オンライン研究フォーラム1

シンポジウム コロナ禍の文化と表現

報告:海老根剛

日時:2020年8月7日(金)19:30 - 22:00

秋山珠子(神奈川大学)
江口正登(立教大学)
奥村雄樹(アーティスト)
日高良祐(東京都立大学)
【ディスカッサント】毛利嘉孝(東京藝術大学)
【司会】門林岳史(関西大学)

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今回のオンライン研究フォーラムは、本来なら早稲田大学で開催されるはずであった表象文化論学会第15回大会が新型コロナウィルス流行の影響で中止されたことを受けて企画されたという。パンデミック状況下で一時的にであれ活動の中断を余儀なくされた学会が、その活動を再起動するとともに、この状況に含まれているかもしれぬ可能性を探求する試み、それが4日間にわたって開催された今回の研究フォーラムだったと言えるだろう。その意味では、本学会のメインの対象領域である芸術と文化を取り巻く現在の状況にフォーカスし、様々な制約のもとでなされている多様な活動とそこで生み出されつつある表現を主題とした本シンポジウムは、研究フォーラムの口火を切るにふさわしい企画であった。

最初に登壇した奥村は、ブリュッセルを拠点に活動するアーティストの立場から、3月18日に始まったベルギーのロックダウン以後の活動について報告した。奥村はまず、みずからの作品制作が翻訳家としての活動と密接な関係にあり、言語とりわけ人称を介して本来無関係な他者と入れ替わったり、他者に憑依したりする可能性を探求していると述べたうえで、物理的空間で他者と繋がることのできない状況下でみずからの活動がどのように展開したのかを、多くの資料を交えて紹介した。それらの活動は、オンライン展覧会への参画、Vimeo を利用した旧作の公開、Inventory というチャリティー企画への参加、現代美術に関する遠隔授業など多岐にわたるが、そこで奥村はロックダウンによって出来した状況に含まれるある種の「心地よさ」にくりかえし言及した。奥村によれば、その心地よさはロックダウン以後の社会に実現した「三隔」という状態と密接な関係にあるという。三つのタブーとしての「三密」に奥村が対置する「三隔」とは、(自己)隔離 quarantine、間隔 social distancing、遠隔 remote work を指しているが、個々人の生きる世界はおのずと隔てられており、個別の生の間にはつねに解消しがたい隔たりがあるという普遍的な現実が社会に実装されたこと、それが心地よさの正体なのではないかと奥村は語った。また、もともと展覧会場に展示される作品だけでなく、ブックレットやプレスリリースなども含めたコンテクスト全体を作品として扱うことを方法論としてきた奥村にとって、すべてのアイテムを同一平面上に展開できるオンライン展覧会のフォーマットは好ましいものだったという。Zoomを用いたオンライン講義で画面共有するときに生じる状況、すなわち私が見ている画面を他人が見ているという状況も、奥村にとってはみずからが作品で探求している他者への(による)憑依の経験にどこか通じるものがあったようだ。

「コロナ禍における舞台芸術」と題された江口の報告では、休業要請から劇場再開にいたるまでの舞台芸術を取り巻く状況の推移とそれに対する演劇界の対応を概観したうえで、「ソーシャル・ディスタンシング時代の演劇表現」の諸相について、事例の紹介と論点の提示が行われた。江口によれば、「生身の身体の集いの場」である劇場=演劇は、一般にソーシャル・ディスタンシング、リモート、オンラインといった要請とは根本的に相容れないとみなされているが、だからこそそうした想定への挑戦が様々な仕方で展開したという。劇場上演の配信の試みとして注目されるのは、シアターコクーンで制作された『プレイタイム』(構成・演出:梅田哲也、演出・美術:杉原邦生)である。この作品では観客を入れた一回限りの上演がライブ配信された後、特典映像を付けたオンデマンド配信が行われた。劇場が活動を再開するにあたって劇場という場所それ自体を主題化して提示するこの作品では、劇場の観客と配信の視聴者では見るものが異なっている。それゆえに作品の同一性や起源性の問題が提起されているという。一方、劇場での上演なしに純粋にオンライン用に作られた作品(オンライン演劇)では、多様な配信方式の選択が演劇的なライブ性をどこに見いだすかという問いに関わる論点になっていたと江口は指摘する。そこで取り上げられたのは、劇団ノーミーツ『門外不出モラトリアム』(脚本・演出:小御門優一郎)、屋根裏ハイツ『ハウアーユー/How are You?』(作・演出:中村大地)、dracom 『STAY WITH ROOM』(作・演出:筒井潤)、範宙遊泳『バナナの花』(作・演出:山本卓卓)、「『未来の幽霊のと怪物』の上映の幽霊」(作・演出:岡田利規)といった作品だが、人物を正面から捉えた映像を画面分割で示すというZoom的なフォーマットに対する多様な距離感が見てとれる。最後に江口はオンライン演劇をめぐる今後の論点として、(1)オンライン演劇を通常の演劇に対して副次的なものとみなす見方(「カニが手に入らないときのカニかまぼこ」by 宮城聡)の批判的検討、(2)パフォーマンス研究におけるライブ性の議論をふまえたオンライン演劇の分析を挙げ、劇場再開後の演劇=劇場における社交的機能の衰弱に注意を促していた。

