トピックス:特別寄稿

コロナ禍と表象 見る、病む、怖れる──何を

田中祐理子

今般のコロナ・パンデミックは、世界についての私たちの認識に大きな揺さぶりをかけてくる。表象という視座は、そこにどう関わりうるのか。本学会の会員で西洋医学思想史/科学認識論を専門とし、著書に『科学と表象──「病原菌」の歴史』(2013年)や『病む、生きる、身体の歴史──近代病理学の哲学』(2019年)がある田中祐理子氏(京都大学)に寄稿いただいた。(広報委員会)


“The virus does not exist” で検索すると、8月16日にスペイン・マドリッドで行われたという「アンチ・マスク派」の大集会を報じる、様々なニュースサイトの記事を眺めることができる(一例としてフランス、RFIのもの。https://www.rfi.fr/en/europe/20200817-anti-maskers-in-madrid-demonstrate-spain-s-covid-19-restrictions)。

私は近年、科学的対象の可視性と実在性の関係を歴史的に考察する、というテーマにかかわっており、また特にこの夏は必要があってユクスキュルのUmwelt論──たとえば、「われわれ人間は、ウニの周辺にさまざまな物体が存在するのを認識する。しかしウニ自身に対しては、それらは独立した個物として作用することはまったくない」(『動物の環境と内的世界』、前野佳彦訳、みすず書房、一四六頁)といった文章──を読む日が続いていたので、”The virus does not exist”のような見出しを掲げられると、あっという間に読者として釣りあげられてしまう。

この“The virus does not exist”を見出しとして強調した元記事はAFPのニュースらしいが、これが転載の転載という形で、各国の媒体に同日のうちに拡散していった様子も、検索ページ上で興味深く辿ることができる。日本語でも「『ウイルスは存在しない』スペイン首都でコロナ抗議デモ」という記事が、主なサイトでひと通り紹介された。そこからまた「ウイルス 存在しない」や「感染症 存在しない」で検索してみると、ここからも展開して、新しい記事の網を読むことができる。確かに、「新型コロナウイルスによる重篤肺炎」の出現が報じられて以来、様々なものについてこの「存在する/しない」は論じられ続けていて、結論は出ていない。この結論は永遠に出ることはなく、異なる見解のなかで優勢なものとそうでないものとが、なんとなく人々のあいだに定着するだけのことにしかならないだろう。「本当のところ」は誰にも決められないからだ。

このように書くとしかし「トンデモ」くさいと、つい自分で嗅ぎ取ってしまう。その身振りが自分に定着していることを確認させられる。ユクスキュル的に言っても、またはガブリエル的に言ってみても、私自身はテレビや新聞に映し出される「新型コロナウイルス」の電子顕微鏡写真を見て、「微妙に新しい形状のコロナウイルスが人体に新しい影響をもたらしているのだな」と考える基盤を提供するような、なんらかの材料を知覚する生理を備えてしまっているうえに、いくつかの理屈を認識するようにこれまで意識を形成してきてしまった。そのため私にとって「新型コロナウイルス」はつい存在してしまうし、私がそのように世界を説明する言説を主体化して行使する以上は、「そのようなウイルス」の実在する「世界」が「ここ」には存在するということでもうよいのかもしれない。ただし、ではこのウイルスが生じさせる身体反応を「疫病」ととらえて怖れるべきであるのか、「ただの風邪」だと見なすのか、つまり「死につながるもの」とするのか、「生の一場面」とするのか、その「判断」にはゆらぎがある。さらには、WHOが重々しく「パンデミックとなる現実味が増した」とか、「パンデミックと宣言する」といった場合には、20世紀を生きてきた人間にとっては、そこには「人類共通の死の恐怖」を想定せよ、という指示を感じるものであるが(そしてこれに関しても私個人はその指示の影響を強く受けるようになっているが)、「そんなものない」という声はこのかんずっと、あらゆる言語で発され続けてもいた。そしてそれは、単に「トンデモ」であるだけではない意味を担う「存在」として、響き続けているものであるはずではないか。そのことを、まだ進んでいる最中であるこの過程のなかで、忘れずに意識し続けていたいと思っている。これらの「そんなものは存在しない」が、いま何を語るものであるのかを、記録しておきたいと思っている。それが何に行き着くべきものであるのか、まだ当てがないのだが。

