多和田葉子/ハイナー・ミュラー
日独を往還し、現代日本の状況を俯瞰的まなざしで批評し続ける作家多和田葉子と、ブレヒトの後継者にして最後の前衛アーティストとも呼ぶべき東独の劇作家ハイナー・ミュラー。『多和田葉子/ハイナー・ミュラー』は、そんな二人の名が「/」で横並びする。本体カバーに浮かぶミュラーの墓石を、鋭く見据える多和田の視線が透かし絵のように配置された装丁の美しさはぜひとも現物を手にして確認してほしい。ミュラーと多和田という二人の〈演劇的人間〉の交差点に光を当てようとする本書の試みが、この装丁に十分に示されている。
起点となっているのは、多和田が1991年にハンブルク大学に提出した修士論文「ハムレットマシーン(と)の〈読みの旅〉──ハイナー・ミュラーにおける間テクスト性と〈再読行為〉」の邦訳である。ミュラーが挑んだ戦後ドイツという歴史への「再読」と、多和田によるミュラーへの「再読」は、その立ち位置は大きく異なりながらも、創造の地平において相互に共鳴し合う。その共鳴の「重なり」、あるいは「ずれ」を縦横無尽に読み解くかのごとく、ベンヤミン、E・T・A・ホフマン、カフカ、ピナ・バウシュが持ちだされ、ジェンダー論、翻訳論、情報処理理論など、多様な文脈に身を置く論者が、それぞれの視点から両者の関係性を眺めている。その意味で本書は、文学にも演劇にも回収不能な両者の存在そのもののスケールを壊すことなく計測した、極めて挑戦的な論集ともいえる。
だが本書の挑戦はそれだけに留まらない。「演劇表象の現場」というサブタイトルにも主張されているように、本書はミュラーと多和田の関係を読み解くことの意味を、論集にのみに閉じてはいない。TMP(Tawada×Müller Project)として組織化されたプロジェクトは、気鋭の現代作家やアーティストたちの制作、演出といったクリエイションへと展開しており、本書後半部にはその中から登場した、台本、演出ノート等、ワークインプログレスな現場報告も収載されている。
このプロジェクトの牽引者であり、主編者である谷川道子は、自身の演劇研究の集大成ともいえる大著『演劇の未来形』(東京外国語大学出版会, 2014年)で多和田葉子にその未来形を見据え、そして託している。そんな谷川の想いを汲んだ形で実現した多和田葉子と高瀬アキによる2020年末公開された新作『ハムレット・マシーネ 零話バージョン』も本書に収載されている。「わたしはハムレットだった」という特徴的な出だしで始まるミュラーの『ハムレットマシーン』へのオマージュでもある本作の冒頭フレーズをここにチョイ出ししておく。
わたし だった ハムレット
わたし 立った 湘南海岸
押し寄せては砕ける波に向かって
本書に続き、同じく宗利淳一氏による魅力的な装丁で出版された『多和田葉子の〈演劇〉を読む』(谷川道子・谷口幸代編著、論創社、2021年1月刊行)は、TMPの第二弾の位置づけであり、本書とセットでぜひ比較していただきたい。こちらもまた、ミュラーと多和田という二人の演劇人の関係性を読み解く本書に続き、未来形の〈演劇〉へと広がる多和田文学の道筋を再度辿りなおすという大胆な意図をもった試みである。
(小松原由理)