エトルリア、彫刻の起源
最近、ファシスト政権下のイタリア美術における古代文明の受容に関心があって調べている。古代文明といっても、古代ローマのことではない。イタリアのファシスト政権が古代ローマ帝国に同一化のモデルを見出し、その意匠や儀礼を政治に利用したのはつとに知られた話であるが、当時の芸術家たちが称揚した古代美術とは、必ずしも古代ギリシアやローマの造形物だけではなかった。ここで触れたいのは、エトルリア美術の受容についてである。
エトルリアは、かつてイタリア中部に存在し、その後古代ローマによって滅ぼされた謎めいた文明である。この文明の造形物が20世紀の芸術に与えた影響に関しては、マルティーナ・コルニャーティによる研究が近年出版されているが、それによるとファシズム期のイタリアにおけるエトルリア美術への関心は、広範な作家に認められるものであったことがわかる*1。そのなかでも、アルトゥーロ・マルティーニ(1889-1947)は、恐らくもっとも自覚的にエトルリア美術を制作の糧とした人物だろう。画家のマリオ・シローニ(1885-1961)とともに体制を代表する芸術家として知られるマルティーニは、ファシスト政権の依頼で《アテナ》(1934−1935、ローマ大学サピエンツァ、図1)や実現しなかった《アオスタ公記念碑》(1934、ヴィットリオ・ヴェネト広場、トリノ)など、数々の公共芸術に関わった。その彼にとって、エトルリア美術はどのような意味を持っていたのだろうか。
*1 Corgnati, Martina, L’ombra lunga degli etruschi: Echi e suggestioni nell’arte del Novecento,Monza: Johan& Levi, 2018.
マルティーニのエトルリア美術への関心は、彼が1921年にローマへ移住したことに始まる。詳細は割愛するが、この頃にマルティーニは、ボルゲーゼ公園近くのヴィッラ・ジュリアにあるエトルリア博物館(現在のヴィッラ・ジュリア国立エトルリア博物館)に通い、博物館収蔵品の研究に没頭している。エトルリア美術は、造形的な観点からすれば、同時期のギリシア美術に比べ劣るものであると一般的には考えられてきた。だが、マルティーニは、むしろそうした点に、従来のアカデミックな芸術にはない価値を見いだしていったのである。数年にわたる研究を通じて、後に自身を「真のエトルリア人」と呼ぶほどに、マルティーニはその造形を自らの制作に内面化させていった。もっとも、彼がエトルリア美術から学んだのは、様式的な問題以前に、まずもって土という素材の可能性だった。ブロンズや大理石とは異なり、永続性を欠いたこの貧しい素材に表現を与えることこそが、彼が自らに課した課題だったのだ。
《星々(姉妹)》(1932年、図2)をはじめ、マルティーニの作品に頻繁に登場する素焼きの彫刻群には、彼のエトルリア研究の遠い反響を読み取ることができるだろう。この寄り添う二人の女性像は、テラコッタのざらつくような表面のマチエールが特徴的である。図像的にはフェイディアスによるパルテノン神殿の東破風の装飾彫刻の、ディオネとアフロディテの像(紀元前428-423年頃)が参照されていると考えられるが、肌に張り付くような薄衣の襞の表現は簡略化されていて、盛期クラシックのギリシア彫刻の特徴からはほど遠い。むしろそのアルカイックでヴォリュームのある横たわる身体表現は、エトルリアの石棺彫刻に近いように思われる(なお本作はもともとファシスト政権の御用建築家だったマルチェッロ・ピアチェンティーニのために制作されたもので、彼のローマ自邸の庭に設置されていた。しかし、政権の凋落後この屋敷は荒廃し、作品はローマ国立近代美術館に寄贈された。写真の左手で空を仰ぐ女性の右手首から先と、右手の女性の頭部の欠損は、その過程で生じたものである。)
マルティーニのこのような「エトルリア趣味」は、しかしながら、単なる影響や着想源という概念では捉えきれない、根深い意味を持つものだった。この点で、彼が後年にジーノ・スカルパに語った次のような言葉はとりわけ興味深い。
エトルリア人は大いなる壺作り職人だった。彼らはまるで甕のように人間の姿を引き出した。…〔中略〕
彫刻をつくりはじめたあらゆる民族が、はじめは空虚な彫刻をつくった。壺は、彫刻全体の起源にある。
偶然の刺激で、突出部が生まれる。そして彼らは把手をつけた。すると、ごらん、把手があると人間に見えてくる。それに蓋があると、頭だ。さらに突起がつくと、帽子だ。
実際、エトルリアの最初の彫刻は、頭のある壺だった。把手は、いつだって人間の姿のシンボルだ。*2*2 Martini, Arturo, Colloqui sulla scultura 1944-1945: raccolti da Gino Scarpa, Treviso: Canova Edizioni, 1997, pp.283-284.
