研究発表2
日時:2020年12月20日(日)13:00 - 14:30
- モーリス・ブランショの「薔薇の思想」──「薔薇は薔薇である…」(1963)における引用と声の創出/髙山花子(東京大学)
- 思想としての量子力学──相関主義批判と西田哲学における実在論の観点からの試論/井上博一(横浜国立大学)
【司会】横山太郎(立教大学)
12月20日(日)13:00からの研究発表2のセッションではブランショと不確定性原理をテーマとする2本の報告がされた。半ばモデレーターを兼ねる形で司会は横山太郎氏が務めた。
1人目の発表者は髙山花子(報告者)である。髙山は、モーリス・ブランショのテクスト「薔薇は薔薇である…」(初出1963)に見られるアランへの言及箇所が『芸術の体系』(1920)に依拠していることをまず指摘した。それから、そのような不明瞭なアランへの言及によって、類似する非論証的な言語の運動についてのほかのブランショのテクストや、薔薇の花をめぐる類想、それから、sans pourquoiという表現からはシレジウスだけでなくプリーモ・レーヴィの証言にある「ここにはなぜなんて言葉はない」を経てツェランの薔薇の詩に送り返されるような連想を生む曖昧な声の創出があることを指摘した。それから、比較軸として、カミュ論「地獄についての考察」(初出1954)の一節と酷似した『最後の人』(1957)中の一節を忠実な自己引用の例として取り上げ、論理的なつながりをもたない連続の運動を生むだけでなく、モチーフの変奏という点でも、ブランショのテクストそのものが、「薔薇の思想」の実践になっていたのではないか、と結んだ。質疑応答では、バラバラの出来事を連続させて付置することと、同語反復することとがどのように関係するのか、「離散的」という表現をめぐる問いが投げかけられ、「薔薇は薔薇である…」はアラン論とまでは呼ぶことはできず、むしろ同時代のナタリー・サロート等が取り上げられている筆致にこそ着目すべきではないか、非論証的な言語をめぐるブランショのテクストとしては「来たるべき書物」よりも『終わりなき対話』(1969)に収録されているテクスト中のdis-coursといった表現との関連を考察すべきではないか、といった指摘がなされた。
2人目の発表者である井上博一氏は、カンタン・メイヤスー『有限性の後で──偶然性の必然性についての試論』(2006)で展開される自然科学と相関主義の背反を踏まえた上で、量子力学のコペンハーゲン派の思想が相関主義的であり、かつ、それが後期西田哲学と親和性がある点についての考察を話した。井上氏は、具体的には、ハイゼンベルクが主張するように、観測する者と我々、観測されるものと世界とが、相互作用しており、分離が不可能であるという不確定性原理を再読し、このような不確定性原理における全体的一と個別的多の矛盾的自己同一について、西田幾多郎が関心と理解を示していた点を追った。そして、晩年の西田が、科学的知識が、「絶対現在の世界の自己実現」であると述べていたことから、親和性を確認し、コペンハーゲン派と西田の双方においては、科学法則の偶然性の要素はないのではないか、と結論した。質疑応答では、西田がとりわけ近接するのは、コペンハーゲン派というよりも、ハイゼンベルクそのひとの思想である点が確かめられた上で、取り上げられたテクストが「知識の客観性について」(1943)や、「デカルト哲学について」(1944)、「物理の世界」(1944)であったため、科学哲学として西田哲学の持つ可能性について、応酬がなされた。また、晩年の西田にとっての因果律の問題や、同時代の田辺元との比較、それから波動関数の収縮について、ボーアの使用の有無など、細かい議論がなされた。ほかに、絶対矛盾的自己同一が、この場合に取り上げられた言説では、何に相当するのか、具体例が求められた。
