テゼーの槍とハッセルトのカワハギ ──守章先生の思い出
「結局のところ」、先生の仕事を語ることはもとより、単に先生を話題にすることさえも私にはその権限も正当性も能力もないので、烏滸がましくも二三のくだらない思い出話で読者に甘んじてもらおうと思います。冒頭から場違いの「結局のところ」とは、先生のフランス語の口癖をわざともじって使わせていただいただけです。フランス語で「結局のところ」を言うためにはいろいろな表現がありますが、お付き合いをさせていただいて間もなく先生の口から良く「Après tout...」という言葉がこぼれることに気付きました。別に凝った表現ではありませんが、日本の方の口からこの表現を聞くことは小生は外に例を知りません。そもそも先生のフランス語というのは、外の日本人と比べて桁違いのうまさがありました(そう言ってしまってたくさんの友人の顰蹙を買うことは覚悟済みですが、本当にそう思いますので仕方がありません)。難解な語彙、複雑な構文を名人芸的に扱えるというより、あくまでも声から、フォネーから、その抑揚、その息、又その粋からでも言葉や意味の流れをうまく制御できるその類稀な才能と鋭い感性に、いつも感心しておりました。それがどこで育まれたのかと言えば、間違いなく劇場であり、五十年代のパリ左岸の舞台に登場していた俳優のせりふまわしを聞いてとしか私には考えられません。
たった三つの音節からなる表現ですが、三番目のtoutに丁度良い具合に軽いアクセントを置いて半トーンを上げながら少し母音を伸ばすような先生の「Après tout...」の使い方のうまさは、私にとって魅力的で、一時真似ようとさえしました。この表現のもとの意味にならい前の内容を受けて結論付けるよう見せかけながらも、その期待を裏切るような違う帰結を持ち出すという少々冷めきったような使い方は、才気煥発な先生のフランス語がどれほどのものかを物語っています。日本の方から、このようにスタイリッシュなフランス語を勉強できたことは人生で他にはありません。 守章先生の「Après tout…」の由来が謎のまま長い年月が経ち、2005年がやってきました。この年に先生の手による『繻子の靴』の翻訳が刊行されたのです。長く困難な翻訳作業という鍛冶の洞窟で飛び散りはじめた演出の妄想を具体化したいという野心が先生の中で湧きはじめたころ、お電話を何度もいただいたお陰で、久しぶりにクローデルの原作に目を通しました。その瞬間、「あっ」と思いました。何と、振り出しのト書きの冒頭、一番最初の言葉から、あのAprès tout が使われているではありませんか。この関連性が簡単に証明されるとは思いませんが、どうも全くの偶然とは言い切れません。先生がフランスの戯曲を翻訳する時、まず自分の喉を通すという手続きを必ず踏んでいたのではないかと思うのです。それから呼吸を計らいながら和訳を探っていったのではいかと。兎も角、小生 はクローデルの戯曲に飛び付き、全作品を読み、「Après tout」の出る頻度を調べたくなったのですが、言うまでもなくそんなことをしても意味がありません。それより、駒場で『繻子の靴』の公演会をできる限り早く設けさせてもらいたいとのご要望がございましたので、この急務に取りかからなければなりませんでした。久しぶりに先生の舞台のお手伝いができることを私は本当に楽しみにしていました。
思い起こせば、それより20年前の裏方としての体験が私にとってどれほど貴重だったことでしょう。そもそもの先生との出会いは、間違いがなければ1976年(あるいはその翌年)の秋にまで遡ります。当時、先生はソルボンヌ・ヌーヴェル大学演劇科で招聘教授として一年間の滞在をちょうど終えられるところでした。ある日、ヴァンセンヌ大学(現在のパリ第8サン・ドニ大学)でのドゥルーズの授業で知り合った日本人の学生に、「今度の日曜日に先生の引越を手伝いに行くけど、一緒に行かないか」と誘われ、日本語を勉強し始めていたので、日本語を使ういい機会になると思い、すぐに引き受けました。しかし、先生のご自宅に行ってみれば、日本語一言しゃべらせていただけず、時々先生の鋭い視線を浴びながら、ひたすら何時間も本が一杯詰めてある重いダンボール箱を4階から階段で降ろしました。作業が終わり、ようやく誘ってくれた石田さん(ヒデタカと親しくして呼んでましたが)から、「友人のパトリックです」と先生に紹介していただいたのです。「む」という僅かな反応でしたが、何となく私の効率のよい力仕事を評価してくださったと感じました。その時点で、先生については、フランス文学の専門家であること以外は何も知りませんし、言うまでも無く文章も読んでおりませんでした。