ワークショップ 「ポストトゥルース」的状況──客観的真実の終焉?
日時:2020年12月19日(土)15:15 - 17:15
発表者:
髙村峰生(関西学院大学)
大橋完太郎(神戸大学)
秦邦生(東京大学)
宮﨑裕助(新潟大学)
【司会】髙村峰生(関西学院大学)
本シンポジウムは、リー・マッキンタイア『ポストトゥルース』の翻訳刊行やトランプからバイデンへの政権交代をきっかけとして企画され、2020年12月19日、ZOOMによるテレビ会議により開催された。時事的な視点よりは、哲学や文学の視点からのポストトゥルースをめぐる諸概念の検討を中心に、大橋完太郎、髙村峰生、秦邦生、宮﨑裕助の順の4人による発表、続いて質疑応答を行った。
大橋は『ポストトゥルース』の訳者であるが、ポストモダン思想、特に「事実などない、すべては解釈である」というニーチェの(ものとされる)主張がポストトゥルース現象の責任の一端を担っているという同書の主張を批判し、ニーチェの読み直しを行った。大橋は、ニーチェが上記の通りに述べている箇所は見つからないとし、ただ、これに似たものとして、「世界は無限に解釈可能である。あらゆる解釈が、生長の徴候であるか没落の徴候であるかなのである」という文章があると言う(『権力への意思』下巻、原佑訳、ちくま学芸文庫、1993年、p.140)。大橋はこの「解釈」の二つの型の区別について注意を促した。一方で「あるがままのものは否定し、あるべきものは存在しない」というニヒリズム的解釈は、すべての言動が無駄であるという「徒労」の感覚をもたらす。しかし、他方で、世界に対して能動的に「生の置き入れ」を行うという、ニーチェによるところの「科学」に乗っ取った「解釈」が存在する。人間が世界を理解するためには否応なく解釈に拠らざるを得ないが、大橋は、このような「解釈」は世界に対する「創造的な定立」を可能にするのであり、芸術は解釈としての世界像を定立するひとつの方法となると主張した。
髙村は、リチャード・ローティによるオーウェルの『一九八四年』読解を中心に検討し、大橋と同様、マッキンタイアのポストモダン批判を批判した。ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は真実を捏造する管理国家を描いたフィクションとして、ポストトゥルースをめぐる議論で頻繁に引用されている。しかし、ローティによれば、『一九八四年』において重要なのは、客観的真実へのアクセスを死守しようとする主人公ウィンストンとそれを破壊しようとする国家の対立ではなく、作品後半に登場するオブライエンという、ウィンストンを拷問する人物の造形であるという。ローティはオーウェル自身の内なるファシズム的傾向への気づきを指摘しながら、それがオブライエンのような拷問者に体現されていると主張する。凡庸な悪を自らのうちに見出すことこそが共同体的連帯を支える倫理であり、「2+2=4」のような客観的事実を拠り所としなければならない事態は、そのような共同体に共通する価値認識の崩壊を示唆しているのだ。髙村は、このことを現代における「ファクト」への全幅の信頼が徴候的に示す傾向と重ねて考察した。
秦は、ジョージ・オーウェルの言語観と真理の関係について分析し、「翻訳」という位相の重要性を主張した。まず、オーウェルの考える「真理」は言語の働きと切り離せないことを、彼が「ありあわせの慣用語」は意味をぼやけさせ、変形させると述べている箇所を引用しながら主張した。次に、オーウェルが自分の作品がどの国の言語に翻訳されたかということに強い関心を寄せていたことを紹介し、「作品」がバベル的な多言語性の中で成立することを認識していたことを示した。他方で、オーウェルは『動物農場』の風刺するソヴィエトの現実が英語の世界に置き換え(=翻訳)できないものであると考えてもいた。また、『一九八四年』の作品世界においては外国語の習得が禁じられており、「ニュースピーク」の形成の単一言語性を示していることを明らかにした。最後に、ドナルド・デヴィッドソンやヴァルター・ベンヤミンの翻訳をめぐる議論も参照しつつ、「真理」は翻訳という試練を経なければならない、と主張した。
宮﨑は、ジャック・デリダの『嘘の歴史』を検討しながら「嘘」という概念の曖昧さや同定の困難さを示すとともに、その考察を現代の監視資本主義的状況の議論に援用した。『嘘の歴史』において、デリダはまず、意図的につく「嘘」と意図せざる「誤謬」が伝統的に区別されてきたことを確認する。そのうえで、嘘を自覚したり、内面を検証したりすることには限界があることや、嘘にもコンテクストがあり、個人の自覚や思惑を超えた歴史性を持っているという点で、「誤謬」との区別は困難であるとし、その例として、戦後50年の節目にシラク大統領がフランスのユダヤ人迫害という戦時犯罪について行った謝罪が「人道に反する罪」という基準を尊重すべきものと認める、パフォーマティブな真実の生成であったと主張している。こうしたデリダの議論を踏まえ、宮﨑は、『監視資本主義』(ジェフ・オルロフスキ監督、ネットフリックス、2020年)という映画に描かれたAIによって管理される社会を参照し、「現実」そのものが巨大なネットワーク資本主義によって構築される世界において、私たちがアーレントの言葉でいうところの「現代の嘘」とどのように対峙し、パフォーマティブな真実性を創造できるかを考えなければならないとした。
以上のように、ポストトゥルースを批判的に検討するにあたって、幅広く、かつ歴史的射程を備えた議論をすることができたと思う。質疑応答も活発に行われた。
ワークショップ概要
2016年のオックスフォード辞典の今年のワードに選出され、同年の米国大統領選の報道において頻繁にメディアに取り上げられた「ポストトゥルース」という現象については様々な議論がなされてきた。今年邦訳書が刊行されたリー・マッキンタイア『ポストトゥルース』は、同現象について、科学的真実との関係、認知バイアスの問題、伝統的メディアの凋落とソーシャルメディアの台頭、ポストモダニズムとの関係といった視点からコンパクトに論じている。同書の議論を起点としながら、「真実」という哲学、美学、文学の中でも根源的な価値を支えてきた概念が置かれている状況について、巨視的な視点と今日的重要性を重ね合わせつつ、4人の登壇者の発表と共同討議を通じて探究したい。上記訳書の監訳者である大橋はポストトゥルースのもつ解釈学的要素とその展開について、ポストモダン理論の影響を考慮しつつ批判的に検証する。司会も務める髙村はリチャード・ローティによる議論を参照し、「真実」の擁護者として扱われることの多いオーウェルの曖昧性を考察する。秦は、ジョージ・オーウェルの言語観と20世紀前半の英文学批評理論の対比から「文学」と「真理」の関係性について考察する。宮﨑は、デリダ『嘘の歴史』から出発し、その洞察が、真実と嘘(フェイク)をめぐる現代の諸問題に対していかなる示唆を与えているかについて考える。