まったく毛色の異なる二つの発表であったが、振り返ると、時代的に重なる点はあったように思う。アインシュタインやハイゼンベルクの科学的な発見が科学的言説そのものを塗り替える頃に晩年を迎え、自分自身の哲学とのリンクを見出した西田幾多郎(1970-1945)ほどではないが、ちょうど1940年代前半に文芸時評家として活動をしていたブランショもまた、当時、そうした科学分野の発見を知らなかったわけではなく、たとえばバシュラールの精神分析と自然哲学を論じた著作を評する際には、ハイゼンベルクの名前を挙げていた。どちらも、科学的な知そのものが激震した時代を背景として紡がれた言説についての報告だったように思われる(ブランショが引用していたアランもまた科学的な論証について言及をしていた)。
なお、今回は定刻の14:30を迎えたあと、30分、懇談の時間が設けられ、発表の本筋からはそれる研究動向をめぐる話や、ほかの論者との関係について、かなり込み入った話ができた。それも含めて、あっというまの2時間であった。なかなか学術的な交流そのものの機会が失われているなかで、新鮮な刺激を得られたことに感謝したい。
モーリス・ブランショの「薔薇の思想」──「薔薇は薔薇である…」(1963)における引用と声の創出/髙山花子(東京大学)
モーリス・ブランショは、NRF誌に発表したテクスト「薔薇は薔薇である…」(1963)で、ガートルード・スタインの「薔薇は薔薇である薔薇である」という詩句から、はじまりも終わりもない、展開への抵抗である「薔薇の思想」を読み取っている。本発表では、同テクストでアランの言葉とされている一文「真の思想は展開しない」が、アランの『芸術の体系』(1920)の散文論に依拠していることを指摘したうえで、ブランショが論証的言語とは異なる、文学的言語の非連続の連続の運動をめぐる思想を明文化する過程を「薔薇」に着目して明らかにする。ステファヌ・マラルメの『賽の一振り』序文の「すべては短縮法によって、仮説のうちに生じる」という表現とアランとの類似もみたうえで、ブランショの虚構作品『死の宣告』(1948)に描かれる「薔薇」や、神秘主義者シレジウスの言葉「薔薇はなぜという理由もなしに咲いている」との関連を考察する。同時に、ブランショがアランの原テクストをどのように改変して引用しているのかを分析し、ブランショのものでもアランのものでもない、誰かの声が創られている側面が当時の彼の批評テクストにあることを、たとえばブランショ自身の虚構作品『最後の人』(1957)に顕著に見られる自テクストの忠実な再引用の手つきとの比較から明らかにし、展開への抵抗そのものとして引用と声の創出が実践されていた様子を提示する。
思想としての量子力学──相関主義批判と西田哲学における実在論の観点からの試論/井上博一(横浜国立大学)
1920年代に成立した微細な存在の運動と状態を記述する量子力学は、観測主体が重要な役割を担うという点において、思惟の外側にある客体の自然法則を提示する古典的物理学とは異質である。本発表では、量子力学を相関主義の潮流に属する一思想と位置付け、思弁的唯物論の観点から成立し得る批判を検討した上で、⻄田哲学の自覚の概念により観測された現象に実在性が付与され得る事を示す。量子力学には複数の解釈が存在するが、ここでは主流となったコペンハーゲン解釈を検討対象とする。この解釈はボーアによる相補性原理を基盤として、不確定性原理、波動関数の確率的解釈、観測による波動の収縮などの原理から構成されるが、観測される現象の傾向の記述に徹し、未観測時の物理量の実在性を議論の対象としないという点で、相関主義的傾向が内在する。この場合でも、メイヤスーが提示した自然法則の必然性の否定という言明が成立し得ることを確認する。従って、量子力学の法則は他の経験科学と同様に必然性を失うことになり得るが、ここで視点を変え、晩年の⻄田幾多郎が、量子力学に実在論的な意味を見出した過程を再考する。⻄田は不確定性原理を支持し、確率波動を生滅の波とみなした。絶対矛盾的自己同一という後期⻄田哲学の概念は相補性原理に近い関係にある。個物である自己の自覚は世界の自覚であるという主客一元論により、相関主義が克服され得る事を試論する。