数年前の73年2月に、おそらくフランス語では初めての日本についての雑誌特集──少なくとも『日本人が日本を語る』と言った概念の特集は思想の雑誌としてはそれまでになかったかと思います──に先生が参加していたことも当然まったく存じ上げませんでした。戦後のいわゆる新左派思想の発信メディアだった(今も続いています)雑誌『Esprit』でしたが、その号では日本の政治思想が大きく扱われていました。言うまでもなく、三島の自決がきっかけとなったのでしょう。三島の「文化防衛論」の部分訳が掲載され、事件の大きな背景(戦後社会、高度成長、民衆主義、学生運動、前衛文化など)について論じた山口昌男を始めとする20名の著者の中に、阿部良雄先生、そして守章先生のお名前がありました。表象文化論が誕生する15年も前の話です。「Le jeu, le corps, le langage – mythe de l’origine dans le jeune théâtre japonais」(後に『虚構の身体』に「演戯、身体、言語──日本の前衛演劇における〈始原の神話〉」という題で(加筆して)収録された)は、間違いがなければ、最初にフランスで刊行された先生の論文です。それはまた、日本のアングラ演劇をフランス語で初めて紹介した論文でした。78年の「間」展より5年ほど先だって大きな関心を集めたことは言うまでもありません。その後、この論考のおかげで、日本の数々の現代演劇の劇団がフランスに招待されることになったことは容易に想像できます。私自身はそれを発見するまでに時間がかかりましたが、それでも先生の論文は状況劇場などの観劇に不可欠の手引きとなりました。
86年に慌てて読み返した記憶があります。その年の4月に井上ひさし作『化粧』パリ公演から日本に帰るや、突然先生から電話が入りました。山の上ホテルで打ち合わせをするから来て下さい、とのお誘い。シャイヨ国立劇場の芸術監督、当時のフランス演劇シーンの中心的な演出家のアントワーヌ・ヴィテーズから翌年(?)9月に先生の『フェードル』が観たいというので、パリに呼ばれているとのこと。おまけに、新しいシーズンの序開きとしてということなので、お手伝いをしてもらえないか、とお願いされました。10年前の引越しの時の私の手腕を完全に買い被られたのか分かりませんが、兎も角、今回は道具、衣裳などを運ぶだけではなく、パリ公演の全コーディネーションを担当しなければならないということなので、どきどきしながら準備に取りかかりました。当初聞かされていなかったのですが、数週間後の打ち合わせの時にローマ・パリ・ベルギーのハセルトという恐ろしいツアーになるということが告げられました。学生食堂しか知らなかった私に、いつものごとく、鮟肝などほっぺたが落ちそうなほど美味しいものを奢って下さいました。演劇教育だけではなく、日本のグルメ文化の教育にも先生がしっかりと気を配って下さったことは忘れずここに記しておきたいと思います。
今から見れば、ヨーロッパ三都市の巡回は、日本人アーティストにとって贅沢な企画でした。おまけにローマでは、都市全体を見下ろすルネサンス時代の名高いヴィラ・メディチの応接間に舞台を設けました。よく知られているように、ヴィラ・メディチは19世紀冒頭から現在まで、在ローマ・フランス・アカデミーという芸術家のレジデンスの場として使われ、国のメセナの象徴的な施設として知られています。そんな崇高な場所に私は劇団より三日早く入り、現在では観光客が殺到する庭の奥の部屋での滞在を一秒ごと大切にしながら、公演の準備に取りかかりました。先生が好んで使った舞台装置、狭い四角のステージを中央に置いて、そこから180度に対立する二つの橋がかりのような道を組み、その上に光を激しく反射する分厚いビニールのシートを敷く、と言った案配でしたが、材料を手にすることが難しくいくつかのものについては無しで済ませなくてはならなかった覚えがあります。
絶対に無しでは済ませられないの王のテーゼの槍でした。第三幕、丁度戯曲の真ん中で、戦から帰ってくる王の武勇と権力を示すのに不可欠な道具なのですが、劇場ではないヴィラ・メディチには見当たらないし、誰かに作製してもらうには時間が足りません。結局、劇団が到着した日に館長の紹介で RAI(イタリア国営放送)に頼むこができ、道具の倉庫まで案内してもらいました。そんな場所に足を踏み入れたことのなかった私は、倉庫の広さに唖然としてしまいました。まるでひとつの街の中にいるようでした。ようやく、曲がりくねった街路の奥にある古代の武器部門に辿り付いたのですが、目の前には何百種類もの武器がしんとして待っていました。