それにしてもマドリッドの「アンチ・マスク」のデモがあれほど一斉に各国ニュースとして転載されたのは、ヨーロッパ内でのスペインの立ち位置として、あるいはそのキャラクターとして、他国から眺めるのにちょうどよかったからだろう。「ウイルスは存在しない」と叫んで、マスクをせず(もしくはなぜかマスクをして)、口から飛沫を飛ばし、1000人単位で首都の広場に集まって騒ぐとは、そして「マスクして街を歩くなんて、ゾンビみたいに暮らすことはできない」(https://www.npr.org/sections/coronavirus-live-updates/2020/08/17/903282953/we-can-t-live-like-zombies-protesters-in-spain-decry-covid-19-mask-mandate)とコメントしたりするとは、「高度に発達したマスク文化」と「自粛警察」を世界的にアピールしてしまった日本から見れば、いわゆる「ラテン」のイメージの見本図として見事すぎるくらいかもしれない。ざっと見た限りでは、“The virus does not exist”の検索で読める記事のなかで最も素直に、嘲笑的に、かつ多くの印象的な写真とともに念入りに報じているのは英国のサン紙で、近しい北方の島国の心性をつい思いたくなる気もしてしまう(https://www.thesun.co.uk/news/12424290/thousands-protest-brainless-coronavirus-hoax/)。このマドリッドでの出来事は、どこかで誰かが「見たいと思っていたもの」を見せてくれる、絶妙な配置を備えていたのではないだろうか(同日のベルギーのデモはここまで話題になっていない)。

「ウイルスが存在しているということを否定したいんじゃない。それに対処するためにとられた措置の方を否定したいだけだ」。同じマドリッドのデモの参加者から、そのようなコメントをとっている記事もある(https://english.elpais.com/society/2020-08-17/amid-rising-coronavirus-cases-around-2500-protest-in-madrid-against-the-use-of-face-masks.html)。そもそもこのデモは、スペイン中央政府が公共の場でのマスク着用を法的に義務化したことに対する抗議として起こった。その意味では、本来は他地域に例がない出来事ではまったくない。「マスク着用を公的権力が義務化する(「違反」すると罰金を科される)」ことに対して抗議しに来た人々のなかには、「マスクを着けるという判断」を自らの意志と分離することに対する拒否の声も確かに存在していた。だから彼らはマスクをしながら、マスクの義務化を拒んでいる。日常生活を覆うようになった「政府のウソが生んだ恐怖」を糾弾するものもあれば、「中国と5Gの陰謀」を告発したものもいる。「ウイルスを見てみたいものだ」というプラカードもあれば、「政治のウイルス」と書いたものもあったという。「8000人の老人が死んだからといって、この国の経済が止まってしまった」と主張したものもいたとされる(すべてEl Pais記事より)。これらの意見に対して、マドリッド知事は「brainlessな人間というのはいつでもいくらか存在する」と述べていて、このBrainlessの語は前述のサン紙の見出しに採用された。

目に見えないものを考え、それによって生じる害について、数多くの異なる意見が結局は決定的な解決を得ることのないまま、それでもなんらかの「対処するための措置」がとられなければならない。このような場面は、日本に暮らす人間にとっては、2011年に一度起こっていたものだろう。ある空間に身を置き続けてよいのか、その空間はもはや人が住んではいけないところであるのか、晴天の下で子供が遊んでよいのか、降ってくる雨に濡れてよいのか。透明の大気のもとで、「怖れすぎ」のものを嘲笑する声もあれば、「あるべき恐怖をごまかす政府のウソ」を告発する声も、私たちはすでに体験したことがあるものだろう。あのときにも(防御として有効である/無効であるの両方の意見に動かされながら)マスクは売れたはずだし、防護服で作業する人々の姿を日々ニュースで見続けたものだ。これまで人々が長く生き続けてきた空間が「暮らすことができない」ものになってしまったと嘆く声に対して、「暮らすことができないことなどない」という行き場のないような怒りを示す声もあった。いまでもそれは続いているのだが、多くの人間の日常生活からは、それらの実在は見えづらいものとなっている。透明の大気のもとで、人々は暮らし続けている。

「見えないもの」が生活空間に入り込んだときに、その生活空間は自動的に液状化するわけでもなく、しかも確かに、不可能と思われるときですらそこで生き続けるものが実際に存在する。それが内的には崩れているのか、あるいは「病んでいるのか」、誰が、いつ、真に判断することができるというのか。「本当のところ」はいまだに明らかになどなっていないが、なんとなく生きている私たちというものは、実際に日本のここにもいるのであって、そのようなことを思うと、「コロナ後」という何か異なる時代が来りうるのかといった、ときに高揚感をともなった問いかけにも、私はまだ及び腰にしか向き合うことができない。

ただし、現在の状況のなかで、とても「20世紀的」と呼びたいようなものの姿が際立ってあらわになっている、そしてあるいはそこから何か動くものがあるのかもしれない、という感覚をこのところ抱かずにいられないでいる。そのことだけ、これもまだ何の当てもないただの感覚でしかないことながら、この機会に書き留めておくことを許されたい。

「私は遺憾に思う。死ぬ人もいるだろう。彼らは死ぬ。それが人生だ。(I’m sorry, some people will die, they will die, that’s life.)」。これは、2020年3月28日にロイターが配信した、3月27日夜のブラジル大統領ボウソナーロの発言である。このロイターの記事も世界中のニュースサイトが引用したので、いまも数多くの媒体上に読むことができる(ロイター記事:https://www.reuters.com/article/us-health-coronavirus-brazil/brazils-bolsonaro-questions-coronavirus-deaths-says-sorry-some-will-die-idUSKBN21E3IZ)。

