研究発表4
日時:2020年12月20日(日)16:00 - 18:00
- 初期満映とドイツ映画──雑誌『満洲映画』をてがかりに/山本佳樹(大阪大学)
- 映画『戦争と人間』(1970-1973)における満洲イメージ/李潤澤(大阪大学)
- もう一つのニュー・ジャーマン・シネマ──ストローブ=ユイレ『和解せず』における言葉とイメージ/行田洋斗(京都大学)
【司会】上田学(神戸学院大学)
本研究フォーラムは、教員と大学院生による三本の研究発表からなる。映画を介して、日本の傀儡国家だった満州(中国東北地方)と同時代のナチス・ドイツとの知られざる関係性を浮き上がらせるものである。異なる研究分野の研究者による研究発表は、互いの研究分野への理解を深めるという意味でも有意義な企画だった。
1.山本佳樹氏(大阪大学)による「初期満映とドイツ映画──雑誌『満洲映画』をてがかりに」は、満州国の国策映画の製作機構である満州映画協会(略称満映)の機関誌『満州映画』をてがかりに、満州におけるドイツ映画の受容を実証的に跡付けた。
具体的には創刊号(1937年12月)から1940年9月号までの33冊の『満州映画』の復刻版から、ドイツ映画をめぐる様々な言説を拾い上げ、ドイツ映画がどのような文脈の下に、どのような頻度で、どのような位置づけにおいて満州で登場したのかについて、当時の映画評論のみならず、ドイツ映画の上映本数と興行成績のデータによって検証した。
満州に「映画文化」を定着させるために、初期の満映はハリウッド映画、中国映画(上海製)に代わるものとして、ナチス政権下のドイツ映画に目を付けた(当時のコンテンツ不足が、満映がその後に「自主製作」に本格的に乗りだすことにもつながったといえる)。政治的にみれば、防共協定締結以前の1930年代後半から、満州と日本国内で「親独的底流」があったことを示すものといえるだろう。
しかし、『満洲映画』は、目指すべき模範としてドイツ映画を持ち上げようとする一方で、ナチ映画統制の最大の批判者である岩崎昶を内部に抱え込むことで、ドイツ映画に対するアンビバレントな視線を生みだす結果となった。すなわち、ドイツ映画の芸術性の高さがナチスによる政治の介入によって損なわれてしまったと、岩崎昶は痛烈に批判している。
本発表は初期満映とドイツ映画との意外な関係性を解明しようとする貴重な試みであり、また、ドイツ映画を専門とする発表者の立ち位置も、日本での満映研究に新しい視座を与えたに違いない。ドイツへの日本映画の輸送経路や、岩崎昶と満映の関わりへの究明は、今後の課題とのことである。
2.李潤澤氏(大阪大学)による「映画『戦争と人間』における満洲イメージ」は、満州を主な舞台の一つとする『戦争と人間』(山本薩夫監督、1970~72年)を取りあげ、五味川純平の原作小説や、大作映画を取り巻く当時の製作環境、企画から受容の段階に至るまで同映画をめぐる様々な言説を視野に入れつつ、緻密に映像分析をおこなった。
具体的には雪と炎のイメージや、口腹の欲(=食べるシーン)、ポルノグラフィックな描写(=女性の身体)という三つのモチーフを通じて、「極限状況に置かれる人間の欲望が渦巻き、暴力と差別が横行する煉獄」という満州のイメージを浮かび上がらせようと試みた。
本発表は執筆中の博士論文の一章と位置付けられている。同じ五味川純平の原作小説を映画化した『人間の条件』(1959年)や、戦時中に製作された満州を舞台とした日満合作映画『迎春花』(1943年)との構造的な類似性が指摘されており、黒沢清の最新作『スパイの妻』(2020年)における満洲イメージへの考察は今後の課題とのことである。
日本にいる中国出身の若手研究者が満州の映画表象を研究テーマとし、両国の不幸な歴史と正面から向き合うことには、大きな意義があるように思われる。
3.行田洋斗氏(京都大学)による「もう一つのニュー・ジャーマン・シネマ──『和解せず』における言葉とイメージ」は、ハインリッヒ・ベルの小説『九時半の玉突き』を原作とし、ジャン・マリー゠ストローブが演出を手掛けた映画『和解せず』(1965年)を取りあげた。
戦前から戦後にかけて、父とその息子、そして孫の三代を描いた同映画は、20世紀のドイツの歴史が個人的な記憶として語られており、もっとも早い時期にナチズムの主題を扱った作品として、強烈な政治性を帯びている。
いままで同映画が主にフランスと西ドイツの二つの文脈においてアダプテーションの観点から論じられてきたが、そのような従来の先行研究に対して、本発表は表象の歴史分析というアプローチをもちい、ジャン・マリー゠ストローブの演出の理念を、同時代の西ドイツの映画運動との乖離を明確にするとともに、バザンの翻案論との親和性を明らかにした。そのうえ、同映画はバザンの翻案論から具体的に何を得て、原作に対してどのように忠実であるかを、映像分析によって検証した。