膨大な数の槍の中からどれにすれば良いかすぐに決められる人などいないでしょう。先生の槍の好みは当然知りませんし聞いてもいません。携帯がない時代ですので連絡もできません。案内の方に聞いてみれば、そこはテレビ局の倉庫ではなく、何とチネチッタ、つまりイタリアの一番大きな撮影所だったのです。言ってみればイタリアの、いや、もしかしてヨーロッパのハリウッドではないでしょうか。隠せない動揺を見抜いた案内の人が、「そのあたりの槍はパゾリーニ監督が『王女メディア』で使った覚えがありますね、確かではありませんが」と言いました。その言葉にまんまと引っかかって、目の前のシンプルだが貫禄のある槍を選び、「Après tout…ムッソリーニが作った撮影所なわけだからどれでもテゼー王に合うだろう」と、無責任気味に思って、ヴィラ・メディチへ駆け足で戻りました。
緊張感たっぷりで稽古は進んでおり、邪魔しないよう隙をみて、勝ち取った立派な槍を手に握りこれ見よがしに見せながら先生の方へ進んでみました。しかし、先生は何の反応もせず、ひたすら舞台の上で科白を流しながら、止めたり戻したり試行錯誤して演技の間を計っていました。槍どころではなかったのです。夜が更け、翌日の初日を目前に、旅の疲れがとれていない役者さんたちを部屋に帰して、先生は私と二人きりで会場にとどまりました。「このままだと無理」と言いこぼして、私を相手にしつつ自分に聞かせるように、科白と空間がどれほどかみ合わないか、具体的なくだりを試しながら、先生は示されました。確かに、東京の舞台の寸法は少なくとも一間から二間分長かったのです。あたかも翻訳の最中から舞台の寸法が測れていたかのように、先生は舞台上で翻訳の別の間の可能性を探っていました。私は、まさか言葉を換えたり削ったりはしないだろうと、不安を覚えながら横から見てみました。ヴィテーズが言う翻訳作業の最中に演出は始まるという言葉を思い出し、そのことが少し実感できた気がしました。先生の翻訳というのは、時間の流れ、リズムだけではなく空間性、つまり身体性を想定しミリ単位で計算されていると思いました。翌日、会場に戻ると、先生はおそらく一睡もしないで真剣な表情を保ったまま隅っこに座っていました。それから、皆で部屋の対角線に舞台をならべ直したのです。
ローマでの試練を乗り越えたお陰か、パリでの公演はとてもうまく行きました。なにせ、ルモンド紙は「Le scandale du désir(欲望というスキャンダル)」という題で「すぐれてラシーヌ的な人物」であるフェードルを演じた後藤加代を褒め、その「声の奥にとどろく悪魔的なものは悲劇そのものだ」という評は、的を得ているとしか言いようのないものでした。
パリからすればど田舎というしかないベルギーのフレーミッシュ地方ハセルトでは、ベルギー人である私自身の先入観を吹き飛ばしてしまうほど、とても洗練された観客が多く集まり、それまでの権威ある二つの劇場にひけをとらないほどの大変暖かい反響をいただきました。そして千秋楽後の打ち上げ。ホテルに戻っても騒ぎ続け、これまでの緊張で疲れ切った先生がお休みになったあとも、野村万之丞(当時は野村耕介)さんの部屋で夜を徹して酒を呑み続けました。そこで、二週間近く日本食を絶ち、限界に来ていた耕介さんが、突然スーツケースから携帯型のガスコンロと、するめ、カワハギなどの干し魚を取り出して、皆の分を炙り始めたのです。コーディネータの私は臭いが廊下に逃げないよう一生懸命でしたが、翌朝、ホテル全体が日本の干し魚の煙や焦げ臭いで蔓延していました。チェックアウトの際、狂言師の後ろで身を小さくし、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいでしたが、ホテルの管理人の厳しい眼差しは私だけを追い続けていました。この狂言を守章先生は遠くから微笑みながら眺めていらっしゃいました。「Après tout, tu ne t’en es pas si mal tiré(結局のところ、うまく切り抜けたじゃないですか)」と先生は慰めて下さいました。
ただ…Après tout(結局のところ)…そうとも言えません。なぜなら私は先生の集大成である『繻子の靴』を見逃してしまったのです。そのことを先生は許してくださっているのでしょうか。もしかしたら、今も彼方から──かつて何度も説明してくださった──「連理引き」の力で私の罪を末永く操っていらっしゃるのかもしれません。しかし、私の罪悪感を少しでも和らげてくれるような、先生が好んでよく口になさっていた別の言葉もあります。『繻子の靴』の副題で、作品冒頭、滑稽な口上役が読み上げるあの言葉です。「あるいは最悪必ずしも定かならず」。