中国のインディペンデント・ドキュメンタリー映画を研究する秋山は、「コロナ時代のアサイラム」と題された報告において、パンデミック状況下における中国のインディペンデント・ドキュメンタリー映画作家たちの活発な活動を紹介した。そこで秋山が強調するのは、ドキュメンタリー映画を含めた中国の非公式芸術の活動がすでにコロナ禍以前からある種の隔離状況を生き抜いてきたという事実である。秋山はそうした芸術表現のあり方を「壁と扉」というキーワードで要約する。2000年代半ば以降、現代美術シーンとの深い結びつきのもとでインディペンデント・ドキュメンタリー映画の活発な活動を支えたアートスペース CCD WORKSTA- TION の例を引きながら、秋山はそうした活動がつねに高い壁と扉によって外部から隔てられたスペースで展開してきたことを指摘する。高い壁で政治権力による介入から身を守りつつ、扉によって外とのつながりをコントロールする空間が、中国のインディペンデント・ドキュメンタリーの活動を支えていた。ところが、2010年代半ば以降、当局の規制が一段と強化され、壁が乗り越えられ扉がこじ開けられるようになると、インディペンデント・ドキュメンタリー映画の作り手は自己隔離の戦略をアップデートすることを強いられた。秋山によれば、コロナ禍に直面してオンラインに場を移した彼らの活発な活動は、そうしたこれまでの実践の延長線上にあるものとして位置づけることができるという。報告の中で秋山は、映画監督のチュー・リークンが立ち上げたZoom を利用したオンライン・プラットフォーム「現象工作室」 (Fanhall Films)やジャン・モンチー監督も参加する米デューク大学とのプロジェクト  「Riding through 2020」の活動を紹介していたが、ヴァーチャルな壁と扉を構築することで外部からの妨害やアカウントの停止といった介入に抗しつつ、しぶとく精力的な活動を展開する作家たちの姿は実に印象的であり、現象工作室のフォーラム主催者が秋山に語ったという「いま私たちの活動が活発に見えるとすれば、それは私たちがつねに隔離状態にあったからだ」という言葉にも納得させられた。

最後に登壇した日高は、みずからが関わった日本ポピュラー音楽学会の緊急調査プロジェクトの概要とそこで得られた知見を簡潔に報告しつつ、コロナ禍がポピュラー音楽に及ぼした影響とそれに対応する様々な動きを、音楽が鳴り響く空間としての「ハコ」をめぐる動向として整理した。日本ポピュラー音楽学会が本年4月に立ち上げた「新型コロナウィルスと音楽産業JASPM研究調査プロジェクト2020」(https://covid19.jaspm.jp)は、コロナウィルスの感染拡大によってハコ(ライブハウス、クラブ、DJバーなど)が被っている空間的制約を調査することを目的としていた。日高によると、そこで目指されたのは、(1)ハコ自体および周辺の仕事や文化へのダメージを記録すること、(2)「ミュージッキング」(クリストファー・スモール)の概念を念頭において調査対象をとらえ、(3)ハコの活動(営業)に関係する多様なアクターの広がりを可視化すること、そして(4)音楽産業としてカウントされずらい小規模なアクターの声を積極的に拾うことだったという。日高はみずからが行った調査を通じて、ライブハウスのようなハコはひとつのハブであり、それを中心にしてある種の生態系が形成されていることが見えてきたという。多種多様な仕事の集合体としてハコは存在しており、そこに関わる様々な人々の間で共有されたコミュニティの感覚によって支えられている。しかし、その集合体的、生態系的なあり方はときに行政による支援を難しくする。その意味で、小規模なハコを守り、支援するために立ち上げられた#SaveOurSpaceの活動には大きな意義があったと日高は指摘する。ハコを取り巻く生態系こそが音楽を支えているからである。日高はまた、ハコの制約に対する対応としてオンライン上にオルタナティブな空間を作る動きにも注目し、秋葉原MOGRAのMusic Unity 2020 のようなDJ配信イベントにおいて新しい映像表現と音楽の組み合わせが探求される一方で、チケット販売からプロモーションまでをパッケージとして販売する配信サービスへの大手企業の参入が相次いでいる現状を報告した。

