名の研究者を動員して18年間に及んだ調査・研究の集大成が本書である。全資料について、書誌情報だけでなく最新の研究的知見に基づく解題を付したため、768ページというボリュームとなった。
本書の内容詳細や、能楽研究における意義については、出版社の紹介サイトで述べたのでそちらを参照されたい。ここでは表象文化論学会のニューズレターで紹介することに鑑みて、少し視点を変え、領域横断的な新たな研究の開始を誘うものとして、本書を紹介したい。
たとえば、任意の劇団を想像してみてほしい。その劇団の活動に伴ってさまざまな文書が発生するだろう。戯曲・演出ノート・理論、制作の実務書類、劇場や助成団体とのやり取り、会計・税務書類、テント芝居ならテントの作成法等々。この劇団が600年間存続して、その間にこうした書類が大事に保存され続けたとしたら、それらを用いてどのような研究が可能になるだろうか。本書が実現したのは、そうした研究を誰もが始めることのできる開かれた基礎を提供することである。
実は、観世文庫の資料の公開ということでは、上述した文庫調査の過程でオンライン・データベース「観世アーカイブ」を構築し、本目録に掲載されている文献資料は、そのほとんどの写真を簡単な解題とともに検索・閲覧できるようにしてある。その後に「書物としての目録」を刊行したことは、近年のアーカイブ論の動向に照らすと反動的にすら見えるかもしれない。しかし、これには大きな意味があったと実感している。
データベースならば、各レコードにタグをつけて検索すれば分類されるし、順序もその都度の必要性に応じてソートすればよい。しかし本にするためには、全資料を分類してリニアに並べなくてはならない。そこには無理がある。資料は常に複数の性質をもつからだ。しかし、無理に一意に並べようとしたこと自体が、資料間の比較検討と各資料の素性の解明を飛躍的に進展させた。
そして、目録というオールドメディアがもつ〈同種の資料の一覧性〉は、予想外の資料との出会いや、新たな研究アイディアの発生を促すという点で、やはり代えがたい価値をもつものであった。実際、長年この調査に携わって個々の資料の内容はかなり把握していた私も、この目録の形で読み直していると、実践共同体の歴史社会学的な研究だとか、起請文という独特の「芸の契約書」のメディア−身体論的研究だとかの、ディシプリン横断的な研究のアイディアが、次々と浮かんでくるのである。
古文書の目録というと、いかにも専門研究に閉じた刊行物という印象を与えるかもしれない。しかし、これまで述べたとおり、この書物はむしろ、専門外の様々な研究者に、能の一次資料を素材とする独創的なプロジェクトをスタートすることを可能にするものである。会員各位の積極的な利用を願いたい。
(横山太郎)