翻訳

エドワード・S・リード(著)、村田純一、 染谷昌義、鈴木貴之(訳)、佐々木正人(解説)

魂から心へ 心理学の誕生

講談社
2020年10月
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問いかけからいきなりスタート──さしあたり、日本の大学や大学院の心理学部や心理学科、心理学関連の学会、心理の専門職や資格を念頭において考えてください。

・なぜ、脳の情報処理機構のモデルとして、認知モジュールの知識は教えられることはあっても、骨相学は教えられることはないの?
・なぜ、臨床心理士の資格取得にはカウンセリングの知識と技能が求められるのに、メスメリズムや催眠磁気療法の知識と技能は求められないの?
・なぜ、比較心理学や比較行動学で研究されることの多くは動物の行動であって、植物行動ではないの?
・なぜ、サイキック能力(超感覚的知覚―透視・予知・テレパシー・念力・サイコメトリー)の知識や測定技法は、専門教育課程で教えないの?
・なぜ、異常心理学の分野では、幻覚や幻聴や変性意識状態といったアブノーマルな経験が取り上げられることはあっても、臨死体験・死後経験・心霊経験(憑依、霊魂とのラップ交信、交霊術)といったパラノーマルな経験は取り上げられないの(ちゃっかりabとparaは区別されてんだよね)?
・なぜ、心理学者や生理学者は、心身関係や心身問題(あるいは心脳関係や心脳問題)を気にしないでもいいの?考えなくてもよくなっちゃったの?
・なぜ「脳の情報処理は自覚されず無意識的に実行される」という言い方はオケなのに、「脊髄反射は、脊髄に生じる感じ(feeling)によって、自覚されず無意識的に実行される」だと、ちょっと待てよになるの?
・なぜ、眠っているときに蚊に刺された腕を掻いたり、寝返りを打って姿勢を変えたりする行動は、心理学の研究対象にならないの?
・なぜ、公認心理師の学習項目のなかに、エラズマス・ダーウィン、パーシー・シェリー、メアリー・シェリー、ワーズワース、コールリッジ、ホフマン、ブレイクといった18世紀末から19世紀初期の詩人や作家たちの仕事、さらには、ドストエフスキーやトルストイやバルザックは入らないの?

まだまだ出てくるけど、このへんにしておこう。これら無邪気な疑問への答えが、ストレートではないけれど、リードを読むとじわじわーっとわかってくる。リードは、心理学が、十九世紀という特定の歴史を通過して構築された特殊ヨーロッパ的文化概念であることを暴露する。「心についての思弁(哲学)から、実証科学としての心理学が脱皮した」なんていう、僕らが大学で教わるでっち上げられた心理学と哲学の物語をコテンパンにこき下ろす。中井久夫の「治療文化」というアイディアを借用させていただくなら、『魂から心へ』でリードが伝えようとしているのは、現在通用している心理学なる文化パラダイムがどうやってできあがったのかという物語である。それは「サイコロジカルなことの文化」の形成史とでも言えようか。

何を心の活動とし、何を心の活動ではないとし、いかなるアプローチを心理学とし、いかなるアプローチを心理学ではないとし、いかなる人を心理学者といい、いかなる人を心理学者ではないとし、いかなる制度や仕組みや方法を心理学のそれとし、いかなる制度や仕組みや方法を心理学のそれとしないのか、これらを緩やかに規定する文化規範、これが「サイコロジカルなことの文化」だ。何が心理学であり、何が心理学であるべきか、何が心理学ではなく、何が心理学であるべきではないのかに関する、文化的に規定された、下位文化──サブカルチャーである。

リードの物語は、十八世期末、カントとリード(スコットランド常識学派元祖)が魂を科学することは不可能であると主張したところから始まる。魂の科学(心理学)が不可能なのは、因果関係の同定を原則とする「科学」のやり方が魂には適用できないからだ。ところが、この御法度を破壊しにかかる輩が、公式なアカデミックとは別世界から登場する。エラズマス・ダーウィンなる医者兼博物学者兼自然学者兼詩人(なんじゃこりゃ)、彼の生ある自然観にシンパするシェリー夫妻らロマン主義の作家たち、リードの言い方で「アンダーグラウンド心理学者」と呼ばれる人たちである。彼ら彼女らは、自然や物質にideaやfeelingが潜在すること、特に生き物の体内にそれがめぐり流れており、その液体はどうやら電気や力とも関係して生命を支えているなんてことを言い出した。死者の体をつなぎ合わせて電気流体を流し込めば、命が、身体が、魂が、知性が創造できることまで想像しちまった。そのため、アンダーグラウンド心理学は、無神論で唯物論の危ねえ思想だと正統派から睨まれ、ときには取締りの対象にもなった。

でもアンダーグラウンド心理学は、非公式な媒体を使ってジャンジャか広まっちゃった。こりゃヤバイってんで、公式側からもアバーブグラウンド心理学(リードはこんな言い方してません)が対抗的に登場してくる(ヴィクトール・クーザンとかトーマス・ブラウンとか。メーヌード・ビランは微妙な立ち位置)。神経の生理的機構と電気現象との関連性が発見され、反射機構の解明、生化学の進展、さらには、メスメリズムや骨相学やスピリチュアリズムを味方にしたり敵にしたり、無意識の思想も入り乱れ、フェヒナーの世界霊魂やロッツェのミクロコスモスの形而上学は切り捨て御免しながらも閾値測定や局所徴表のアイディアだけはちゃっかり取り込むなどなど、アバーブグラウンドに何本もの伏線が出入りするなかで、ついに十九世紀末、大学という場所に、研究対象を恐ろしく狭めて限定した「新」心理学が登場する(有名どころは、ヴント先生のライプツィヒ実験室)。しかも、新心理学の心観は、自己使命まっとうのため心の自律を重んじるリベラルなプロテスタンティズムの心観とうまくマッチしていた。宗教的信仰との相性も抜群だったのだ!

リードが語る「サイコロジカルなことの文化」形成史を駆け足で辿るとこんなふうになる。でもリードは、こんな心理学の来し方とそれに連なる現在の心理学に猛烈に怒っており、最終章でそれが爆発する。心理学が相手にする心やそのはたらきが、あまりにも偏りすぎているからだ。同時にそこでは、心理学への希望がウイリアム・ジェイムズに託して語られる。自己を縛り続ける軛から心理学は自由にならなくてはならない、心理学を開放せよ、もっともっと多種多様でたくさんの変異ある経験に対し心理学は門口を広げよ。生態心理学やギブソンという名前は一切登場しないまま物語は閉じられる。

原著出版から四半世紀、最初の邦訳が青土社から刊行されてからなんと二十年、訳文の修正と書誌情報の丁寧な訂正を経てリードの物語が甦った。素直に嬉しい。サイコロジカルなことの文化を変容させること、新たな心理学文化を作り出すこと──リードから託された大きな仕事をあらためて引き受けたい。

(染谷昌義)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2021年3月7日 発行