以上4つの報告に続いて、ディスカッサントの毛利によるコメントと視聴者を交えた議論が行われた。毛利はまず今回の報告がいずれも産業化したメインストリームの表現ではなく、どちらかと言えば周辺的でエッジの効いた表現を扱っていたために、いまの状況をひとつの可能性として捉え直す議論ができたのではないかと指摘したうえで、3つの論点を提起した。第一に、コロナ禍は大きな断絶としてとらえられているが、実際にはそれ以前から存在していた問題が顕在化しただけだとも言えるのではないかという点。コロナ禍がもたらした空間の再編はそれまで見えなかったものを可視化していると言えるのではないか。また、コロナ禍はグローバル化と移動の産物でもあり、そこには自然とテクノロジーと人間活動の絡まり合いがみられる。そのなかで私たちはいま表現を支えてきた自然的・社会的インフラを再考することを迫られている。表現者はこの状況にどのように向き合っていけるのか。そして最後に、Zoomというプラットフォームに内在するある種の権力関係や感性の再編をどのように考えるのかという問題がある。Zoomは便利だが人間関係の新しい組織化を持ち込んでおり、私たちの思考回路を特定の仕方で限界づけている可能性があるのではないか。これらの毛利の発言を受けて会場からの質問も交えつつ活発な議論が行われたが、報告者としてはZoomのメディアとしての固有性をめぐるやりとりが興味をひいた。それがどんな表現ジャンルであれ、Zoomを用いるとすべてZoomのフォーマットに回収されてしまう(Zoom化してしまう)印象があるという発言があったが、逆に言うとZoomの使用は表現ジャンルの境界を曖昧にして混ぜ合わせ、なにやら既存のジャンルには収まりのつかない得体のしれない表現を生み出しているようにも思われる。いずれにせよ、現在進行形の危機(サドンストップ)を批評的な転回点ともなりうる中間休止として捉え返すための示唆に富んだシンポジウムであった。


シンポジウム概要

新型コロナウイルス流行下、文化や芸術はどのような状況を迎えているか。活動の場所が制約されている状況のもと、どのような制度的取り組みが行われ、また、そのなかからどのような表現が生まれようとしているのか。本シンポジウムでは、コンテンポラリー・アート、舞台芸術、映画、ポピュラー音楽の各ジャンルから登壇者を迎え、コロナ禍の文化と表現について討議する。ブリュッセル在住のアーティスト奥村雄樹氏には、コロナ禍におけるご自身の活動を中心にについて報告していただく。また、舞台芸術・演劇研究の江口正登氏、中国ドキュメンタリー映画研究の秋山珠子氏には、それぞれのジャンルが抱えている状況やそのなかで取り組まれている実践などについて報告していただく。ポピュラー音楽研究の日高良祐氏には、日本ポピュラー音楽学会が2020年4月にいち早く立ち上げた「新型コロナウイルスと音楽産業JASPM緊急調査プロジェクト2020」について報告していただく。さらにディスカッサントとして社会学者の毛利嘉孝氏を迎え、ジャンルを横断して共有しうる課題や展望などについて討議したい。

広報委員長:香川檀
広報委員:白井史人、原瑠璃彦、大池惣太郎、鯖江秀樹、原島大輔、福田安佐子
デザイン:加藤賢策(ラボラトリーズ)・SETENV
2020年10月20日 発行