この発言も、「ブラジルのトランプ」と呼ばれたボウソナーロにあまりにも似合いすぎる。だからこそ、これだけすぐに多くの国で報道されたのだろうと納得できる。さらにその後ボウソナーロと妻、そして妻の関係疎遠だった祖母が同時期にコロナウイルスに感染したが、大統領夫妻は死なず、貧困層の居住地域にある病院で治療を受けた祖母は亡くなったということも報道された。

このボウソナーロの言葉を読んだときに、頭に思い浮かんだものがあった。ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし(Regarding the Pain of Others)』(2003)という著作、そのタイトルである。このタイトルこそ、自分の知る「時代」を表現するために最も切実で適切な文言ではないかと、私は近年ずっと考え続けている。

たとえば「1994年のルワンダの虐殺、数年後のシエラレオネでの革命統一戦線による市民殺傷、さらに最近のエイズによって全滅した村の家族」を映し出す写真についての、ソンタグの次の記述を思い起こす。

「これらの光景は二重のメッセージを運ぶものだ。それらは言語道断で、不正で、償われ回復されるべき苦痛を見せる。それらは、その場所で起こったこととはそのような類のものだったのだということを確認させる。そのような写真、そしてそのような恐怖を、どこにいても見ることができるということ(ubiquity)は、この世界のうちの未開で遅れた──つまりは貧しい──場所では不可避な悲劇というものがあるのだと信じさせずにはいない」(原語強調の必要のためRegarding the Pain of Others, 64より拙訳; 邦訳書は、北條文緒訳、みすず書房、70頁を参照)。

「不可避な悲劇」にどんな「対応」と「措置」をしておくか。20世紀の後半に生まれて、21世紀に入るころに「大人」となった「私たち」の時代を記述するのに、これほど適切な言葉があるだろうか。私たちはその悲劇についてたくさん語ってきた。私たちはその悲劇をいつだって真に眺めながら語ってきた。そのような痛みが現実に起こったのだということをよく知っていて、それを目撃してきていたのだ。写真の時代、映像の時代、「リアル」な音や振動すら感じながら、私たちはそれが「この世界のうちの場所」にあることをいつもどこでも知っていて、そしてもちろん、ちゃんと常に「対応」し「措置」し続けてきた。「悲劇」を目撃したものは反応し、行為し続けていたのだ。ただしそれが「不可避」であることは止められないと思っている。人間とはそういうものだから、残念なことながら──

その文脈から考えるとボウソナーロの発言は、私にとっての「私たち」の、ほとんど理想的な例文になるものだ。

日本の日刊紙上でさえ読むことができた、ボウソナーロの発言についての記事が伝えようとしたのは、しかし「彼らは死ぬ」と「彼らは言った」ということではないだろうか。そこにはおそらく、「悲劇」の構造に、新たな屈曲がもう一つ加わっていることだろう。「彼ら」は「彼らは死ぬ」のを「見る」。それを「私たち」は見る。そしてその事実に憤るかもしれない。「私たち」の「ここ」から。

そうして「私たち」はもう一度、これを「不可避な悲劇」として味わうのだろうか?死を眺め、死の恐怖を眺め、しかもその恐怖を川の「此‐彼」の両岸から投げ合うような、いまだ「未開で遅れた部分」たる「彼ら」が存在していることを、確かめて終わるというのだろうか。そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。

今回の「コロナ・パンデミック」が、まだ結末の閉じられていない「未完遂の出来事」として、可能性として含んでいるのは、この「彼ら/私たち」の間にいつだって気をつけて保たれてきた隔たりが、あるいは破れるかもしれないということだからだ。ボウソナーロも、トランプも、「私たち」の生活世界と地続きの場所に立ちながら、「彼らは死ぬ」と発話している。「彼ら」は「私たち」でもありうるものだ。「私たち」の生のシステムのある重要な一部として姿を現したこのような人物たちの率直な身振りは、「私たち」が「彼らは死ぬ」ことによって成り立たせてきたものを、「私たち」に向けて鮮やかに突きつける。「私たち」の生活システムの基部にかかわるところに忘れていた異物が入り込み、その回転がうまくいかなくなった場面で、綻びからこぼれ落ちてきたように、「言語道断で、不正で、償われ回復されるべき」と思われるようなもののubiquityが、いま「私たち」のさなかに目撃できるようになっているはずだからだ。

「私たち」は本来的に、「彼ら」であることがいつでも可能だ。もちろん「私たち」もいつだって、どんなウイルスによっても、死ぬことができるのかもしれない。少なくとも、いまはまだそのように「私たち」は「怖れる」ことがありうる──しかしボウソナーロ夫妻と祖母の形象した「此‐彼」の前で、その感覚は簡単に失われそうになるけれども。いま「私たち」である「彼ら」は「私たち」に向かって、「彼らは死ぬ」と言っている。その声を聴くことができるいま、その声を聴いてから、私はどこへ向かうか。向かう先に歴史があるとは限らないが、私はいま歴史のなかにいると感じている、それは確かであると思う。

(京都大学、西洋医学思想史/科学認識論)

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年10月20日 発行