翁の本 The Book of Okina
「翁」とは能楽のなかで特別な演目として伝えられているもので、しばしば「能にして能にあらず」と言われる。現代では正月や記念の公演で上演されるのが主流だが、かつて、正式な能の上演のときには必ず最初に「翁」が舞われた。「翁」には、いわゆるストーリーはなく、白い翁と、黒い翁が登場し、「天下泰平、国土安穏」「五穀豊穣」を祈るきわめて儀式的な演目である。「翁」は猿楽(能楽の古名)の「元芸」とも言われるが、観阿弥や世阿弥よりもさらに遡る時代から、猿楽が行ってきた芸であった。
本書は、「翁」にかんする公演と展覧会を行う企画「翁プロジェクト」の「公式ガイドブック」とでも言うべきもので、「翁」一曲を一般向けに紐解くことを狙っている。能楽の一演目に特化した一冊の書物というものは、これまでなかったのではないだろうか。第一部の「「翁」を知る」は、言わば、「翁」の入門編であり、進行、詞章、空間、音楽など、要素ごとに「翁」を解剖している。なかでも注目していただきたいのは「「翁」の構造をとらえる」である。そこでは「翁」一曲の進行を、音楽・映像編集画面のように役職ごとに視覚化している。能楽の新しいラバノーテーションの一試みと言えよう。
第一部の後、「翁」をめぐって残された数々の言葉の引用集(〔問答〕)に続くのが第二部「「翁」を考える」、すなわち、考察編である。そこには「翁」研究の最先端のエッセンスを収録すべく、松岡心平氏、宮本圭造氏、中沢新一氏、沖本幸子氏、安藤礼二氏、中島那奈子氏のインタビュー記事を掲載している。「翁」誕生からその発展と伝播、「翁」がはらむ哲学・思想、現代の視点から見直されるそのポテンシャル等について、多様な議論が繰り広げられている。
本書は完全日英バイリンガルとなっており、英訳は、能楽の英訳の第一人者、リチャード・エマート氏が担当している。能楽の、しかも「翁」というたいへん訳しにくい内容が見事に英語化されている。
筆者は本書の執筆・編集に携わるなかで、「祝祭としての書物とはこのようにして可能なのか」という、何にも替え難い実感を得ることができた。「翁」自体が「祝祭」なわけだが、その祝祭性はエディトリアル・デザインによっていかに体現可能か。その問いを徹底的に追求することができたのである。それは、凸版印刷の方々を中心とした「翁の本」編集チームの尽力の賜物だが、なかでも、デザインを担当した保田卓也氏に負うところは甚大である。また、コロナ禍によって出版予定が遅れたことも大きな要因であった。
本書によって、能楽「翁」の多産な散種が展開されることを祈っている。
なお、本書に続き能楽シテ方五流派宗家による「翁」公演に合わせて5冊の続編を刊行してゆく予定であり、現時点では『翁の本 01 熊本・喜多流』『翁の本 02 東京・観世流』の刊行が完了している。
(原瑠璃彦)