この記述においてマルティーニが念頭に置いているのは恐らく、初期エトルリア美術に登場する骨壷(カノーペ)であると考えられる。たとえば図に示したキウジから出土した紀元前6世紀頃の骨壺(図3)では、蓋の部分が人間の頭部に、把手の部分が人間の腕に見立てられている。エトルリアの彫刻がこのような人間を象った骨壺の形態から発展していったという事実に、マルティーニは、彫刻の誕生に関する神話を読み取っているのである。しかも興味深いことに、ひとつの壺に、「偶然の刺激で、突出部が生まれ」、手を持ち、頭を備える——というこの一連の描写は、人間を象った彫刻が壺から発展したという歴史的経緯を語ると同時に、母親の胎内において受精卵が胎児へと成長していく過程をなぞっているようにも読むことができる。それ故、ここで説かれているのは彫刻についての歴史的な起源であると同時に、個としての人間=彫刻の存在の起源なのだ。ここからして、恐らくマルティーニとってエトルリア美術とはそもそも、「彫刻」という造形物のはじまりを指し示す手がかりだったのではないだろうか。
ただし、この彫刻の誕生に関する神話は、民族の神話ともまた危うく踵を接していると見るべきだろう。そもそも、20世紀初頭の古代文明への関心とは、民族の文化的起源を求めようとするイデオロギーと不可分なものである。エトルリア文明の遺産に対する考古学的関心は、ルネサンス以来の長い歴史を持つが、遺跡の科学的調査が進むのは19世紀のことであり、とくに第一次世界大戦の終わりからは、雑誌などを通じてこの古代文明に対する関心が高まった。画家のシローニがエトルリアに古代ローマよりも古いイタリアの民族的起源を認め、その造形性を擁護したように、マルティーニがエトルリア美術に惹かれていった背景には、自覚的であったかどうかは別にして、エトルリア文明を国家の「歴史」の中に位置付けようとする当時の言説が、少なからず影響していただろう。
それにしても、よくよく考えてみればこのマルティーニの「見立て」は逆説的だ。というのも、上述の仮定が正しいとすると、ここでマルティーニが胎児を重ね見ている「頭のある壺」とは、骨壺であり、本来死の儀礼に関係するものだからである。つまりそこには、生と死の逆転があることになろう。もちろん、現存するエトルリア彫刻のほとんどすべてが葬礼芸術であるという事実に鑑みれば当然なのかもしれないが、彼が1920年代にエトルリア彫刻を「再発見」し、それを近代性へと昇華させていく過程には、ひょっとしたら、死から生への移行を読み取ることができるのかもしれない。そしてそれは、マルティーニという一人の彫刻家の個性に帰されるべき問題ではないように思う。はるか昔に死した古代文明が、ファシズムの文化のなかで「復活」していく様相を、改めてたどる必要を感じている。
*本論は、小田原のどか編『彫刻2』(近刊予定)に所収の論考の内容と一部重複することをお断りしておきます。