『和解せず』をつうじて歴史を総括し、戦争に対する過去の記憶や経験を戦後の観客に提示する、というきわめて特異な喪の作業を可能としたのは、当時の西ドイツの映画運動から距離をとり、言葉とイメージを分離させるというジャン・マリー゠ストローブの独自の戦略と方法論にほかならない。行田氏による独自な分析は興味深い。ストローブ゠ユイレを取り上げることの現在的な意味を明らかにすることも、今後の課題として言及された。
初期満映とドイツ映画──雑誌『満洲映画』をてがかりに/山本佳樹(大阪大学)
ドイツ映画研究者の立場で雑誌『満洲映画』を繙くと、いわゆる「呪われた映画」、すなわち、ナチ映画の題名がたびたび目に留まる。もちろん、この時期のドイツがまさにナチ政権下にあり、満映成立前年の1936年11月25日には日独防共協定が結ばれていたことを考えれば、それは当然のことのようにも思われる。しかし、この雑誌におけるドイツ映画への言及に着目した研究は、管見のかぎり見当たらない。本発表では、『満洲映画』のなかで、ドイツ映画がどのような文脈の下に、どのような頻度で、どのような位置づけをされて登場しているかを確認し、初期満映とドイツ映画との関係に光をあててみたい。
創刊号日文版においてはドイツ映画に関連する言説や写真が目立つ。ここでドイツ映画に向けられているまなざしはおおきくふたつの種類に分類できる。ひとつは、矢間晃の「満獨映畫協定論」で説かれるような、それまで最大勢力だったアメリカ映画が輸入されなくなったことで、同じく「洋画」であるドイツ映画にその穴埋めを期待するまなざしである。もうひとつは、近藤伊與吉の「映畫俳優學第一講 主として『新しき満洲映畫演員』の為に」に添えられたエーミール・ヤニングスの写真とキャプションから読みとれるように、満映がこれから製作していく新しい映画の模範としてドイツ映画を見るまなざしである。その後の『満洲映画』をてがかりに、このふたつのまなざしの行方を追う。
映画『戦争と人間』(1970-1973)における満洲イメージ/李潤澤(大阪大学)
本発表では「日活最後の輝かしい大作」とされる『戦争と人間』(山本薩夫、1970-1973)三部作における満洲の表象に注目する。『戦争と人間』は同じく五味川純平の同名小説を映画化した『人間の條件』(小林正樹、1959-1961)三部作に続く、満洲を舞台にした10年ぶりの超大作映画である。興行成績においても当時の批評界においても「成功した」両作品の満洲の描写にはかなりの相違があるが、そこにはそれぞれの監督の作家性のほか、10年を隔てた日本社会の「満洲」についての捉え方の変化が作用していると考えられる。
近年の『戦争と人間』についての論考では、「素材本来の重みゆえにどうも弾けていかない」、「あまりに露骨にポルノグラフィック」といった批判もあるが、ここでは作品の良き悪しについて評価をするのではなく、『戦争と人間』が生まれた時代における満洲イメージの特徴やこの作品が果たした歴史的役割を検討したい。まず、膨大な登場人物を擁するこの作品の巨大なスケールが、当時の観客にどのように受けとめられたのか、その可能性を考察する。続いて、本作の「大きな瑕」とされる性描写を戦時中の『支那の夜』(伏水修、1940)などにおける日本的オリエンタリズムの性役割と比較し、『戦争と人間』における身体と侵略の関係を提示する。さらに、『戦争と人間』と50年代、60年代の戦争映画との間テクスト性を指摘し、作中のさまざまな引用を分析し、その意味と効果を読み取る。
もう一つのニュー・ジャーマン・シネマ──ストローブ=ユイレ『和解せず』における言葉とイメージ/行田洋斗(京都大学)
本発表では1965年に製作されたストローブ=ユイレの初長編作品『和解せず』をドイツとフランスの二つの映画運動の文脈から考察し、その映画史的意義を明らかにする。1950年代に『カイエ・デュ・シネマ』周辺の作家=批評家たちと交流を深め、ジャック・リヴェットの『王手飛車取り』(1956)の助監督としてキャリアを開始したストローブ=ユイレは、ヌーヴェル・ヴァーグが始まる前にミュンヘンへ移住することとなる。当時の西ドイツでは、「若い映画作家」たちによる新たな映画運動が芽生えつつあったが、ストローブ=ユイレは彼らとは距離をとり、独自の方向性を持って本作を製作した。
こうした文脈を踏まえ、まず本発表では、主にアダプテーションの観点から、バザンを中心とするヌーヴェル・ヴァーグの影響を確認し、本作の翻案方法を検討する。先行研究においても、ストローブ=ユイレの翻案実践はたびたび論じられてきたが、それらは言葉に対する作家の態度や姿勢の問題に終始していたように思われる。今回の発表では、そこから一歩先へ進み、それが映画作品においてどのように機能しているかを論じたい。また、さらにそこで考察された音とイメージの政治性を明らかにし、当時の西ドイツ映画と比較しながらその独自性を浮き彫りにすることで、本作をニュー・ジャーマン・シネマのオルタナティヴとして位置付けることを試みる。